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小田嶋隆「ポエムに万歳!」

ポエムの氾濫。
「ポエム」なるものが世の中にはびこっているという。著者によれば、世の中には、テレビから、新聞、ネットに至るまであらゆるメディアに「ポエム」が氾濫しているという。特にNHKなどのニュース番組で、女子アナが読み上げるニュースまでが、北朝鮮並みの演出過剰ないしは感情過多になっているという。この由々しき傾向は、いまに始まったわけではないという。前世紀から始まっていたと…。
著者について。
1980年代の終わり頃、著者による「わが心ICにあらず」というエッセイ集を読んだ。あまりの面白さと視点の鋭さに打ちのめされ、こんな痛快な文章は逆立ちしても書けないと脱帽、以来ファンになった。著者は当時、主にパソコン雑誌やゲーム雑誌に半ばテクニカルライターとして原稿を書いていた。しかし、文章があまりに面白いものだから、記事からコラムやエッセイへと領域を広げていった。数冊のエッセイ集を読んだ後は、彼の文章から次第に遠ざかっていった。著者の文章に再会したのは、ほんの数年前、ネット上の連載コラムにおいてだった。相変わらずの辛口毒舌ぶりは健在。「ひきこもり系コラムニスト」として大活躍中しておられる。その視線は、世界の小さなほころびも見逃さず、その文章はますます冴え渡る。著者が書く「ポエム」論が面白くないはずがない。
中田英寿の国民的ポエム。
著者は、ポエムの代表として、2006年、報道ステーションで古館伊知郎が2度も読み上げたという中田英寿の引退声明文を例に上げる。元々は中田のブログにファンに向けてひっそりと発信されたメッセージだったという。声明文というよりは詩に近かった。それがメディアに大々的に取り上げられ、大騒ぎになった。新聞各紙もいっせいに全文を掲載し、報道した。著者は、恥ずかしくて、鳥肌が立ったという。30歳間際の男が、ここまで臆面もなく自分語りをしてしまって大丈夫なのか?と。それ以来、大の男が公衆の面前でポエムをカマすことについてのハードルが俄然、下がったのだという。
ポエムとは何か?
著者によれば「ポエム」とは詩ではないという。詩は、どんな駄作でも「詩」であるという。「ポエム」は書き手が日記やルポルタージュ、手紙などの文章を書こうとして書ききれず、思わず自分を曝け出してしまった時に生まれる、恥ずかしい文章だという。そのほか、青年誌の水着グラビアの写真に控えめにレイアウトされた文章…。JPOPや広告はもちろん、いまやテレビのニュース報道から朝日新聞天声人語にまで「ポエム化」が進んでいるという。著者によれば、ポエムの完成は東日本大震災後、金子みすゞの「こだまでしょうか」を使ったACのCMが流れた瞬間だったという。
2002年頃、ポエムは、ネットのネタでしかなかった。
その頃、ネット上では厨房ポエム(=中坊:アホな中学生の頃に書いた恥ずかしいポエムを発見し焼き捨てる前に、2チャンネルで発表する)掲示板のネタとして消費されるに過ぎなかった。それから10年近く経って、ポエムは、あらゆる場所に恥ずかしげもなく大書きされるようになる。潮田玲子の「大切な君へ」という恋人へのメッセージ、吉高由里子中山美穂柴咲コウ尾野真千子ベッキーなど多彩な面々がポエムを発信し続けているという。
現代詩の自壊とともに台頭してきたポエムの巨匠相田みつお。
ある時期を境に現代詩がどこまでも尖鋭的かつ難解になり、「素人に何がわかる」といった調子の作品ばかりになって自壊した後のスペースに、過剰なわかりやすさを武器にした相田みつおが登場してきた印象があると著者は言う。あの日めくりカレンダー形式で居酒屋のトイレに吊るしてある、あの形式こそが感動につながるのだと著者は主張する。酔っぱらって胃液まで吐き、涙ぐんだ目に飛び込んでくる相田みつおの言葉は、どうしたって心に染みるのである。
「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」
謡曲の衰退。
さらに著者は、ポエムの台頭を、歌謡曲の衰退という流れから捉えようとする。1977年に流行した石川さゆりの「津軽海峡冬景色」を最後に、「国民歌謡」が終わった。その頃を境に日本のお茶の間から団欒が消え、世代を超えてヒットする流行が消えたという。ユーミンの登場も、ポエムの隆盛に拍車をかけた。しかし流行歌がポエムになのは何も目くじらを立てるほどのことではないという。問題は「ニュースのポエム化」であると著者は主張する。
古館伊知郎の罪。
彼の芸はプロレスポエムだった。それがF1に行った。さらにそのままニュースにまで行った。プロレスを離れても彼の芸風は変わらなかった。それ以降、彼は担当する番組すべてをプロレス化していくことになる。
もう一人の巨匠、尾崎豊
1983年、もう一人のポエムの巨匠、尾崎豊がデビューする。生きている間は、今で言うなら屈折系のEXILEぐらいのポジションだった彼だが、92年の死後、伝説化する。10代のカリスマと呼ばれ、スランプに陥り、覚せい剤で捕まり、ゲタ見出しの派手な死を経て、型通りの伝説化回路が発動したということだ。著者によると尾崎豊の場合、重要なのは、見た目がイケているということらしい。夭折しても不細工だと伝説にならない。若くて恰好いいまま永遠に歳を取らない人間には誰もかなわない。バブルに隆盛を極めたスノッブなものが歴史から消えても、尾崎豊の「青春」は不滅だという。尾崎豊と相田みつおは同じ時代にブレイクしたが、需要層はまるで違うという。将来、尾崎豊→相田みつおの移行が起こるかどうかはわからない。起こりそうな気がすると著者はいう。
「バイク盗んだっていいじゃないか だってにんげんだもの」
詩の言葉の回復を。
こうしてポエムの歴史を考察した後、著者は、震災以降、健全な詩の言葉の供給ルートを回復しなければならないと主張する。「そうでないとこの国はポエムに埋め尽くされてしまう」と。
世界のほころびを見逃さない正気の眼。
本書を紹介していて、自分の文章の拙さを痛感する。著者の文章の面白さは、どこから来るのだろう。明快さという点では共通する内田樹の文章ともかなり違う気がする。昨年読んだある本の中に「正気」という言葉を見つけて「コレだ」と思った。時代の潮流にほとんどの人が流されている時も独りだけ「こっちじゃねえ」と叫ぶことができる「正気」。世界のほころびや嘘を「なんかくせえぞ」と嗅ぎ分ける嗅覚のようなものかもしれない。それと庶民感覚だろうか。決して上から目線や専門家目線で物事を見ようとしない、という著者のこだわりかも。「うっせー」「かっけー」「パねぇ」のようなヤンキー言葉?がよく出てくるのも著者一流の「照れ隠し+庶民感覚」の表れか。著者の肩書を何と呼べばいいのだろう。やっぱりコラムニストか。作家でも、詩人でも、学者や研究者でもない。批評家というのも似合わない気がする。要するに専門家ではない。何者でもない、ひとりの生活者、一市民という立ち位置が重要なのかも…。本書には「ポエム」の他に、「オリンピック誘致」への疑問、体罰橋下徹、森ガールなど、多様なテーマについて、著者の鋭いツッコミと切れ味抜群のカミソリのような文章が読める。著者が日経ビジネスオンラインに連載している連載コラム「ア・ピース・オブ・警句」も愛読している。