スタニスワフ・レム「ソラリス」沼野充義 訳 再読

ほぼ40年ぶりの再読。

世界30数カ国語に翻訳されているという名作中の名作SF。レムは、僕が一番好きなSF作家である。ソ連のアンドレー・タルコフスキーと米国のスティーブン・ソダーバーグによって映画化され、どちらも劇場で観ている。タルコフスキー版では、珍しく途中で寝てしまったことを覚えている。昔読んだのはハヤカワの、銀色の背表紙にビニールカバー装丁のポケットSFシリーズだった。以前は、ロシア語版からの重訳だったが、2004年に国書刊行会からレムの全集が出た際に、ポーランド語の原典から新訳されたという。最近になって、ハヤカワSF文庫で発売されたので再読する気になった。ロシア語版は検閲などを恐れ、訳者や作家自身が削除した部分があったらしく、原稿用紙にして40数枚ぶんが復活したという。

全然古くない。

半世紀以上前の作品だが、いま読んでも、全然古くないことに驚く。二つの太陽をめぐる惑星ソラリス。その表面を覆う海は、原形質でできた一つの生命体であり、意識を持ち、重力すらもコントロールするパワーを持っている。人類は数十年にわたって、ソラリスの海を研究し、コミュニケーションを確立しようとするが、ことごとく失敗に終わっている。いつまで経ってもコンタクトが成立しないソラリス研究に、人々は失望し、関心を失っていく。やがて研究の規模も縮小され、現在では、数人の研究者が研究ステーションに残り、細々と研究を続けている。そこに、新しい研究者である主人公ケルビンが到着するところから物語は始まる。はるばる地球からやってきたケルビンを、3人いるはずの研究者は誰も出迎えようとしない。ステーションの内部は荒れ放題で、何かトラブルが起きた様子だ。ようやく研究者の一人であるスナウトを見つけたケルビンは、怯える彼から、一人の研究者が死んだことを知らされる。また研究者の間に何かの異常が起きており、ケルビン自身にも同じことが起きる可能性があることを警告される。そして、ステーションの中にいるはずのない不気味な黒人の女性を目撃する。物語は、ホラーやミステリーを思わせるスリリングな展開で進んでいく。やがて主人公のもとに「客」がやってくる。それは主人公の昔の恋人で、自殺したハリーである。彼女は自殺した10年前の姿で現れる。しかし、彼女は、本物のハリーではなく、ソラリスの海が主人公の脳の記憶から読み取って作りだした「怪物」であることがわかる。彼女は自分がどこから来たのかも知らず、なぜここにいるのかも知らず、ただケルビンのそばにいることだけを望む。主人公は驚き、怖れ、「怪物」を騙して小型ロケットに乗せて、軌道上に打ち上げてしまう。しかし次の日、何事もなかったかのようにハリーが現れる。最初は恐れていたケルビンも、次第に「怪物」を愛するようになる…。物語は、ホラーSFっぽい始まりから、切ないラブストーリーへ展開していくかのように思える。ニュートリノでできた身体を持ち、金属のドアを引きちぎるほどの腕力を持つハリー。彼女は数あるSF小説のヒロインの中でも最も人気のある存在だろう。実際、ソダーバーグの映画では、ケルビンとハリーのラブロマンスが物語の中心になっていた。しかし、この作品の本当のテーマは、そこにはない。

人間中心主義への批判。

この作品が書かれた当時、SFが描いた、人類と異星文明のコンタクトは、3種類しか存在しなかった。人類が勝つか、異星人が勝つか、共存するか、である。SFに描かれる異星人は、たいていが人類に近い形態を持ち、独自の言葉や文明を持ち、人類と対立したり、共存したりする。しかしそれは、あまりにも人間中心の考え方ではないだろうか。人類同士の対立や支配や共存の形を宇宙に拡大しただけの話ではないか、というのがレムの主張だ。彼は、高度なテクノロジーや知性を持ちながら、あまりに異質すぎて人類とコミュニケートできない生命体として「ソラリスの海」を作り上げたのだ。

ソラリス学。

本書の中でかなりのページ数を費やしているのが「ソラリス学」という、人類による数十年にわたるソラリス研究の紹介だ。コミュニケートできない「海」に対して様々な研究者が提出した仮説の数々。生物学、哲学、神学にまで及ぶ架空の考察…。この「架空の記録」の手法はは、後年、「架空の書物の書評」だけで一冊の本になった作品「完全なる真空」や「架空の本の序文」を集めた作品「虚数」となって結実する。作者はまた、観察され、記録された「海」が創り出す様々な現象も、微に入り細に入り描写してみせる。それらの部分は、正直にいうと、意味のわからない抽象的なアートを延々と見せられているようで、退屈だ。一方、宇宙ホラー物といってもよいスリリングな謎解きにはじまり、切ないラブロマンスへと展開していくストーリーは魅力的で、どうしても、そちらの印象が強く残ってしまう。「海」のふるまいに翻弄され、苦悩する主人公。一方「海」は、人間たちの存在にまったく気づかないかのように、孤独な運動を続けている。今回読み返してみて、この作品は、「不条理な神」についての物語なのだと思った。

新訳について。

ポーランド語の原典から翻訳されたという「新訳」の成果はどうだったのだろう。個人的には、飯田規和による旧訳のほうが好みだ。新訳のほうが直訳に近く原文に忠実なのだろうが、そのぶん文章が軽くなってしまっている。