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最相葉月「セラピスト」

今年のマイベストになりそうな予感。というより、この数年来の読書の中でもベストかもしれない。面白さ、読み応え、スリリングさ、感動の深さ、知的満足感、読後感…。どこを取っても文句なし。一人でも多くの人に読んでほしい。それで、人に薦めようとするのだけれど、うまく説明できずに口ごもってしまう。ひとことで言うと「心理療法の歴史と現状」を描いた本。著者の最相葉月は「絶対音感」「青いバラ」「星新一 一〇〇一話をつくった人」などを書いたノンフィクション作家。これだけでは本書の面白さが伝わるわけないなあ…。

奇跡のような著作。

ほんとうに奇跡のような1冊。たぶん精神科医や心理療法系の研究者が書いても、ここまで優れた著作にはならなかったと 思う。日本で心理療法がはじまってから65年。その複雑にからまり合った歴史を展望しながら、そこで未知の分野を切り拓いてきた先駆者たちの苦闘をその息づかいまで もいきいきと描ききる筆力。そして精神医学や心理療法の専門家に匹敵する知見を持ちながら、あくまでも外部の人間であり続けるという視点。さらに自らも心の不調に悩 むクライエントという当事者の立場…。著者でしか到達できなかった高みに、本書は到達していると思う。

中井久夫の名前を見つけて購入。

どういうわけか、10代の後半から20代にかけて精神医学の本を夢中になって読んだ。当時、精神分裂病と呼ばれていた統合失調症の症例や、分析、治療に関する本を、ろくに内容も理解もできないくせに何十冊も読んだ。本書にも出てくる土居健郎宮本忠雄、懸田克躬、笠原 嘉、木村敏小此木啓吾などの精神科医たちの著書を貪るように読んだ記憶がある。自宅の書棚の古い本に「みすず書房」の本が多いのは、その頃の読書体験のせいだ。精神医学の本と、同じく10代から読み始めたSFは、僕の精神形成に重要な役割を果たしているかもしれない。その後、このジャンルの本をあまり読まなくなったが、いまでも一人だけ読み続けている著者がいる。それが本書でもかなりのページ数をかけて紹介されている精神科医、中井久夫である。本書を手にとって、購入する気になったのは、中井久夫の名前を見つけたせいだ。上記の読書体験の最後のほうで分裂病の研究書を何冊か読んだが、その著者の一人に中井久夫がいた。当時、中井は、日本の分裂病の研究者の中で最も評価されている精神科医だったと記憶している。80年代、「うつ病」と診断された知人が神戸大学にいた中井の治療を受けていたことを記憶している。1995年、阪神大震災の後、中井自身が、被災した神戸での災害支援の様子を記録した「災害がほんとうに襲ったとき 阪神大震災50日間の記録」を読んで、その文章に魅了され、中井の著作を再び読み始めた。中井は、ラテン語ギリシャ語、オランダ語にも堪能で数多くの詩集を翻訳し、自ら絵も描く、ルネッサンス的人物である。高校時代に、将来ポール・ヴァレリーの研究者になるか?科学者か医者になるか?に迷っていたという。僕の好きな作家である須賀敦子の作品を、中井は「清明な無常感」と的確に評してくれたことなども、今も彼の著作を読み続ける理由だ。あれ、中井久夫の話ばかり書いているな。本書は、著者自身が、中井久夫から絵画療法によるカウンセリングを受けるところから始まる。

著者自ら、心理療法を学ぶ。

河合隼雄中井久夫、本書は、日本の心理療法に大きな足跡を残した二人の巨人の話を軸に、日本における心理療法の歴史を、その黎明期から現代に至るまで、丁寧にたどったノンフィクションである。一言で心理療法というが、その全貌を知るのは容易ではない。多くの学派、多くの療法があり、多くの機関で行なわれている。呼称や資格が乱立し、値段はバラバラ、しかも守秘義務のため、カウンセリングの内容は公開されない。「信頼できるセラピストに出会うまで5年かかる」と言われる。著者自身が心の不調に悩み、カウンセリングを受けている。その時の不信が本書の執筆のきっかけになったという。しかし、そこから先の方法が著者独特だ。自ら大学院に入って心理療法を学び、民間研究機関に4年も通って心理療法士の資格を取る講座を受講するなど、単なる取材という枠を越えて、その世界にのめり込んでいく。そうやって臨床心理の造詣を深めながら、膨大な関係者に取材し、複雑に絡み合った心理療法の歴史を読み解いていく。

箱庭療法風景構成法

本書の読みどころのひとつが「箱庭療法」と「風景構成法」。スイスのユング研究所に留学していた河合隼雄が持ち帰った「箱庭療法」。砂を敷き詰めた箱の中に、クライエントが様々なおもちゃを置いていくことで内面をを表現させ、治療につなげていく療法は、言語によるコミュニケーションが苦手な日本人に適した療法とされ、河合らの努力によって全国に広がっていく。それ以前の心理療法では、クライエントの抱えている内面の問題を言語によって表現することで意識させることが治療につながっていくとされていた。しかし言葉には「因果関係」があり、セラピストもクライエントも、その法則に縛られてしまうという。「箱庭療法」は、言葉の因果律に縛られず、患者の内面の問題を浮かび上がらせることができるという。河合は、箱庭療法を日本に持ち帰ってからも、すぐに発表しようとはせず、仲間とともに事例を増やすことに専念する。河合は、ユング研究所で学んだ「箱庭療法」と、自分たちがやろうとしている「箱庭療法」が少し違ったものになることを意識していた。このあたりの経緯には、河合隼雄の人柄や志向性が現れていて面白い部分だが、著者が本書の取材を始めた時には、残念ながら河合隼雄はすでに他界している。いっぽう中井久夫によって生み出された「風景構成法」をはじめとする絵画療法は、当時不治の病と言われていた統合失調症の研究や治療に世界でも類を見ない成果をもたらした。その経緯は、第6章「砂と画用紙」に詳しく描かれている。本書の中で、著者自身も、取材の一環として、中井久夫による絵画療法を体験している。その逐語録(療法中のセラピストとクライエントの対話をそのまま記録したもの)は、本書の最大の読みどころである。取材を兼ねた体験であるために極度に緊張している著者を、中井の深い洞察とやわらかく静かな言葉が解きほぐしてゆく。著者は中井の発したちょっとした言葉によって、自らの人生を振り返り、不安や悩みや確執に気づき、開放されていく。

