伊藤桂一「静かなノモンハン」

ノモンハンの夏」とは対照的に、兵士の一人一人に寄り添うように書かれたノモンハンである。著者自身が中国北部で4年9ヶ月の軍務に就いている。小説家で詩人。本書で1984年、芸術選奨文部大臣賞、吉川英治文学賞を受賞している。もう新刊では買えず、amazonの古書で購入。著者のサイン入りだった。冒頭の20ページほどでノモンハン事件の概要を語った後、三人の兵士による手記という形式で語られていく。

初めての戦闘が最も過酷な戦闘に。

最初の兵士は、満州チチハルに駐屯していた関東軍の鈴木上等兵。兵役のかたわら外国語学校で満語を学び、現地の家族と親しくなり、満人の娘と結婚しようなどと考え、のんびり過ごしていた彼は、事件の終盤ともいえる8月にノモンハンに派遣される。チチハルからハイラルまで汽車で行き、そこから前線基地である将軍廟まで216kmの距離を徒歩で行く。文字で記すと簡単だが、東京から浜松あたりまでを30kgの完全軍装で歩くのである。しかも砂漠と草原が入り混じる不毛の土地で昼間の気温は40度を超え、夜は15〜16度に下がる。1週間かかって、途中の採塩所にたどり着き、3日ほど幕舎で休息したのち、将軍廟へ移動。8月23日、将軍廟を出発した部隊は、交戦区域内に深く入り込んだところで大休止をとる。翌朝、戦闘に突入する。鈴木はここで初めて戦闘に参加し、半日戦ったところで、初めての対戦車戦を体験する。部隊は、例のサイダー瓶にガソリンを詰めた火炎瓶で戦うが、味方は次々に倒れ、戦車のキャタピラに踏み潰されていく。その阿鼻叫喚の中、鈴木も戦車の機関銃弾を受け、重症を負う。彼の戦闘は半日で終わる。大量の出血で朦朧となり、部隊からはぐれながらも、何とか後方の包帯所にたどり着き、さらに後方の野戦病院に収容されて、ようやく一命を取りとめる。

850人の大隊が36人になった戦い。

2番目の兵士は、衛生兵の小野寺伍長。彼が須見部隊(歩兵第二十六連隊)の本部に到着したのは8月1日。ここで第一大隊への配属が決まるが、8月5日には彼が属する大隊は須見部隊を離れ、第23師団の小松原師団長直属となる。彼の大隊は日本軍陣地の最右翼に位置し、6kmほど先にハルハ河が望めた。ソ連軍は、ハルハ河を越え、河の東岸に布陣し、開戦の時を待っていた。8月7日、味方の連隊砲が前面に出て、敵の陣地に向けて試射の一発を放った。すると、向こうからは210発の重砲弾が飛んできた。それはこの戦闘を象徴する砲のの打ち合いであった。そして戦闘が始まると日本軍は言語に絶する苦戦を強いられたという。8月20日の早朝、朝霧に包まれた中、ソ連軍の総攻撃が始まった。航空機にによる爆撃に続き、重砲がこちらの陣地を徹底的に砲撃。直径4−5kmの地域が完全に弾幕に包まれていたという。その砲撃が止むと、戦車がやってくる。この時期になると、火炎瓶攻撃の効かないディーゼルエンジンを搭載した戦車が投入されるようになっていた。前線のあらゆる場所で日本の部隊が圧倒的な敵の兵力に包囲されつつあった。大隊の中で、第三中隊が、何重にも包囲され、孤立していた。衛生兵がいない、この中隊のために、大隊の軍医は、小野寺に第三中隊の負傷者救援を指示した。彼は、包囲網を隙間を使って、第三中隊の陣地に潜り込む。しかし、すでに中隊は全滅寸前の状態にあり、中隊長は「せっかく来てくれたが、これから本部へ引き返してくれんか。第三中隊はただいま総攻撃を敢行して玉砕した、と、大隊長に伝えてほしい。」と言った。小野寺は反論するが中隊長は「これは命令だ。守ってもらわねばならぬ。それに誰が情報を伝えねば、大隊長への任務が果たせぬ。」と小野寺をさとす。彼は、意を決し、戦車と機関銃にびっしりと包囲された陣地から、決死の脱出を試みる。砲弾穴をたどって、何とか大隊本部にたどりつき大隊長に報告をすると、生田大隊長は「中隊長を見捨てておけぬ。これから第三中隊を救援に行く。」と叫ぶように言い、大隊は、移動を開始する。大隊は夜に紛れ、第三中隊が玉砕した陣地に進撃、何度も突撃を繰り返して敵を後退させることに成功した。しかし夜が明けると。敵は、大隊を殲滅すべく大攻勢をかけてくるのは目に見えている。大隊は、攻撃を中止し、負傷者を収容しながら、731高地まで撤退する。しかし、そこも安全ではない。夜明けとともにソ連軍の総攻撃が始まった。

