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NHKスペシャル取材班「老後破産 長寿という悪夢」

ライフスタイル 経済 ドキュメンタリー

大型書店の店頭。その老人は、新刊コーナーの前で一冊の本を長い間読んでいた。老人の前に僕が買いたい本があったので、そばでしばらく待っていたが、老人が動く様子が無いので、他の本を探した。新刊コーナーの棚を一周回って戻ってきても、まだ老人は同じ本を読んでいた。しかたなく店の奥に進んで、他のコーナーを回って、もう一度新刊コーナーに戻ってきた。老人は、まだ同じ場所で同じ本を読んでいた。その時はじめて「何の本を読んでいるのだろう?」と気になった。その時、老人が読んでいた本が本書である。僕は結局、買おうと思っていた本を買わずに、老人が食い入るように読んでいた本書を手にとって目次を見て、レジに向かった。老人は、この本のどんな部分を読んでいたのだろう。ふと、先月末に、新幹線で乗客を巻き込んで焼身自殺をした杉並区の老人のことを思い出した。確か、年金の少なさに抗議して自殺をはかったのではなかったか?

「老後破産」とは。

「老後破産」とは2015年9月にNHKスペシャルで放映されたドキュメンタリー番組のタイトルだ。番組のプロデューサーが考え出した造語であるという。この番組を観た記憶は無い。しかし、高齢者を取り巻く環境が恐ろしく悪化しており、とんでもない事態が起きつつあるという認識はある。現在、独り暮らしの高齢者がおよそ600万人。その半数が生活保護水準を下回る年収であるという。このうち生活保護を受けている人は約70万人。残りの約200万人が生活保護を受けずに年金だけでギリギリの生活を続けているが、病気になったり介護が必要になったりすると、たちまち生活は破綻する。このような境遇に置かれた高齢者を、番組プロデューサーは「老後破産」と呼ぶ。

都市部で急増。

「老後破産」は、都市部で急増しているという。東京都港区に住む高齢者を取材する。その多くは80歳を越えている。小さな台所と6畳一間の賃貸アパート住まい。収入は国民年金と厚生年金で月10万円というTさん。家賃は6万円。残りの4万円で生活している。電気は止められ、使用していない。年金支給日が近づくと財布の中は数百円を切ることがあるという。毎月6万円の国民年金から家賃5万円を支払い、月1万円で暮らしているYさん。彼らは生活保護の基準より低い収入で暮らしているのだ。病気になっても病院に行かず、身体が不自由になっても介護サービスを利用しない独居高齢者が増えているという。1割負担の医療費や介護費用さえも切りつめる必要があるのだという。地方でも、見えにくいが、「老後破産」は確実に広がっているという。

日本の高度成長を支えた普通の人々の破綻。

取材で明らかになってきた老後破産の実態もショッキングだが、さらに驚かされるのは、彼らが全然特別な人々ではないということだ。日本の高度成長期を懸命に働くことで支えてきた、日本中どこにでもいるような、普通の生活者だ。そんな彼らが、日々の食費にも不自由するほどに困窮した生活を強いられている。彼らは一様に「こんな生活をする羽目になるなんて想像もつかなかった」という。働ける間は懸命に働き、ささやかな貯蓄もし、老後を楽しみにしていた人たち。彼らがつまづくきっかけはたいてい病気だ。仕事中に脳梗塞で倒れる。心不全で倒れる。夫が急死する。重い病気の場合、長い入院を強いられ、大切な貯金を取り崩していくことになる。病気がが回復しても、以前のようには働けず、そのまま年金生活が始まる…。また高齢の親の介護のために離職した中高年が、今度は、自分が病気に倒れ、「老後破産」に陥ってしまうケースもあるという。本書のあとがきで、著者は、このような「老後破産の再生産」ともいえる現状の取材を始めていると書いている。

高齢者の三重苦。

本書を読んでいると、取材を受けた高齢者たちの生活が、どれもほとんど同じように見えてきて、個々の差が感じられなかった。収入が極端に少ないと、生活は、単調で閉塞的なものにならざるをえないのだろう。しかし、僕には彼らの暮らしが「老後破産」という経済面だけからくるものではないように思った。それは「少子高齢化」「独居老人」「認知症」「介護離職」「介護問題」「非正規雇用の増加」など、高齢者を取り巻く状況が著しく悪化しつつある現状の、ほんの一面を切り取っているににすぎないのではないか。核家族化で血縁が失われ、地縁が失われ、非正規雇用の増加や失業で社縁すら失われようとしている今、そのしわ寄せは、社会の最も弱い層である高齢者を「貧困」「孤独」「病気」という三重苦に追い詰めていく。「無縁社会」に始まり、「老人漂流社会」「認知症高齢者」「老後破産」と、高齢化社会の問題に取り組んでいるNHKスペシャルは、つい先日、「老後危機」という討論型の番組を放送した。昨年の「老後破産」の放送時には、若い世代から予想以上の反応があったせいか、様々な世代が意見を戦わせる番組だった。就職難や非正規雇用などに苦しむ若い世代には、老後の問題はもはや他人事でないのだろう。子供がいない僕や妻にとっても、老後の生活は、不安そのものだ。定年を迎え、蓄えだって十分というわけではない。戦後の高度成長期、この国が置き去りにしてきたものが、今になって、僕らの社会を根底から揺るがしている。