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伊藤洋志×pha「フルサトをつくる 帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方」

前回のエントリーで書いた平川克美『「消費」をやめる 銭湯経済のすすめ』は、とても説得力がある強力な本だった。著者の主張は、ほぼ納得できたのだが「消費をやめる生活」のサンプルとして、提示された著者自身の生活(住居、喫茶店、仕事場、銭湯を結んだ半径3km以内の生活)は、都会の下町にのみで可能なものに思えた。地方都市や過疎化が進む地方での「消費をやめる生活」のお手本も提示してほしかったが、そこまで「消費をやめる」に期待するのは無理だろうと、他のお手本になりそうな本を探していたが、なかなか見つからない。しかたなく、「里山資本主義」でも読み直そうかと思っていたところ、本書に偶然めぐりあった。長年、読書を続けていると、とてもラッキーな本との出会いを何度か経験しているが、本書もそのひとつ。書店ではなく、ふと時間つぶしに入った雑貨店で発見。目次をぱらぱらめくっただけで「これだっ!」という閃きが走った。さっそく購入して読み始める。

著者は二人。伊藤洋志氏は京大大学院修了後、会社に勤めるが、肌荒れが理由で退職。ライターをしながら、身近な生活の中から生み出す、しかも頭と身体が鍛えられる「ナリワイ」づくりをテーマに活動を開始。シェアアトリエ、京都の町家の一棟貸しなどの運営や「モンゴル武者修行ツアー」、「熊野暮らし方デザインスクール」の企画、さらに家の床張りだけができる大工集団「全国床張協会」を設立するなど、ユニークな活動を行っている人物。彼には「ナリワイをつくる 人生を盗まれない生き方」という著書もあって、そちらも購入することにした。もう一人の著者pha氏は京大総合人間学部を卒業後、会社に勤めるも、ほどなく退職し、ニートの道を歩きはじめる。パソコンやネット好きな人が集まって暮らす「ギークハウスプロジェクト」の発起人でもある。

しなやかな過激さ。

本書を読みながら、ある衝撃を受けていた。圧倒的に世代が違うのである。「消費をやめる」の平川克美は、僕より少し上の団塊の世代であり、彼が語る反消費の考え方は、彼がその価値観の中で奮闘し、挫折を味わってきた反省から生まれてきたものだ。だから同じように消費社会の価値観を何の疑いも持たずに生きてきた自分には、彼の後悔と反省が、深い共感をもって読めるのだ。しかし本書はまったく違う。1979年生まれという著者は、サラリーマン生活に早々と見切りをつけて、ライターをしながら、ナリワイづくりの活動を続けてきたという。彼らがしていることは、ある意味で過激な「反消費」のアクションなのだが、そこには何の気負いもてらいもない。どこまでもフツーでしなやかなのである。本書は「暮らしの拠点は1カ所でなくてもよい。都会か田舎か、定住か移住か、という二者択一ではなく、その中間点のどこかに答があるのではないか」という問いかけを、著者自身の体験から語った本である。都会に暮らす若者が地方の山村に住むためには、様々な課題や問題が起こってくると思うのだが、彼らは大して悩みもせずに自然流で軽々と乗り越えていく。乗り越えていくというより、戦わない彼らは、自分の生理に合わないことに出会うと、ひょいひょいと巧みに避けてしまうのだ。地元の住民や先輩移住者から「この土地に骨を埋める覚悟はあるのか?」と問われても「まだ修行不足で骨になる覚悟ができていません」と、しなやかに受け流してしまう。彼らの身体感覚による敏感なセンサーが、田舎ぐらしに伴う様々な危険や問題を、無意識のうちに回避させ、正しい道に導いているかのように思える。自治体や先輩移住者が長い時間をかけてもできなかった地域の活性化や町おこしが、都会から来た「戦わない若者」によって、あっけないほど簡単に実現していくのだ。水害で取り壊す予定だった廃校を修理してカフェや書店を作ったり、そこで夏期限定の塾を開いたり、それこそ大学時代の合宿感覚で、古い家を修理し、地元を巻き込んだイベントを開催して、地元と街から人を集めてしまう。

