阿古真理「なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか パンと日本人の150年」NHK出版新書

このところ仕事の資料で洋菓子とパンの本ばかり読んでいるが、その中で出会った出色の一冊。昨今のパンブームを取り上げたグルメ本の類だと思って読み始めたが、本書に描かれているのは、パンの歴史だけではない。パンを含む食文化はもちろんのこと、生活、産業、宗教、戦争までも視野におさめた日本の近代史そのものである。その視野の広さと造詣の深さにグイグイ引き込まれ、一気に読み終えた。250ページほどの新書だが、読後の印象は、ぶ厚いノンフィクションを読んだような充実感がある。

何度目かのパンブーム。

現在は、何度目かのパンブームであるそうだ。各地で本格的なフランスパン(硬いパン)を売る店が生まれ、パンのイベントも開かれるようになっているという。さらに日本に暮らす外国人にとっても日本のパンは美味しいと評判だという。なぜ日本のパンは、こんなに美味しくなったのか?本書は、わが国におけるパンの歴史150年を丹念にたどることでその理由を見つけようとする。しかしパンが日本に入ってきて今日のように普及するまでの道筋はひとつではなく、驚くほど多くの国や人々が関わって、同時多発的に進行してきた物語の集合体である。本書を要約しようと試みたが結構むずかしい。時系列に沿って書かれていないからだ。日本におけるパンの歴史は、同時多発的であると同時に社会や暮らしの様々なレベルで進んできたと言える。本書を読んで興味深かった点をあげると…。

パンと戦争。

日本人がパンと最初に出会ったのは戦国時代らしいが、本格的なパンづくりがはじまるのは幕末である。パンはまず兵糧として注目され、長州、薩摩、水戸、幕府がパンの研究を始めた。戊辰戦争では函館の五稜郭攻略の際に兵糧パンが準備され、西南の役では軍用パンが用意されたという。パンはコメに比べ携行性に優れ、調理の必要もなくどこでも食べることができ、消化もよく、しかも大量に製造することができた。日清・日露の戦争では、大量の脚気患者が発生し、その予防や治療にパンが効果があるとされたこともパンの普及を促したという。その後も戦争は、様々な形でパンの普及に関わっていく。第一次世界大戦では日本はドイツと戦い、多くのドイツ兵が捕虜として連行され、各地に収容所ができた。その中にパン焼き職人がいて、彼らが日本のパン製造者にアドバイスをしたことで本格的なドイツパンの製造がはじまったという。捕虜の一人であったハインリッヒ・フロインドリーブは、戦後、敷島製粉(後の敷島製パン:現在のPASCO)の技師長として迎えられ、本格的なパン製造に貢献する。さらに同社を辞めた後、神戸で現在につながるパン屋の「フロインドリーブ」を立ち上げる。洋菓子の「ユーハイム」も、ドイツ人捕虜だったカール・ユーハイムが横浜で創業し、関東大震災を逃れて神戸に移転したのが始まりである。またロシア革命を逃れた亡命者が始めたのが、「モロゾフ」、「ゴンチャロフ」という、現在につながる菓子メーカーである。神戸にパンや洋菓子が早くから根付いたのは、戦争の捕虜や、ロシア革命を逃れた亡命者の活躍によるというのが面白い。戦争をはじめとする大きな出来事は、人々の生活に大きな影響を及ぼしてきた。関東大震災米騒動もパンの歴史に大きな影響を残している。

あんパンとカレーパン。

著者は、日本におけるパンの普及と発展にあんパンが果たした役割は大きいという。明治2年、武家の次男であった木村安兵衛は、現在の新橋あたりで文英堂という名のパン屋を開く。パン焼の職人には、長崎出島の異人館でコックとして雇われていたという梅吉を採用した。しかし店は大火に巻き込まれ、翌年、京橋区尾張町(現在の銀座)で木村屋として再出発する。当時、パンの製造は横浜が中心であった。横浜には日本最初のビール工場があり、パン作りに不可欠な酵母を入手しやすかったからである。横浜から離れた都内では酵母の入手が難しく、木村屋は、日本酒の麹を使用することにした。しかし日本酒の酒だねはビール酵母のホップスだねに比べてあまりふくらまないので硬くなってしまい、全然売れなかった。そこで木村親子は日本人に向いたパンができないかと苦心の末に生み出したのが、まんじゅうのようにあんこを包んで作る方法だった。6年の歳月を費やして生まれたあんパンは、まさに日本人が好むパンだった。あんパンの存在があったから日本人はパンを受け入れ、そして後に、様々な具を包むバラエティ豊かなパンへと発想を広げる土壌ができたのではないかと著者は考察する。ジャムパンやクリームパン、メロンパンの誕生をめぐるエピソードも興味深い。あんパンが広がる最初のきっかけとなったのは明治天皇が食べられたことだというエピソードも面白い。あんパンに代表される菓子パンとカレーパンに代表される調理パン(惣菜パン)は日本で生まれた独自のパンである。それらのパンはなぜ日本で生まれたのか?

