大田俊寛「現代オカルトの根源 霊性進化論の光と闇」

前書による混乱を収拾する?
前回のエントリーで書いた「オウム真理教の精神史」は、オウムの教義や世界観が、どこから来たのか?どのようにしてリアリティを持つようになったのかという問いかけから始まった本だった。そのために、著者は「宗教とは何か?」「近代とは何か?」という根源的なところからオウムの考察を始めている。しかし、そのために考察する対象が多岐にわたってしまい、収拾がつかなくなってしまった観がある。いちおうオウムの教義や世界観が、「ロマン主義」「全体主義」「原理主義」の範疇に入るものだという結論が提示されているのだが、それで一向に理解できた気がしない。著者もそれを感じたのか、本書では、異なるアプローチで、オウムの世界感に迫っている。
霊性進化論という概念。
まず、オウムの世界観を、「現代オカルト」と呼び、さらに、その中心軸に「霊性進化論」という概念を置いて考察している。ブラヴァツキー夫人に始まる「神智主義」や「アーリア人種論」、その後に出てきた様々なオカルティズムの概念や世界観は、前書と重なっている部分もかなりあるが、この「霊性進化論」を軸にして書かれているだけに、かなりわかりやすくなっている。しかし、霊性進化論の概念の上に生まれてきた様々なオカルトの世界観は、UFOと宇宙人、前世と偽古代史、マヤ歴による終末論、爬虫類人による陰謀論など、現代に近づくほど、荒唐無稽なものになっていく。SFでも書かないような陳腐で安っぽい物語を延々と読まされると、呆れ果て、やがてうんざりしてくる。よくもまあ、ここまで妄想が際限なく膨らむものだなあと。そして、その延長線上にオウムも生まれてきたのである。最後に著者は、霊性進化論が生まれてきた背景を振り返る。
すべてが進化し変化する世界の中で。
近代化によって急速に発展した諸科学の知見は、キリスト教を含む伝統的な諸宗教の学知を、前近代的な「迷信」の寄せ集めに変えてしまった。特にダーウィンの「進化論」によって、神によって創られたという人間は、サルから偶然と淘汰によって進化した生物に過ぎないとされてしまう。また近代化によって起きた様々な変化によって、社会は静的な構造ではなく、常にダイナミックに変化し、進歩し続ける動態的な構造に変化していく。このような状況のなかで、「進化論」は、生物学の一理論であることを超えて、近代全体の支配的なイデオロギーになっていったと、著者は言う。さらに旧来の宗教に基づく世界観や倫理観が空洞化してしまったこと。また、社会が過度に複雑化し、流動化したことによって、人々はしばしば、自己のアイデンティティの基盤を見失うことになる。社会学者のマックス・ウエーバーは「現代の文明は『無限の進歩』を前提としているため、現代人は必然的に、進歩の過程の途中で死なざるを得ない。ゆえに、彼にとって自己の生は、常に不満足で無意味なものに映ってしまう。」と述べている。著者はさらに、次のように語る。「このような状況に置かれた現代人にとって、霊性進化論の発想は、ほとんど唯一の福音と思われるほどに、優れて魅惑的に響く。肉体が潰えた後も霊魂が存在し、輪廻転生を繰り返しながら永遠に成長を続けることによって、世界の進歩とともに歩み続けることができる。また、近代科学の影響によって、いったんは打ち捨てられた諸宗教の知恵を、霊性進化という観点から再解釈し、その価値を再発見することが可能となる」。霊性進化論は、人類に上のような福音をもたらすいっぽう、強烈な負の側面を持っている。著者によると、負の側面は以下の三点が指摘できるという。(1)霊的エリート主義の形成:霊性進化論の信奉者たちは、しばしば自分こそは他の人々に先んじて高度な霊性に到達した人間であると考えるようになる。そして自分や自分たちの集団以外の人々を「霊性のレベルが低い」「低級霊や悪魔に取り憑かれている」「動物的存在に堕している」といった差別意識が向けられ、しばしば攻撃が実行される。(2)被害妄想の亢進:霊性進化論の諸思想は、当初、楽観的な姿勢で運動を拡大させていく。しかし団体が大きくなり、社会的に認知され、一定の批判を受けるようになると、彼らの思想は急激に「被害妄想」へと反転する。目に見えない闇の勢力によって自分たちは迫害、攻撃を受けている、と思い込む。その論理は、しばしば闇の勢力が広範囲にわたるネットワークで人々の意識をコントロールしているという陰謀論に発展する。(3)偽史の膨張:霊性進化論は、「人間の霊魂は死後も永遠に存続する」という観念を、近代の科学的な自然史や宇宙観のなかに盛りこもうとする。その結果、人類が誕生する以前から、さらには地球が誕生する前から、人間の霊魂が存在していたという奇妙な着想が出てくる。人類は地球に到来する前に別の惑星で文明を築いていた、有史以前に、すでに科学文明を発達させていたなど、超古代史的な妄想が際限なく膨張していく。
150年にわたって繰り返されてきた霊性進化論のバリエーションを概観した著者は、その思想が、妄想以外の何物をも生み出し得ないと結論づける。結論づけた上で、著者は、「しかし、果たしてわれわれは、その思想を一笑に付して済ますことが許されるだろうか。それもまた、余りに一面的な短見と言わなければならないだろう」と自ら反論する。そして「なぜなら科学と宗教のあいだに開いた亀裂、霊性進化論を生み出す要因となった問題は、根本的な解を示されないまま、今もなおわれわれの眼前に差し向けられているからである。」と締めくくる。
仏教はどうなのか?
著者は宗教学者であり、以前はキリスト教グノーシス派についての著書がある。そのせいか、本書の論理も。どちらかというと、西洋的、キリスト教的な世界観で語られているような気がする。本書には、仏教のような東洋の宗教・思想まで含めた論考にはなっていないように思えるが、どうなんだろう。読めば読むほど、混乱してしまった、前書の「オウム真理教の精神史」に比べ、本書は、はるかに整理され、シンプルなロジックで語られている。前書の感想で自分の結論を「無宗教で行こう」と書いたが、仏教に関しては、ちょっと保留中ということにしておこう。