旅行でも別荘でもない、田舎に行く生活。

著者は言う。田舎には空き家や耕作放棄地がたくさんある。都会では高い家賃を払わないと住めないような恵まれた家や田畑が、驚く程少ないお金で借りられたり、買えたりするのだ。それをもっと気軽に活用できないか。田舎に永住しようとするハードルが高いけれど、その土地が気に入って、ちょっと住んでみるのは、そんなに大変なことじゃない。しかし別荘みたいに、年に1、2度遊びに行くだけの生活ではなく、もっと地元と関わっていく生活をしたい、と。

著者たちは、たまたま熊野地方の山村に以前から移住して活動を行っている先輩移住者と知り合ったことで、山村の魅力を知り、地元の住民とも交流が深まり、頻繁に訪れるようになったという。何度か訪れるうちに、空き家を借りないかという話が持ち上がり、その家の修理も、仲間を集めてイベントにしてしまう。そのようなことが可能なのも、著者の周囲に、ニートや、フリーターといった、わりと自由に動ける若者が多いせいだろう。会社勤めに縛られない、ニートなど、現代の「遊民」が、都会と田舎の間にある境界を越えて流動し始めているのかもしれない。人の流動化が、都会と田舎、定住と移住という二者択一の概念を緩やかに壊していく。ノマドワーキングというが、都市での雇用や職業に縛られている人間は、本当の意味でのノマドワーカーではないのだろう。

田舎には実は仕事がいっぱいある。

若者の田舎居住を阻んでいる大きな理由のひとつが、仕事がない、ということであると一般には思われている。しかし著者によると、仕事はいっぱいあるという。田舎には会社に勤めるというような「雇用」はないが、仕事はいっぱいあるという。お年寄りが多いため、彼らをクルマで買い物に連れていく仕事、農作業の手伝い、草刈り、山仕事、家の修理や片付けなど、仕事はそれこそ無限にあるという。会社に勤めて毎月一定の給料をもらうような仕事はないかもしれないが、田舎で生活するのに必要な収入は十分得られる、という。

カフェと書店があれば、田舎でも退屈しない。

著者たちも1年の大半を東京で暮らす都市生活者であり、山村でしばらく暮らしていると都会の生活が恋しくなってくるという。クルマで30〜40分も走れば、コンビニやスーパー、ショッピングモールへ行けるが、そこにあるのは全国チェーンのショップであり、都会にあるようなマニアックな品揃えのお店は期待できない。そこで、彼らは、都会にしかない二つの空間を、廃校に作りあげることにする。それがカフェと書店だ。美味しいコーヒーが飲めるセンスのよいカフェと、こだわりの本を集めた書店さえあれば、山村でも、そこそこの都会感覚はかなり味わえるという。

田舎でネットを使いこなす。

現在の日本では、かなりの山村でもインターネットの接続が確保できているという。ネットを使えば、ほとんどのサービスや製品を手に入れることができるし、イベントなどで人を集めたい時もFacebooktwitterなどのソーシャルメディアで簡単に行えるようになったらしい。ソーシャルメディアのよいところは、大勢の人間を集めたい時と、来る人を選びたい時で使い分けられることだという。

しなやかな新世代の出現。

藻谷浩介の「里山資本主義」や山崎亮の「コミュニティデザイン」などで提唱されている地方の再生や地域のコミュニティづくりが、著者たちのような「戦わない若者」によって、いとも簡単に実現してしまっていることに、感心しながらも、呆然としている自分がいる。僕らとはまったく異なる時代感覚を備えた若者たちによる、新しい価値観や生き方が生まれようとしているのかもしれない。彼らは、バブル崩壊後の、長い長い不況時代を過ごし、高度消費社会という社会モデルの行き詰まりと破綻を、皮膚感覚で捉えているのだろう。マイルドヤンキーが、消費社会の最後に出現してきた「最後の消費者」だとすれば、著者たちは、次なる時代の、しなやかな先駆者なのかもしれない。数年前に読んだ三浦展「高円寺 東京新女子街」にも同じ傾向を感じた。大企業に勤めることから背を向け、高円寺の家賃の安いビルで、古書店、古着屋などをはじめる若者たち。シェアハウスで新しいコミュニティに加わろうとする都市生活者。京大を出て、猟師になった千松信也も同じ世代かもしれない…。悔しいが、定年を迎えた自分としては、あまりできることはない。せいぜい彼らの後についていくしかなさそうだ。同じ著者による「ナリワイのつくりかた」も購入済み。読む順序が逆になったが、そちらも感想を書いてみるつもり。