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稲葉真弓「少し湿った場所」

前回のエントリーで書いた著書「海松」「半島へ」の著者によるエッセイ集。2014年8月30日に膵臓癌で逝去。巻末のあとがきの日付が8月吉日となっている。あとがきの文章が、病床で書かれたのだろうか、ちょっと不思議な文章で、胸をつかれる。エッセイの内容は、飼っていた猫のこと。長く暮らした東京のこと。故郷の風土や家族の思い出。本の書評。季語について語ったエッセイ。最後が志摩半島のセカンドハウスについてのエッセイ…。著者の人生が凝縮されたともいえる一冊だ。特に著者が30年近く住んだという北品川の街についてのエッセイは、都会で独りで生きる人間の自由と、それと引き換えに引き受けざるを得ない孤独がくっきりと書かれている。僕も、東京勤務時代、休日になると、運河や倉庫が立ち並ぶ、北品川から大井あたりの海沿いエリアを自転車や散歩でうろついた記憶がある。都心に比べて人気の少ない、荒涼とした風景が、心地よかった。20代の頃は、都心から少し離れた河に近いエリアを選んで住んでいた。しかし年齢を重ねると、その風景にやりきれなくなることがあるのだ。著者も、そのような気持ちからだろうか、志摩半島の土地を購入し、セカンドハウスを建てたのではないか…。そして、その体験が、彼女のくすぶっていた才能をいっきに開花させ、「海松」「半島へ」という傑作を生み出したのだと思う。本書を読んで、そのことを確信した。

覆面作家だったころ。

エッセイが掲載された日付を見ると「私が覆面作家だったころ」が2014年6月で最後になっている。その文章の中で著者は、80年代のバブル盛んな頃、倉田悠子というペンネームで美少女アニメくりいむレモン」のノベライズ作品を執筆していたことを告白している。著者にとっては「汚点」ともいえるかもしれない事実を、自ら明らかにすることで、著者は何を語りたかったのだろう。2014年5月には紫綬褒章を受賞している。