悩めない病
第八章では、最近の精神障害について気なることが書かれていた。今世紀に入った頃から、箱庭療法や絵画療法ができないクライエントが増えているという。自分の内面を、言葉はもちろんイメージによっても表現できない患者。自分がいま、何の感情にとらわれているのか、怒りなのか、悲しみなのか、嫉妬なのか、感情が分化していない患者。河合隼雄は、かつて「箱庭という表現によって、その人が内面的な表現ができるかぎり、だれにとっても意味を持つ」と述べていた。その前提が崩れかけているということか?と著者は問いかける。取材を続ける内に、著者は、この三〇年余りの間で、クラエイントの訴える症状に明らかな変化があったことを知る。河合隼雄が臨床を始めた頃に多かったのは「対人恐怖症」だが、いまではほとんど見られないという。その代わりに、途方もない「ひきこもり」になるか、バンと深刻な犯罪になるかであるという。70年代から80年代にかけて大流行した、精神病と神経症の境界領域を示す「境界例」が90年代に入ると減少し、代わって自傷や万引き、過食症や拒食症などの症状が現れる「解離性障害」が増加する。やがて、その解離性障害も流行が終わり、代わって、今世紀に入って目立つようになったのが「発達障害」である。河合隼雄の息子である河合俊雄は発達障害を「主体のなさ」ゆえの障害だと見ている。「主体がないから他者が認識されず、言語が生まれてこない。主体が欠如しているから、人と関係が持てず、孤立している。あるいは相手や状況に合わせてしまう。」河合俊雄によると、クライエントもセラピストも、従来の心理療法に向かない人が増えているという。たとえばツイッターで書き込むと、すでにみんなが知っている。しかもRTで他人の言葉が引用されて広がっていくので、どこからどこまでが自分の言葉かという区別もない。秘密とか内と外の区別もない世界では自分にキープしておくことができない。」心理療法というのは主体性があって自分の内面と向き合える人を前提としているため、相談に来ても、自分を振り返ることができないという。では箱庭療法や絵画療法のような心理療法は時代遅れの療法なのだろうか。河合俊雄は、「主体」をもう少し広い概念で捉えようとしている。つまり主体とは、人格の中心に固定されたものとしてあるのではなく、周辺からやってくるもの、あるいはカウンセラーとの接点に立ち現れるもの。そう考えれば、箱庭療法や絵画療法にも、現代のクライエントを支える可能性は残されているのかもしれない、と著者は述べている。

中井久夫に絵画療法を行う。

本書で最もスリリングな部分は最後の逐語録だ。何と著者自身が、セラピストとなって、中井久夫風景構成法を始めとする絵画療法を行うのだ。東日本大震災から一週間と経っていない2011年3月16日のことである。著者は最初、「何と大それたことをするのだろうかと畏れる気持ちと、資格も何もないのだから間違ったことをしてはいけないという緊張感で全身がこわばっていた。ところが、画用紙を前にした途端、それまでとは明らかに違う穏やかな感情がそっとわき上がってきたのである。(中略)これから展開する未知の世界を共に見届けようという思い。もしかすると、私は、ここにいてもいいのではないかという気持ちである。」中井は、絵を描きながら、そこに現れた自分の病や老いによる衰えを読み取っていく。「これは、僕は長くないなと自分で思いますね……。こんな木、見たことないですよ」著者には返す言葉が見つからない。中井がつぶやく一言一言に奥行きがある。

「なんかね、ぼくはいつもまっすぐな道なんですよ」

「横に一直線、縦は川沿いの道だけですね」

「ぼくはいろんなことをやっているようで、一つのことをやってきたのかもしれない」

絵画療法を終えると、疲れたのか、中井はソファに移動して眠りこんでしまう。

「部屋には自然光だけがあった。ふだん、取材で向き合っているときとはまったく異なる、静謐な空気に包まれていた。(中略)ただ、絵を媒介に向き合った時間は、私自身の気負いを平らかにし、未熟さを消し去ってくれたような気がした。(中略)それは、いまだかつて経験したことのない内容の濃い時間であるように感じられた。これが、因果から解き放たれた対話の力というものなのだろうか。日々の暮らしの中にこんな時間が少しでもあれば、人はもっと穏やかに、安らかに、生きられるのかもしれないと思った。」この部分、何度読んでも感動する。本書の中でいちばん美しいシーンだ。著者から絵画療法を受けながら、中井は、自分と著者をも包み込む豊かな時間を創り出したのだろうか。それとも風景構成法によって因果から解き放たれた心が創りだした境地だろうか。著者が体験した、この濃密な時間は、ある種の宗教的な方法でしか体験できないものではないだろうか。