日本人が好きな柔らかいパンのルーツは、中国からの「粉もの文化」?

日本人のパンの好みは2つに分かれる。コッペパンのような柔らかいパンとフランスパンに代表される硬いパン。圧倒的に多いのは柔らかいパンである。なぜ日本人は柔らかいパンを好むのか。米を主食とする和食文化のせいではないかと言われているらしいが、著者はさらに中国発祥の粉もの文化の影響ではないかと考察する。明治以降に入ってきた肉まん、ラーメン、餃子などに共通するのは、柔らかい食感と具を一緒に食べる点である。中国では、具を包んで蒸す料理「包子:パオズ」の長い歴史がある。そして平安時代に宋から伝わった饅頭も、柔らかい生地で餡を包む菓子であった。和食の基本形は一汁三菜といわれるが、庶民の間では、長い間、うどん、すいとんなど、小麦粉を用いた粉ものと野菜などを一緒に煮込む一品料理が主食であった。明治以降に生まれたカレーライスやカツ丼など、ご飯とおかずを一体化した一品料理も、その延長線上にある日本独自の食スタイルであるという。あんパンやカレーパンなど、日本独自のパンの進化も、この潮流の中で生まれてきたものだ。

神戸とパン。

ドイツ人捕虜であったフロインドリーブがパンの普及に大きな役割を果たした神戸は、その後もパンの歴史の重要な舞台となる。パリの国立製粉学校の教授であったレイモンド・カルヴェルは、退官後、世界各国を回ってパンづくりを指導した。日本でも1954年に、70日間、全国17カ所で業界向けに講習会を開いた。この時、最も注目されたのがカルヴェルが披露したバゲットだった。「皮はパリッと硬いのに、中はしっとりとやわらか。身にはぼこぼこと不規則な穴が開き、えもいわれぬパンのよい香りがしていた」本物のフランスパンに出合った人々が誇張ではなく感涙にむせんだという。その中に、当時33歳、ドンクの藤井幸男がいた。講習会の後、藤井はカルヴェルを神戸の自分の店に招き、パンづくりの指導を仰ぐ。その10年後、カルヴェルは再度来日し、講習会を終えた後、ドンクに立ち寄る。カルヴェルは、その足でフランス大使館に立ち寄り、翌年に日本で開かれる見本市にフランスパンのブースを設けるよう掛け合う。藤井幸男は、見本市で使用する機械をドンクで引き取り、来日するパン職人とも契約を結びたいとカルヴェルに申し出る。日本に行く職人として選ばれたのが、22歳のフィリップ・ビゴだった。1965年4月東京・晴海で開かれた国際見本市でフランスパンづくりのデモンストレーションはテレビ中継までされ、大盛況となった。見本市の後、約束通りビゴはドンクに招かれる。6月には神戸に蒸気の出るオーブンを入れたフランスパン工場も完成する。当初は「こんな硬いパン、食べられませんわ」などと言われながらも、神戸の人たちに受け入れられていく。翌年、爆発的なブームを作った青山店がオープン。ビゴは、神戸、青山を立ち上げた後も、全国にチェーン展開する20カ所以上を回る生活が続いていた。そして1972年、ドンク芦屋店を「ビゴの店」として独立オープン。一躍、人気店となる。ビゴの店では、後に活躍する多くの職人が育ったという。

 広島とパン。

広島も、パンの歴史において重要な役割を果たしてきた。広島県は山地が多く平野が少ないため、戦前はアメリカなどへ多くの移民を出したという。移民たちは現地に定住せず、お金が貯まれば生まれ故郷に帰ってきたという。アメリカで身につけた技術を持ち帰る者も多く、その中にパン屋もあった。また日清戦争で軍の大本営が置かれ、その後も軍の重要な拠点だったせいでで、兵糧パンが大量に作られたことが製パン技術の向上に役立ったという。陸軍の情報将校だった高木俊介と妻の彬子は戦後間もなく広島市でパン屋「タカキのパン」を開く。彼が売り出したイギリス式の山形食パンが評判となり、県内で委託販売の店舗を20店舗近くまで拡大、1951年には株式会社化した。「タカキベーカリー」の名の卸売は現在の「アンデルセングループ」の柱となる。高木は、当時珍しかったサンドイッチのイートインスペースを設けた直営店「パンホール」を開き、食事用パンの普及に努める。また客がトレイを持ってパンを選ぶセルフ方式も高木が生み出した。また工場で大量に製造し冷凍したパンを店舗に配送して焼くベーカリーチェーンを日本で最初に始めたのもアンデルセンであった。

