加藤典洋「村上春樹は、むずかしい」

友人である原さんのおすすめ。デビュー作「風の歌を聴け」から「女のいない男たち」まで、村上春樹の作家活動の全容を新書250ページ余りで一気に語りつくす。著者は村上春樹の作家活動を「初期」(1972〜82)、「前期」1982〜87)、「中期」(1987〜99)、「後期」(1999〜2010)、「現在」(2011〜)に分けて考察する。作品だけでなく、同時代に活躍した他の作家や、当時の社会現象や時代の空気まで含めて、詳細に考察していく。

村上春樹は、東アジアの知識人に読まれていない。

著者が本書を書こうしたきっかけが興味深い。村上春樹という作家は、日本の、いわゆる純文学の世界からは評価されていないが、若者を中心とした読者に圧倒的に支持 されており、海外でも多くのファンを持つ人気作家である。近年、ノーベル文学賞の候補になるなど、逆輸入という形で、国内でも、村上を評価する動きが出て きている。しかし著者は、東アジア圏の高度な読者たち(作家。研究者、翻訳家等)の間では、村上春樹が驚くほど読まれておらず、リスペクトもされていない ことを知って、ショックを受ける。本書は、著者が、あらためて村上春樹の文学的達成を検証しようとした試みであるという。

40年ぶりの再読。

本書を読むことは、村上春樹を継続して読んできた人間にとっては、20代から現在までの自分の人生をたどり直すような読書体験でもある。しかし「風の歌を聴け」をはじめとする初期作品を読んだのは30年以上も前のこと。ストーリーもほとんど覚えていないので、本書における著者の考察にいまひとつ納得できなかった。そこで、本書で取り上げられたいくつかの作品をもう一度読んでみることにした。初期の三部作「風 の歌をお聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」と、本書の中でも考察されている短編集「中国行きのスロウボート」、そして「ノルウェイの 森」を再読した。

30年以上前、最初に「風の歌を聴け」などの初期作品を読んだ時は「ヴォネガットブローティガンの真似じゃん」と反感を感じながら読んだことを覚えてい る。村上春樹の文章が、当時、第一次戦後派や第三の新人内向の世代などの作家たちを読み続けてきた僕の感覚とは、あまりにかけ離れていたせいだった。同 じ頃、SFファンだった僕は、ヴォネガットにハマっていて、その延長線上で、ブローティガンサリンジャー、アップダイクを読むようになっていた。だから、 村上春樹の文体にも、ほんとうは違和感はなかったはずだが、日本人がそんな文章を書くのは許せないと拒否反応を起こしてしまった。一度そう思いこんでしまうと、どの作品を読ん でも批判的に読んでしまう。そんな読み方が「アンダーグラウンド」の時代まで、実に20年以上も続いたのだ。今回、再読してみて、昔ほどの拒否反応は出なかったが、なぜ、この文体でなければならなかったのか、という違和感はやはりあった。

否定の否定」は「肯定の肯定」。

著者は、デビュー作「風の歌を聴け」を、日本の戦後の文学史に現れた、最初の、自覚的に「肯定的なことを肯定する」作品だったという。近代の文学は、国家や富者、身分制など、既成の権威や権力を否定するところから始まったという。ツルゲーネフの「父と子」から、明治維新における島崎藤村の「破戒」「春」などの自然主義文学、白樺派私小説、さらに戦後文学につながる純文学の系譜は、もとをただせば、否定性の一点から始まっているという。「肯定的なことを肯定する」とは、文学の否定性への依存を断ち切ることであった…。そして70年代の終り、否定的なことを無自覚に否定する、単に肯定的な気分が社会に支配的になっていく。否定性に依存する純文学の世界は、世の中から「古めかしいもの」「暗いもの」として忌避されるようになる。「風の歌を聴け」では、そんな否定性(鼠)の没落をいち早く受け入れながら、没落していくものを悲哀に満ちたまなざしで見送る。この作品は、その一点において新しかった、という。はるか昔に読んだこの作品に対する著者の考察は、一応理屈は通っているものの、完全に納得したわけではない。しかし、「鼠」が近代の否定性の象徴であり、その没落を描いたという指摘は、新しい視点だと思う。

著者の「深読み」しすぎ。

こんな調子で、著者は村上作品を読み解いてゆく。その解釈は、時として「それは深読みしすぎだろう」というところまで展開してしまうが、一応ロジックは通っていると感じた。例えば、初期の短編「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が、学生運動の陰惨な内ゲバを表現しているという著者の考察は「深読みしすぎ」と感じるが、改めて初期作品を読んでみると、その背景に、学生運動の暗闘や、連合赤軍内ゲバのイメージが暗騒音のように響き続けているのは間違いないように思われる。

自閉と物語の希求。

僕自身の解釈を述べると、初期3部作における「鼠」の苦悩は、革命か何かのような、大きな物語を求めながら、そこに飛び込んでいけず、深い空虚を抱えて自滅していくしかない現代人の典型的な苦悩を描いたのだと思う。それに対して主人公は、自滅への道を選ばず、ビールを飲んだり、音楽を聴いたり、本を読んだり、女の子とつきあうという、日々の些細なルーティンを延々と続けることで、自閉しながら、自らは動かず、何かの物語を待ち続ける…。そして物語は、いつも外部からやってくる。それが「1973年のピンボール」おける伝説のピンボールマシン探しであり、「羊をめぐる冒険」における羊さがしの物語である。しかし、その物語は、あくまでお話であり、どこまでも寓話的であり、生々しいリアリティを感じることはできない。その点が、村上作品に対する大きな不満であった。そして、このお話の世界が、その後の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や「ねじまき鳥のクロニクル」に展開されていったのだと思う。村上春樹が作り上げる、この「行動しない、自閉した主人公」とつながる「パラレルワールド」の世界を、僕はずっと受け入れることができなかった。変化が現れてきたのは、1995年の阪神大震災地下鉄サリン事件の後だった。村上春樹は、サリン事件の被害者たちに直接インタビューを行い、「アンダーグラウンド」として出版する。さらにオウム真理教の元信者たちにインタビューを行った「アンダーグラウンド2 約束された場所で」を出版する。このインタビューによって出会った、普通の人々や元オウム信者たちが、村上の自閉した世界の扉を開いていったのだと思う。

阪神大震災、オウム以降。

著者が転換期と呼ぶ「アンダーグラウンド」「神の子どもたちはみな踊る」「アフターダーク」などのを経て、後期に入った村上春樹は、「1Q84」という意欲作にとりかかる。僕は、この作品が、村上春樹が初めて、戦うべき「敵」を見つけだし、書こうとした作品だと思っている。著者によると、村上春樹は、書くべき大きな主題を見つけ、動き出したのだという。しかし、「1Q84」は未完のままに終わり、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」では、大きな主題は書かれていないという。後期以降の村上作品に対する著者の不満や期待は、僕も同調する。

この1カ月ほど、本書にはじまり、村上春樹に関する本ばかり読んでいた。最後に「村上春樹イエローページ」の1、2も読んでみた。その中での著者の「深読みぶり」は驚くばかりである。本書での、著者による、村上春樹作品の評価が正しいかどうかは僕にはわからない。また著者のいうように村上作品が漱石や大江につながる日本文学の到達点であるかどうかという点も納得できたとは言えない。しかし、自分と世代もそう離れておらず、ほぼ同時代を生きてきた作家として、村上春樹は、僕の中でこれからも大きな位置を占め続けるだろう。