死者の小指を持ち歩く。

ちょうど、その頃、誰が言い出したか、戦死者の小指を切り取り、認識票とともに持ち歩こう、という申し合わせができていたという。小指を持った死者が出ると、今度は、その者の小指を切り取り、彼が持っている小指も持っていく。最後には生き残った誰かがチチハルの原隊に届けてくれる。それでみんな安心して死ねるはずだ。しかし731高地に閉じ込められ、戦況が急速に悪化し、戦死者が驚くべき速度で増えていくと、死者の小指を切り取るのはもちろん、認識票を預かることさえ不可能になる事態が生じてきたという。どっちみち、みんな死んでいくのだから、小指を分け合って持っていて何になる、という虚無的で絶望的な考え方がみんなを支配するようになった。誰が言うともなく、この約束をとりやめようという話になった。敵の包囲網がさらに狭まり、敵の先端との距離が50mを切るようになった時、大隊長は、隊を挙げての突撃を敢行する。鬼気迫る攻撃に、敵は退散。敵の陣地に残された水や食料を奪って、引き上げてきては飢えと渇きを癒し、体力を回復して、再び、突撃を敢行。3回の突撃を繰り返し、敵の包囲網はかなり後退した。100人ほど残っていた隊員は、この時点で50名ほどになっていた。全員が死ぬまで、突撃を繰り返すつもりであったが、8月29日、山県部隊から引き上げ命令を持った伝令がやってきた。命令は、「生田大隊は山県部隊の位置に集結し、負傷者を野戦病院に後送する。後方の将軍廟には増援部隊が待機しているので、これと連絡して戦闘任務を交代する。」というもので、小野寺たちは、これで、この蟻地獄のような凹地が出られると安堵する。撤退は夜間に行われたが、たび重なる突撃のせいで、敵は後退しており、戦闘を避けることができた。山県部隊と合流した大隊は担架に負傷者を乗せて千人ほどの集団で将軍廟へ向かう。

撤退部隊を悲劇が襲う。

ここで彼らを最後の悲劇が襲う。進行方向から7台の輸送トラックが走ってきた。最初は味方かと思ったが、近づいてくるとソ連軍のトラックと判明。こちらはもう戦闘部隊ではないので、そのまま見過ごしてしまってもよかったのかもしれないが、まだ元気な兵隊が、トラックに飛びつき、攻撃を始めた。砂にタイヤを取られて速く動けないトラック6台を奪取し、食料、弾薬、酒類を入手した。しかし、1台のトラックが逃げのびていた。しばらく進んだ時、ハルハ河のほうから約50台のソ連戦車が攻撃してきた。逃げのびたトラックの通報により、急きょ、戦車隊による追撃が始まったのである。身を隠す陣地や塹壕もない平原で、戦闘力をほとんど持たない撤退部隊への殺戮が始まった。戦車砲を撃ち、機銃を浴びせ、砂上に投げ出された負傷者はキャタピラで踏み潰していった。最初は手榴弾などで対戦車戦を戦っていた者も、つぎつぎに死んでいき、抵抗する者はいなくなった。戦車は、その後も戦場を走り回り、動く影を見つけると機関銃を浴びせてきた。日本兵は、隠れて、戦車が立ち去るのを待つしかなかった。夜中に戦車が立ち去った後、隠れていたところから現れた兵は、300人ほどに減っていた。小野寺の部隊も36人になっていた。将軍廟に着いたのは、次の日の朝になっていた。しかし、そこには連絡のための数名の兵士しかおらず、部隊は「引き上げ部隊は速やかに後方の野戦病院へ移動せよ」という示達を受けただけであった。