パンとキリスト教

著者によると世界でパンが普及している地域はキリスト教が勢力を広げている地域と一致しているという。キリスト教徒にとってパンは単なる食品ではない。新約聖書の「マタイ福音書」の中だけでもパンのエピソードが7回出てくる。また最後の晩餐のエピソードで、キリストが、出されたパンを祝福して割き、「これは私のからだである」と言い、ワインを「多くの人のために流すわたしの契約の血である」という。そして弟子たちとの食事中に捕らえられ、処刑される。

現在のイラクアフガニスタンクウェート、シリア、イスラエルパレスチナなどを含む「黄金の三日月地帯」で、紀元前4000年頃にパンの歴史は始まったという。その後エジプトに広がり、さらに勢力を伸ばしてきたギリシアに伝わる。その後、繁栄を極めた古代ローマでも、パンは主食になった。紀元前30年頃には帝国内に329カ所の良質な製パン所があり、すべてギリシア人が経営していた。ローマにはパンの職人学校があり、特許の組合組織も定められていたという。パンづくりは西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人などにも伝わり、ヨーロッパ全体がパン食文化圏になっていく。312年、教徒の拡大によって東ローマ帝国キリスト教を公認すると、製パン技術は、パンとワインを神聖なものとする価値観とともにヨーロッパに広がっていった。中世初期には修道院が風車を備え、粉挽きとパンづくりも担っていた。

日本におけるパンの普及にもキリスト教は関わっている。明治期、宣教師が学校を次々に作ったが、それらキリスト教系の私立校でも給食はパンだったという。京都の老舗パン屋である「進々堂」も、学生時代、内村鑑三に師事した続木斉と同志社女学校を卒業したハナ子が始めた。東京、文京区の「関口パン」も小石川関口教会が、経営する孤児院の子供たちに手に職をつけさせようと発足させた「製パン部」が始まりであるという。

給食のコッペパンはアメリカの陰謀?

日本人が柔らかいパンを好む背景に、戦後の給食のコッペパンが影響しているという説がある。その背景にアメリカの政策があったとするのが、2003年発売された鈴木猛夫著『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』である。同書によると、戦後の日本人の食生活が肉や油脂、乳製品やパンを摂る方向へと大きく舵を切ったきっかけは、アメリカが余剰小麦を日本に援助し、小麦輸入の道を拡大させたことだ。厚生省、農林省、文部省などが協力してそれぞれの外郭団体がアメリカから資金を受け、小麦の市場開拓のために取り組んだ。学校給食も、戦後占領期のアメリカの食料援助に始まり、独立後も、パンの学校給食を維持する条件で4年間小麦を援助する約束をし、パンが給食の主食となった。著者は、同書以外の書籍や資料を読んで、検証を試みる。第二次世界大戦で戦場とならなかったアメリカは大量の余剰小麦をを抱えこんでいた。戦後すぐはヨーロッパへの食料援助を行っていたが、ヨーロッパが復興すると自国の農業を守るために援助中止を望むようになった。そこでアメリカはアジア地域に目を向ける。アメリカが日本に対して行った援助は「米国が日本に小麦食を売り込むと同時に、反共産主義の砦として日本に再軍備させるための資金の一部を、小麦の日本国内での売却益でまかなおうという米国の思惑を反映したものだった」という。アメリカの小麦戦略は確かにあった。しかし、その結果日本人の食生活のスタイルを変えたことについては別の問題として考えるべきだろうと著者はいう。

