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武田砂鉄「紋切型社会 言葉で固まる社会を解きほぐす」

「いいね」としか反応できない不自由さ。世の中には、そんな「不自由な紋切り型」があふれている。「禿同」「良記事」「全米が泣いた」「待望の〜」「誤解を恐れずに言えば」「逆にこちらが励まされました」…。ネットの世界に限らず世の中にはびこる「紋切型」を見つけ出しては、切れ味鋭い文章で、バッサバッサと切り捨てていく。その痛快さは、今年の前半の読書の、一番の収穫かもしれない。著者の「紋切切り」の犠牲になるのは、テレビや新聞、雑誌のマスメディアから、ネットの世界、政治家、原発関係者、結婚式のスピーチ、様々なプレスリリースなど、ありとあらゆるジャンルに及ぶ。名指しで切られているのは、24時間テレビ情熱大陸プロジェクトX半沢直樹、ほぼ日、秋元康橋下徹曽野綾子高市早苗…。それほど「紋切型」は世の中に溢れているのだ。紋切型とは、思考放棄であり、精神の劣化や堕落であり、自由の後退である。そして紋切型に収まらない人や意見や状況は「いなかった人」「なかったこと」にされていく。本書によると「紋切型」は、恐ろしい勢いで増殖を続けているらしい。

著者の矛先は僕らの方にも向いている。

まことに残念ながら、本書を「よくぞ書いてくれました」と手放しに喜べないのは、僕たちコピーライターも、仕事上、常に紋切型の文章を書いてしまう危険にさらされている。というより、仕事のかなりの部分で、紋切型の言い回しを使わないと、効率が悪くてしょうがない部分もある。「紋切型」のレトリックにはまりながら、最後の最後に、ポンと反対側に突き抜けていくようなキャッチフレーズを書こうとしているが、いつも上手く切り返せるわけではない。世の中にには「紋切型」から飛び立とうとして失敗し、地に落ちたフレーズや広告の残骸がそこらじゅうに転がっている。

言葉だけではない。

著者が糾弾しているのは「言葉」。しかし、糾弾されているのは、もちろん言葉だけではない。そこには自由な批判や議論を封じ込めようとする力が働いている。それはやがてオーウェルの小説「1984年」に出てくる“ニュースピーク“や“ダブルスピーク“のように「戦争は平和である」というような、矛盾する概念で国民を洗脳しようとする社会につながっていく。「紋切型」を攻撃することは、この世界を相手に戦うことになる。しかも、その矛先は、いつ自分に向けられるかわからない。知らずのうちに自らの言葉が「紋切型」に陥ってしまう恐れがあるからだ。世の中の「紋切型」を糾弾していくこと。それは、鋭い刃の上を渡っていくような、ギリギリのバランス感覚を必要とする行為だ。僕には、著者のような真似はできそうにない。著者が言葉の裏に隠された堕落や企みを嗅ぎ分ける嗅覚の鋭さは、小田嶋隆と近いものを感じるが、こちらのほうが、よりラディカルで容赦がない。最後の章で、著者は、ジャーナリストの本田靖春、ルポライターの竹中労を取り上げ、紋切型の言葉ではない、鋭利な言葉を投じ続けた先人たちへの憧れを表明する。著者が見つけた「紋切型」という視点は、驚くほど多くの社会現象を鮮やかな切り口で見せてくれるが、その視点を保ち続けるのはとても難しいことだと思う。バッシングも受けるだろう。炎上もするだろう。今の姿勢のまま、著者がどこまで走り続けるのか、しばらくは目を離せない。