速射砲小隊の戦い。

3人目は速射砲小隊を指揮する鳥居少尉。速射砲とは、37ミリの徹甲弾榴弾を1分間に16発撃つことができて、対戦車戦では最も有効な武器とされる。速射砲隊は2個の小隊からなる速射砲中隊を形成し、歩兵大隊に属していた。大隊は、戦車を主力とする安岡支隊に編入され、6月10日に、チチハルを出発した。6月29日にはチチハルの西方340kmにあるハンダガイで戦車隊と合流した。戦車隊は29日の朝、ハンダガイを出発して前線に向かった。鳥居少尉所属する大隊は、輸送するトラックを待って戦車隊の後を追いかけ、7月1日の午後に目的地であるバルシャガル高地の北方に到着した。しかし、そこに戦車隊の姿はなく、戦車の残骸が点々と残されていた。一緒に戦うべき戦車部隊が、合流する前に消滅してしまった。大隊は、草原をさらに西に進み、ハルハ河の近くまで行く。そこで転覆しているソ連のトラックを発見し、これを修理して将軍廟の師団司令部に向かわせ、安岡支隊の情報を得ようとした。将軍廟に行っても支隊の情報は得られず、5日早朝、大隊は、ハルハ河に沿って南下する。しかし、そこはハルハ河を渡ってきた敵の兵力が、相当数布陣していて、たちまち戦闘が始まる。ソ連側の砲撃の後、10輌の戦車が進んできた。ただちに速射砲中隊は砲撃を開始し、先頭を進んできた6輌をつぎつぎに撃破。後ろにいた4輌は、方向転換をして戻って行った。戦車が戻っていった後、今度は正確に標的を絞った砲撃が始まり、かなりの死傷者が出る。大隊は戦闘地点より東に 少し下がった小丘陵を利用して陣地を築く。陣地を設営中にソ連兵の斥候隊を発見。大隊長に報告し、急襲すれば撃滅できると進言するが、受け入れられず大隊長は撤退を決定。すぐに移動となる。しかし重い砲を引いて移動しなければならない速射砲隊は、移動に手間取り、大隊とはぐれてしまう。ソ連の斥候隊は、前進を続け、速射砲隊は、発見されそうになる。やむなくソ連の斥候隊に対して、軍刀と帯刀だけで急襲し、全滅させる。斥候隊の異変に気づいたソ連の中隊が攻撃してくると予測し、砲を分解して草原に埋め、戦闘に備えた。速射砲隊員は小銃を持っていないため、手榴弾と刀で戦うしかない。壕に潜み、敵の前進を待ち伏せる…。しかし、いつまでたっても敵は現れず、夜明けになっても周囲に人影は見えなかった。つまり敵は、後退していたのである。埋めていた4門の砲を組み上げ、引きながら、大隊を探して移動を続ける。次の日に、ようやく斥候が大隊と接触し、合流することができた。

携帯口糧を勝手に食ってはならん。

斥候からの報告を聞いていた大隊長は、鳥居少尉に対して「携帯口糧をみな食ってしまったそうだな」と咎め、「無断で携帯口糧を食った場合は処罰だ。補給がいつ来るかもわからぬ状態だ。お前たちに支給してやる余分な食糧はない」と言う。鳥居は、大隊長の言葉に納得できず、「速射4門を置き去りにして、しかも何の連絡もいただけなかったのは、少しひどいのではないでしょうか。連絡さえいたいだいていれば、みだりに携帯口糧を食したりしません。」と反論。玉砕を覚悟して戦うつもりだったので食糧を持っていてもしかたがなかったという事情を説明する。大隊長は「独立隊長の許可なくして携帯口糧を食ってはならぬ、という規定がある。」と反論。鳥居は、それでも食い下がり、「わかっております。しかし、あの場合、自分は速射の独立隊長だったと思います。」と主張。これで携帯口糧を食べてしまったことはお咎めなしとなり、食糧も分けてもらうことができたという。

激戦地、ノロ高地。

7月14日、大隊はホルステン河を渡った南のノロ高地の一角に布陣する。戦況は目に見えて厳しさを増し、連日のようにソ連軍の激しい攻撃を受ける。空襲の後、重砲陣地からの猛烈な砲撃にさらされ、それが終わると戦車と歩兵が攻撃してくる。ソ連の兵力は日を追うごとに増強され、攻撃の激しさは増していく。武器や兵員の増強のない日本軍は、日に日に消耗していく。8月、ソ連は勝利に向けて、大規模な総攻撃を開始する。速射砲隊も残り少ない砲弾を撃ち尽くしたら、あとは手榴弾を持って戦うしかないと覚悟をする。激しい戦闘の最中に、部隊長と対立した鳥居少尉は、第三大隊への移動を命じられる。移動の翌日、知り合いのいる第一大隊の陣地をたずねる。そこで故郷の幼なじみの平本と偶然出会い、再会の喜びを分かち合った。

幼なじみの死。

戦況はさらに悪化し、陣地を2000mほど、後退させることになった。速射砲隊は先に移動を済ませ、集合地点で休憩をしていた。鳥居は草原の斜面に寝っ転がり、撤退してくる第一大隊の隊列を見ていた。夜は砲撃もなく、撤退は無事に終わると思われた。その時、しゅるしゅるという迫撃砲弾特有の音が聞こえてきた。鳥居はとっさに「伏せろ」と部下に叫んだ。しかし砲弾は、頭上を飛び越え第一大隊の真ん中に落ちた。砲弾は列の中にいた平本の身体を直撃し、炸裂した。周りの兵士は案外軽傷で、死者は平本だけだった。鳥居は駆け寄って、バラバラになった平本の遺体を拾い集め、自分が休憩していた草原の一画に仮埋葬し、目印に平本の背嚢を置いた。