本格フランスパンブームが始まった。

2000年代初頭、神戸文化圏から東京へ来たばかりの著者は、おいしいパン屋さんを見つけるのに苦労したという。『おいしい食パンを売る店はあるが、大好きなフランスパンを置いている店があまりないのだ。たまにバタールを売っている店を見つけることはあるが、買ってみると皮が柔らかめで「ちょっと違う」と思ってしまう』その東京で、ここ数年異変が起きているという。『フランス語でパン屋を意味する「ブーランジェリー」を名乗る店があちこちにできている。置いてあるパンの種類は少なく、単価は高め。コッペパンサンドが見当たらないかわりに、カンパーニュのサンドイッチがある。バタールよりバゲットの存在感が強く、もちろん皮は硬い。都心にはフランスから日本に上陸した店もふえてきた。一方、住宅街の一角や商店街の空き店舗などに間口も奥行きも小さいパン屋ができてきた。オーナーは若い女性が多く、スコーンやジャムなども置いている。ハード系パンはあるが食パンがない場合がある。品揃えが少なく、パンの形が、どこか素朴。値段はやはり高め』経産省の商業統計によるとパンの製造小売の数は1997年の1万2千百店をピークに減少を続けていたが、2012年から2014年にかけて1459店増加している。そんな潮流を消費者が敏感に感じ取り、パンブームが始まった。ブーム到来を決定づけたのは「Hanako」2009年11月12日号で「東京パン案内」という特集が組まれたこと。2011年10月には世田谷区・三宿で地元の人気パン屋を集めたイベント「世田谷パン祭り」が始まったこと。2013年秋には、表参道の国連大学前で週末に開かれる「青山ファーマーズマーケット」の中で、年に何回か「青山パン祭り」が開かれるようになった。パン屋情報も増えている。雑誌やムック本、テレビの情報番組でパン特集が増えてきた。SNSを利用してインターネットで発信する人も増えてきた。

リーマンショックの後。

パンブームが始まったのは2008年のリーマンショックの後だという。「前段として2000年前後のデパ地下ブームに伴って発生したスイーツブームがあるという。平成不況のどん底で流行りはじめたスイーツは、ファッションにあまりお金をかけられなくなったが、トレンド消費への欲望を満たしたい人々の心理を反映していた」という。しかしデパ地下で売られるスイーツは、気軽なおやつとしては値段が高い。ブームが一巡して冷めたところへ、再び大きな景気の後退が起こった。それでも、単に空腹を満たすだけではない食への欲望は消えなかったという。そんな人たちが発見したのが、ちょっと高級だがスイーツよりも手軽に食べられる、話題の店のパンだった。スイーツブームの時と違うのは情報が格段に増えたことだ。地域に点在するパン屋の情報をインターネットやマスメディアを通じて発信するのはパンマニアたちだ。パンマニアが登場する背景には、1970年代以降、充実の一途をたどる外食店の存在があるという。外食慣れした世代が社会の中核を占めるようになってきた。そしてパンマニアを育てているのはクオリティを上げ続ける日本のパン屋である。高いパンもおいしければ売れるきっかけを作った「VIRON」、フランスから上陸してきた「PAUL」「メゾンカイザー」のケースを紹介する。

 

米とパン。主食が逆転

コメの消費量は、1962年をピークに減り続けている。2011年には、総務省家計調査による一世帯あたりのパンの購入金額がコメを上回ったという。日本人が、ご飯の替わりにパンを主食にするようになったと騒がれた。しかし、著者は、家庭におけるコメの用途がほぼご飯を炊くことに限定されるのに対し、パンはおやつ用も含まれるため、必ずしも主食としてご飯を食べる回数がパンより少なくなったことを意味していないだろうという。著者は、さらに、日本人の食生活そのものが大きく変化しているせいではないかという。私たちは「おかず食い」になって、ご飯をあまり食べなくなっている。人々はまずご飯のお替わりをやめ、やがてご飯自体を食卓に載せなくなっている。「まったくご飯を口にしなかった日が思い当たるだけで何日もあるという現役世代は少なくないだろう。(中略)朝はパンで昼は麺類で夜は居酒屋でつまみだけ、という日はないか。(中略)ご飯はすっかり添え物になっているのだ。ダイエットをしなくても、私たちはとっくにご飯なしの日常を送っている。」

本書の面白さは、もうひとつの自分史をたどれること。

食品のひとつに過ぎないパンの歴史をたどることが、こんなに面白い読書体験になるとは思わなかった。僕のコピーライティングの師匠であるM司政官が昔、こう言ってたことを思い出した。「何かひとつだけでいいから、小さなことでいいから、それについて隅から隅まで知っているモノを持ちなさい。その「小さな世界」と「世界」は通底しているから、「小さな世界」をよく観察しているだけで「世界」で何が起きているか、わかるのだ」本書は日本におけるパンの歴史だが、歴史の本を読むよりも、たくさんの気づきや発見がある。そして、パンを通して歴史を見る視点は、間違いなく庶民の視点なのだ。しかも最近の半世紀ほどは、自分史とも重なっている。給食のコッペパン、あんパンやカレーパンの思い出、そして神戸のドンク、フロインドリーブ、ビゴのパンも、その匂いや味が、それを食べた時代の記憶とともによみがえってくる。