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高畑勲「かぐや姫」

11月最後の土曜日、自宅にいちばん近い映画館である売布の「シネぴぴあ」で鑑賞。小さな劇場で、満員だったら困るので番号札をもらうために上映の20分前に行ったが、3番、4番だったので拍子抜け。半分以上の席が空いている。興行は意外と苦戦しているのかもしれない。制作費50億円と巨額だが、回収できるのだろうか?
淡彩画が動き出す。
鉛筆画や淡彩画が動き出すような映像は新鮮!ただ、「絵画が動くような動画」というのは、以前に何度か目にしたことがあり、それとどこが違っているのか、よくわからない。2時間以上の上映時間だが、長いと感じさせないのは、さすが。かぐや姫の幼年時代や木地師の子供たちとの交遊など、元の物語にはない部分も違和感なく見ることができた。故地井武男をはじめとする声優たちも面白かった。特にかぐや姫に言い寄る5人の貴公子たちは、上川隆也、宇崎竜童、伊集院光橋爪功などが演じ、アニメ上の顔が本人たちにどことなく似ているのがおかしかった。竹取の翁の顔は、地井武男というより監督本人に似ている。また、ラストの、雲に乗って月からお迎えにやってきた天界の御一行の描き方が面白い。いわゆる「来迎図」。奏でられる音楽は、軽快なラテンっぽいし、中心にいるのは阿弥陀様っぽい。何か軽めで、人を食っている。総じて、全編を通じて、退屈せずに楽しめた。
「姫の犯した罪と罰」って何?
映画を見終わって疑問が残るのは、キャッチフレーズの「罪と罰」って何なのかが、いっこうに明らかにならないこと。「竹取物語」では、かぐや姫は、天界において罪を犯し、その罰として地上に下されたことになっているが、この罪とは何なのかは語られていない。キャッチフレーズからして、その答が映画の中で明らかにされていると思ったが、わからないまま終わってしまう。「罰」のほうは、天界は死も老いも悩みもない世界であるため、地上のような穢れた世界に落とされることなのだとわかる。木地師の子供たちと一緒に歌うわらべうたの中に答があるような気がするが、「とり、むし、けもの、くさ、き、はな…はる、なつ あき、ふゆ…」これって要するに単なる自然讃歌ではないか、と思ってしまう。
いまなぜ「かぐや姫」なのか?
退屈はしなかったが、感動もしなかった。家人と感想を話し合ったのは、映画を観たあと、同じ建物の地下にあるコープで昼食と夕食の買い物を済ませ、駐車場の車に戻って、駐車場を出た後だ。普通なら、映画館を出た直後に、「ま、面白かったかな」とか、「サイテー、金返せ」とか、思わず感想が出るのだが、今回は、買い物の間、映画のことをまったく忘れていた。駐車場を出て、しばらくしてから、ようやく「映像は、新鮮だったけど…」という言葉が出てきた。何というか、自分に関係ない感じ。だから映画館を出た途端、スパッと忘れられる。いまなぜ僕たちが「かぐや姫」の物語を見なければならないのか。その理由が見つからない。「風立ちぬ」が、宮粼駿自身ののっぴきならない事情から生まれたというような、必然性というか、切迫感が伝わって来ないのだ。好きにせよ嫌いにせよ、宮粼駿の作品には僕を惹きつける(あるいは突き放す)力がある。「かぐや姫」は、いまの自分には関係がない、関心も持てない世界の話としてしか観ることができなかった。
本当は、痛烈な反骨・反権力の物語。
実を言うと、竹取物語という物語は嫌いではない。そこには時の権力者たちを痛烈に笑い飛ばすような反骨の精神があるからだ。平安時代、隆盛を極めた藤原氏に対して、強い不満を持っている不遇の知識人が書いたのではないかと考えられている。かぐや姫に言い寄る5人のセコい貴公子たちには、それぞれモデルがあったのではないかとも言われている。そんな当時の世相も含めて描いていけば、もっと面白い映画になったのではないかと思った。