映画「永遠の0」

泣いた。
ようやく映画版「永遠の0」を鑑賞。しっかり泣いた。周囲からも、すすりあげる声やハンカチを取り出す音が、聞こえてきた。2年ほど前、原作を読んだ時もやっぱり泣いたと思う。しかし見終わってみると、原作を読んだ時と同じ違和感を感じている自分に気づいた。原作を読んだ時も、その違和感が気になって、この作品に対する自分の評価を保留状態にした。そのまま今日に至っている。この「違和感」の正体は何だろう。
「感動」の危うさ。
僕はかなり涙もろい人間なので、映画を観たり、本を読んだりして、涙を流すことは少なくない。しかし、多くの人を「感動」させるモノには注意が必要だと思っている。フィクションの場合「感動」は作者が自由に作り出すことができる。ヒット曲と同じで、感動のツボというか、法則があるのだ。純粋のフィクションなら作者は「感動の法則」に従って、いくらでも「泣かせる話」を作りあげることができる。それが本当の文学的な感動かどうかは別にして、全然OKである。問題は、太平洋戦争のような史実を題材にした時の「感動」についてである。「永遠の0」の場合、主人公は、伝説的な腕を持った零戦のパイロットでありながら、妻子の元に必ず帰ることを誓っているという設定。空戦の最中も、生き残るために1機だけ高みに逃げて、敵と戦おうとしないのだ。何度出撃しても、彼の機だけはいつも無傷で帰ってくる…。あの時代、そんな態度を貫こうとすれば、軍隊という組織の中で生きていくことはできなかっただろう。主人公は、臆病者、卑怯者、海軍の恥さらしなどと呼ばれていた…。当然、彼は「特攻」にも反対し、自分が教官として教えた飛行兵の訓練の判定に「不可」を出し続けることによって、特攻に行かせまいとする…。フィクションとはいえ、こんな設定はありなんだろうか?と原作を読んだ時には疑問に思った。あの時代、あの戦況の中で、こんな人物が存在しえたとは到底思えない。しかし、このリアリティゼロの設定こそが「永遠の0」の、あの「感動」を生み出しているのだ。だから「感動して泣いている」にも関わらず、心のどこかは、「こんなこと、ありえない!」と白けてしまっている…。これが、この作品に対する僕の違和感の理由だと思う。
フィクションなら何でも許されるわけではない。
昔から戦記モノが好きで、坂井三郎の「大空のサムライ」をはじめとする戦闘機乗りたちの物語はたくさん読んだし、太平洋戦争末期の特攻に関する本もたくさん読んでいる。しかし「永遠の0」の主人公のような人物は存在しなかったと思う。フィクションだから、ありえないような主人公を登場させてもいいのではないか、という意見もあるだろう。ありえない設定の主人公を登場させることで、あの戦争の狂気や悲惨さを描き出そうとした、とも言えるかもしれない。国家を挙げて「一億玉砕」に突っ走ろうしていた時代に「絶対生きて還る」と誓い、行動する人物が登場すれば、放っておいてもドラマチックになるだろう。対立と衝突、死と再生、絶望と希望のドラマが生まれるだろう。しかし、そこには小説が依って立つべきリアリティが欠如していると思う。
一時期、架空戦記モノというジャンルが流行したことがあるが、すぐ読むのを止めてしまった。「もしもミッドウエーで○○○が○○○していたら…」でみたいな話。負けるべくして負けた戦争に、未練がましく、ありえない「もしも」を持ち込んで遊んでいる意味の無いゲームだと思った。「永遠の0」に感じた違和感も、ありえない「もしも」のせいだろうか。
二人の監督のNO。
この作品に関しては、宮崎駿監督と井筒和幸監督が批判している。宮崎駿は、「風立ちぬ」公開直後のCUTのインタビューでこの映画の企画に対して「零戦神話をまたねつ造しようしている」と批判した。たぶんこの映画を観ていないと思う。井筒監督は「特攻を美化している」と批判したと報じられている。僕は、この作品が「特攻を美化している」とは思わないが、ありえない「もしも」の設定は、零戦と特攻を描く作品に許される範囲を超えていると思う。
書く度にテーマが変わる作家。
著者は、放送作家でもあり、関西の人気番組「探偵ナイトスクープ」のライターでもある。他にボクシングを題材にした作品や出光石油の創業者を描いた作品、スズメバチを主人公にした作品など、書く度にテーマが変わっているという。最近では安部首相との対談集を出したり、クラシック音楽のエッセイと大活躍。どんな題材でも作品にしてしまうパワーはテレビ育ちのせいだろうか。右寄りだという意見もある。違和感を感じながらも読まされてしまった「永遠の0」。著者の他の作品も読んでみることにしよう。著者への評価は、その後にしたい。