ソ連兵との触れ合い。

陣地の後退の後もソ連の攻勢は続き、鳥居たちはいよいよ最後の時を覚悟した。9月15日の午前零時に「一切の敵対行動をやめよ」という司令部からの指示があり、17日の朝、全面停戦の示達が届く。鳥居は第二十八連隊の遺体収容班長を命じられて、陣地に残る。遺体収容の期間は1週間。トラック1台を支給され、遺体や遺品を確認しながら、次々に積み込んでいく。これほど狭い地域に、これほど多くの遺体が散らばっているの戦場はめったにないだろうと思われた。ソ連側も同じように遺体収容を行っている。そんなある日、ノロ高地の一画で休憩を取っていると、ソ連側の将校が兵隊を一人連れて近づいてきた。そして敬礼をして、何か話しかけてくる。言葉はわからないが、敬礼を返し、相手に返事をするような格好で、「貴様ら、なれなれしく口を利くな。勝ったつもりでいるのか?笑わせるな、もう一度、戦車をつぶされたいのか」と罵倒の言葉を浴びせた。相手は鳥居が好意的に話しかけたと勘違いしたのか、さらに近づいてきて、ポケットからタバコを取り出し、箱ごとくれようとした。仕方なく、礼を言ってタバコをもらい、1本火を点け、助手の曹長にも勧めた。ソ連製のタバコは味のよいものではなかった。その時、この戦いは、別に、彼らのせいで起きたのではない、彼らだって苦しい戦いを耐え忍んできたのだろう、と思い、発作ののような憤りの気持ちが溶けてゆくのを覚えた。鳥居は笑顔を見せて、「うまいタバコだ」という動作をすると、相手はさらに喜び、ポケットから手帳を取り出し、二人の子供が写っている写真を見せた。鳥居は写真をほめてやりながら、「そうか、この戦場での戦いは終わったのだ」とようやく気持ちが落ち着いてきたという。遺体収容を続けている間も、まだ戦っている気持ちの高ぶりが続いていたが、この邂逅で、それが鎮まったのだ、という。この場面、本書の中でいちばんほっとするところ。何の憎しみも恨みもない者どうしが殺し合いに駆りたてられるという戦争の魔法が一瞬で解ける瞬間が美しい。

背嚢が呼ぶ。

その後、作業の途中で休憩していると、どこからかパタパタという音が聞こえてきた。音のほうを見ると足元からほんの1メートル先に背嚢があって、その蓋が風がないのにめくれるのだ。あたかも少尉に呼びかけるように背嚢の蓋がパタパタとめくれる。突然、電気に打たれたような衝撃を受けた。(平本だ、そうだ平本だ、平本の背嚢だ)と初めて気づいた。その場所が平本を仮埋葬した場所であることを鳥居は忘れていたという。あまりに考えることが多すぎて、つい忘れてしまったのだという。背嚢を調べてみると平本の注記が見えた。「そうか、平本、おれが気づかんので呼んだのか」と声に出して呼びかけていた。「よしよし、おれが掘り出して、おれの手で焼いてやる。安心せよ。ほったらかしにしてすまなんだなあ。ゆるしてくれよ。」鳥居は伍長に円匙(シャベルのような道具)を借りにいかせ、自分の手で平本の遺体を掘り起こしてやった。この場面、鳥肌が立った。本書全体のクライマックスでもある。巻末の司馬遼太郎との対談の中で、著者は、生死の交錯する戦場では不思議な出来事が少なくなかったという。

勇敢に戦って死んでいった日本兵

 それにしても本書で描かれた日本兵たちは、なんと勇敢に、懸命に戦い、死んでいったのだろう。弾薬や食料、水の補給もなく、増援も期待できないまま、圧倒的な兵力の敵を前にした時、その運命を受け入れ、死を覚悟して、戦闘に飛び込んでいく。その姿に戦慄し、感動している自分がいる。しかし、この感動は本物だろうか?弾薬も尽きた部隊の隊長が、軍刀を掲げて「天皇陛下万歳」と叫び、最後の突撃を 敢行する。そんな場面を、これまで僕らは何の抵抗もなく受け入れてきたのではないか?「玉砕」という美しい響きを持つ言葉に騙されていないか? 部隊の7割が戦死という無謀な作戦を立て、それを命令し、兵士たちを戦場に送り出した人間が間違いなくいたのだ。兵士たちを殺したのはソ連兵ではなく、はるか後方で作戦を立てていた者たちだ。著者は、彼らについてほとんど語らない。ひたすら戦場の兵士に寄り添って、彼らの戦いを克明に描いていく。そこに、祈るような著者の視線だけがある。