ウィリアム・ホープ・ホジスン「グレンキャリグ号のボート」

個人的な趣味の本の話。翻訳されるのを、40年近く、待ちに待って、待って、待ちくたびれて、諦めてしまっていた作品。英国の怪奇小説作家ウィリアム・ホープ・ホジスン(1877〜1918)の、ボーダーランド三部作と呼ばれる長編シリーズのひとつ。ナイトランド叢書から「幽霊海賊」「異次元を覗く家」に続いて刊行された。「幽霊海賊」と同様、ファンから翻訳が熱望されていたが、今日に至るまで実現しなかった。翻訳が待ちきれず、ホジスンファンの一人が、かなり詳しいあらすじという形でweb上に公開したものを読んだりしていた。まさに待ちに待って、待ちくたびれての刊行である。これでボーダーランド三部作が完結する。ほんとうに感慨深い。カバーの絵は、「幽霊海賊」「異次元を覗く家」と同じ中野緑さん。ホジスン作品だけではなく、シリーズ6冊とも彼女が手がけている。ちょっと萌えが入った絵は個人的には好みではないが。

読書日記「幽霊海賊」http://nightlander.hatenablog.com/entry/20150731/1438317124

冒頭から、いきなりホラー全開。

冒頭から、いきなり、主人公たちは救命ボートの上にいる。グレンキャリグ号が南の海で座礁、沈没し、乗組員たちは2艘のボートに分乗して漂流している。もう5日も陸を見ていない。6日目にようやく陸を発見し、近づいていく。やがて河口を見つけ、水を求めて河を遡っていく。しかし、何かがおかしい。土地は低く、低い樹木が茂り、藪が生えているが、生物の気配がまったくない。鳥も飛ばず、カエルの鳴き声も聞こえてこない。いくら遡っても、水は海水のままで、淡水にならない。

生きている肉

夕暮れが近づいた頃、周囲からむせび泣くような声が聞こえてくる。声は、呼応しあうように陸のあちこちから響いてくる。さらにその声に混じって、大きな動物らしい咆哮が聞こえてくる。夜が来ると、声はますます激しくなり、近づいてきて、ボートを取り囲む。船員たちは恐怖に怯えながら朝を待つ。夜が明けると、声たちは消えてゆく。さらに河を遡ると、支流の上流で岸に乗り上げて動けなくなった船を発見する。主人公たちはこの無人の船に乗り込み、食料などを探す。幸い食料は見つかるが、水はどこにも無い。船内で見つかった日記に、近くに真水の泉があるという記述があった。やがて夕方が近づくと、あの声が聞こえてくる。船乗りたちは、無人船の一室に立てこもって、夜をしのごうとする。果たしてその夜、怪物がやってくる。例によって怪物の詳細な姿は描かれていない。恐ろしい咆哮、大雑巾を引きずるような音、そして船室のガラス窓に貼りついた怪物の体の一部の描写が「生の牛肉からなる幾重もの肉襞だった」。

人面樹、人食い樹。

怪物の襲撃をしのぎ、ようやく朝を迎えた一行は、真水の確保のために上陸する。ほどなく真水の泉を発見するが、周囲には妖気が漂っていて船乗りたちを怯えさせる。大急ぎで水をボートまで運び、積み込み終えた頃には、夕暮れが近づいていた。主人公は、ボートに乗り込もうするその時、泉に武器の長刀を忘れてきたことを思い出す。すると一番若い見習い水夫のジョージが、自分が取ってくると叫んで、泉に向かった。水夫長がやってきて、少年を泉に行かせた主人公を叱り、自らは泉に急ぐ。主人公も一緒に、泉にたどり着く。しかしジョージはいない。水夫長がジョージの名を呼ぶと、離れたところから返事が聞こえた。走り寄って、ジョージを捕まえると、ジョージは長刀で何かを指し示した。主人公たちが、示された先をみると、木の幹にへばりついた一羽の鳥のようなものがあった。それは紛れもなく木の一部であったが、細部まで鳥の姿をしていた。水夫長が、ジョージに、なぜ、こんな先まで来たのかと問いただすと、彼は木立の間から「声」が聞こえてきたのだという。声を探して、ここまで来たところで、この「鳥」を発見したのだという。3人は急いでボートに戻ることにした。日は暮れようとしていた。そして、遠くから、あの、すすり泣くような声が聞こえてきた。その時、3人は異様なものを目撃する。それは木であった。木の幹に人の顔がついている。しかも幹の反対側には女性の顔が付いているのだ。その木が3人に向かって泣いたように見えた。水夫長は恐怖に駆られて、刀で木を斬りつけると、驚くことに赤い血液が流れ出た。木は悲痛極まりない声で泣きわめき、悶えはじめた。周囲の木も一斉に泣きながら揺れ始めた。すると枝の先についていたキャベツのような実がヘビのように主人公たちに向かってきた。襲ってくる「実」を長刀で切り捨てながら3人はボートへ走った。ようやくボートに飛び乗ると、大急ぎで岸を離れ、河を下った。一行は海に出てようやく一息つくことができた…。しかし、この冒険は、ほんの序章に過ぎなかった。一行はとてつもない大嵐に襲われた後、さらに恐ろしい海域に入り込んでいく。

帆船時代の階級社会。

本書を読んで、興味深いのが当時の船乗りの世界の階級だ。主人公は、いわゆる郷紳階級に属する若者であり、グレンキャリグ号の客である。いっぽう遭難した船乗りたちの指揮をとるのは水夫長である。船長は座礁・沈没の際に死んだか行方不明になっているらしい。水夫長は、すべてを知り、判断し、決断する。その知識・知性ともに群を抜いて優れている。彼の命令は絶対であり、船の客である主人公もそれに従わなければならない。無事に脱出できた後、水夫長は、主人公を自分の指揮下に置くのをやめ、客として遇しようとするが、主人公は、それを拒否し、港に帰りつくまで、乗組員の一人として扱うように求める。また当時は、文字の読み書きができる者が少なく、他の船との手紙のやりとりも文字が書ける主人公や他の客が受け持つことになる。文字の読み書きができるということは、現代なら無線通信の資格を持っているぐらい貴重なスキルだったのだろう。

ホジスン 海洋奇譚の集大成。

ホジスンは、13歳の時から見習い水夫として船に乗り、 苦労を重ねて航海士になった。その時の体験を活かして、海洋を舞台にした怪奇小説を多く書いているが、本書は、その集大成といえる作品。船を閉じ込めて航行不能にする海藻の海、巨大なキノコに覆われた島、不気味な難破船、人を襲う巨大なカニやタコ、正体不明の凶暴な怪物、人 食い植物、人面樹、海藻人…。これまで短編作品の中でしかお目にかかれなかった怪異のオンパレードである。昨年翻訳された「幽霊海賊」が、幽霊船や幽霊のような 超常現象を描いたの対して、本書は、南の海のどこかに存在するかもしれない秘境を描いた作品であるといえる。この2冊を読めば、海洋怪奇小説のほとんどの要素が網羅されていると思う。しかし、本書にはホジスンの大きな特色のひとつである、宇宙的ともいえる壮大なビジョンは感じられない。「異次元を覗く家」や「ナイトランド」の世界だ。ホジスンは怪奇小説作家と言われるが、彼が描く作品には、どこかジュール・ヴェルヌコナン・ドイル、H.G.ウエルズなどのSF作家たちと同じ匂いがある。本書を読んで、「異次元を覗く家」「ナイトランド」をもう一度読みたくなった。