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川上未映子・村上春樹「みみずくは黄昏に飛びたつ」

こんなすごいインタビュー、読んだことがない。

騎士団長殺し」を読んだ人なら絶対おすすめ!インタビュアーの川上未映子は、十代から村上作品の熱心な読者で、彼の小説はもちろん、エッセイやインタビューなどまで全部読んでいて、しかも、そのディテールまでもしっかり記憶している。世の中に「村上春樹検定」みたいなものがあれば優勝しそう。川上自身が、熱心な読者であること、そして自らも小説家であること。そのふたつが相乗して、彼女を理想的ともいえるインタビュアーにしている。インタビューの最後、村上の言葉が川上のインタビューの凄さを物語る。「しかしそれにしてもこれ、すさまじいインタビューだったなあ(笑)。あと二年くらい何もしゃべらなくていいかも。」インタビューの第一回目は、2015年、村上春樹の「職業としての小説家」出版直後に行われ、2回目以降は、「騎士団長殺し」完成後の2017年1月〜2月に、3回にわたって行われた。

真摯で、鋭く、執拗な問いかけ。

熱心なファンでありながら、自らも小説家である川上は、村上作品を肯定的に読みながら、真摯で、鋭い問いかけを、執拗に繰り返す。これには村上も答えざるを得ず、今までのインタビューでは見せなかった反応を見せる。川上は、過去に村上が書いたり、語ったりしたことを詳細に記憶していて、(ノートを作るなど、周到な準備をしていたせいかもしれない)それを引き合いに出して、村上を問い詰めていく。「そんなこと言ったっけ?」「おっしゃってます」。そのスリリングなやりとりは本書の読みどころのひとつ。例をあげて紹介したいところだが、これはもう読んでもらうしかない。川上のツッコミの例を一つだけあげると…。

「私は今、村上さんの自由さに震えています。」

第二章の「地下二階で起きていること」の中で、川上が「イデア」について村上に質問するところ。「騎士団長殺し」は副題があって、「上巻:顕れるイデア編」「下巻:遷ろうメタファー編」となっている。川上はインタビューのために、プラトンイデア論を予習してきて、「いわゆるプラトンイデアでいうと〜」と語り始めると、村上は、それを「知らなかった」と遮る。以下引用:、川上(あっけにとられて)「ほ、本当かなあ(笑)。わたし、このためにプラトンの『饗宴』と『国家』を、もちろんざっくりとですが、おさらいしてきたんですが…。」村上:「すげえ。嘘みたい。」川上:「だって副題見てくださいよ!イデアとメタファーって書いてるし…。(中略)」川上:「ーーー村上さん……あのですね、原稿書いてて、イデアって単語を村上さんが打つ、こうやってキーボードで『イデア』。イデアってまあ有名な概念じゃないですか。そしたら当然、『ちょっとイデアについて調べておこう、整理しておこう』みたいなこと、考えませんか?」村上:「ぜんぜん考えない」川上:「それは本当ですか。」(中略)「私は今、村上さんの自由さに震えています。」以上引用終わり。この部分は一番極端な箇所だけど、こういうツッコミ&ボケみたいなやりとりが頻繁が出てくるのである。こんな面白さはとうてい説明できない、本当に読んでもらうしかない。僕が気になった部分の感想を書いて、この文章をおしまいにしよう。

悪について。

村上春樹の小説の中で、僕が注目しているのが「悪」の存在。本書の中で、彼女は村上作品の「悪」について3度問いかけている。「ねじまき鳥のクロニクル」あたりから始まり、「アフターダーク」、「海辺のカフカ」にも登場してくる「悪のようなもの」は、「1Q84」では複層化していくという。川上は「形がどんどん変わって、ビッグ・ブラザーはもう出る幕はなく、リトルピープルの形をとる。」と解釈してみせる。そして「騎士団長殺し」では、「悪」というか「悪い場所」が、これまでにない形で描かれているという。例えば、免色という人物。彼は作品の中で、ある種の悪を感じさせる存在であるが、最後まで、彼のポジションは曖昧なままだ。「白いスバルフォレスターの男」も、何らかの「悪」を表していると思うが、不明瞭なまま終わっている。「騎士団長殺し」において「悪」はどのような意味を持っているのか?「免色」は果たして「悪」なのか、「白いスバルフォレスターの男」が示す悪は、どのようなものなのか?しかし問われた村上は、自分にもよくわからないと、明快な答を語らない。免色らしき存在が、まりえの潜んだクローゼットの前にじっと立っているシーンについて、村上は、「小説的に、物語的には説明できるけれど、意味的には説明できない。それを説明してしまうと小説にならない。評論家が意味的に説明しようとするが、それは評論家の勝手というか自由であって、作者には何も言えない。読者もまた好きに考えればいい。僕の役目はテキストを提供するだけだから」と突き放す。結局、悪についての議論は噛み合わないまま、話の焦点がずれていき、結局、村上の創作の方法論になってしまう。

本書に「騎士団長殺し」の解釈を期待してはいけない。

本書の中で、もっとも多く語られる話題が、村上春樹の「創作の方法」についてであると思う。村上は、作品を、ストーリーなど、プランを立てずに書いていくという。ストーリーや構成をあらかじめ考えておくのではなく、毎日、必ず十枚書くことを自分に課すことで、物語を生み出していく。そして、そこに登場する人物や出来事が、どのような意味を持っているのかは、書いている間は、村上自身にもまったくわからないのだという。村上は、その創作の過程を、しばしば「地下2階」に降りていくと語ってきた。地上1階が、いわば日常の生活。地下1階が、自我や自己の世界、そして地下2階が、いわば集合無意識の世界。それは神話や物語につながる世界である。作家が地下2階に降りて、物語を紡ぎだしていくのは、大変な労力を伴い、危険でもあると、村上は語ってきた。川上は「でも、書いているうちに、ストーリーやディテールの意味がわかってくるのではありませんか」と聞くが、村上は「そんなことはない」と言い切る。しかし書いてる本人が、自らの作品の意味を理解していないなんてありえるだろうか…。川上にどれほどつっこまれても、村上は決して自らのスタンスをくずさない。本書に「騎士団長殺し」の中の様々なエピソードやディテールの解釈を求めてもがっかりするだけだ。日本文学の中でも極めて特異な現象である「村上春樹という作家」に、彼の作品を熱愛する若い作家が、こわいもの知らずで切り込んでいった、その丁々発止を楽しむ本なのかもしれない。最後の章の、まとめに入ったところでの川上の言葉が本書の内容を物語っている。(以下引用)「準備段階で用意したものはーーー基本的にほとんど役に立ちませんでした(笑)。というのも『あれはこうですね、これはこうなんですね』というような、ある意味で常識的な『読み』のようなものが、村上さんと小説について話すにあたって、ほんとに使えなかった。わたしのノート、見てくださいよ……年表はもちろん社会的出来事との相関図、『騎士団長殺し』の絵も描いてきたんですよ……作りながらね、これまったく意味ない可能性あるよね、とは思っていたんですが、正直に言って、まさかここまで意味ないとは思っていなかったです(笑)。」(以上引用終わり)