村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

いわくありげなタイトルと発売日のみの発表で、ここまで話題になるのだから凄い。店頭に大量に置かれた本書をレジに持っていくのは、少し恥ずかしい。本を買うのに、こんな気持ちを体験するのは珍しい。村上春樹の作品。かつては時代のトレンドをチェックするぐらいのつもりで読んでいたが、ここ数年は、もっと積極的に読むようになった。
「喪失」からはじまる物語。
主人公は、村上作品の、いつもと同じような人物。それなりにハンサムで有能だが、これといって特徴がない。仕事や日常生活では、それなりにこだわりを持って丁寧に暮らしている。今回の主人公がいままでと違っているのは、この人物が、最初から「色彩を持たない多崎つくる」と定義されてしまっていることだろうか。主人公は大学時代、ある事件がきっかけで半年以上にわたって死ぬことばかりを考えていた時期があった。その事件とは高校時代から長くつきあっていた4人の友人から、ある日、我々はみんなもうお前とは2度と顔を合わせたくないないし、口をききたくないと宣告されたことだ。その理由は何ひとつ説明されない。正五角形のように完璧な関係だった5人のグループから主人公だけが、ある日突然追放されてしまったのだ。小説は、それから16年が経った現在から始まる。友人たちを失った痛手から何とか回復し、就職し、幼い頃から好きだった「駅」を作る仕事に就いている。
失われた者を探す旅へ。
著者のこれまでの作品は、多くの場合、主人公が親しくしていた友人やガールフレンドが、ある日突然いなくなるところから始まる。その失われた誰かを探すために、主人公は平穏な日常を飛び出して旅に出る。そんなストーリーが多かったように思う。本書は、そのバリエーションといえるかもしれない。「喪失」は、16年前に起きており、主人公は、何とか、その試練から立ち直り、平穏な暮らしを続けている。女友達はできるが、深い関係になっていくことがない。ここで沙羅という女性が登場する。彼女は主人公に16年前の話を聞かされて、彼が、16年前に自分を切り捨てた友人たちに会って話をすることを提案する。ここから「失われたもの」を探す旅が始まるのだ。これまでの作品では、多くの場合、その旅は、「現実の世界」と、それに「もうひとつの世界」をめぐる旅になっていた。しかし本書では、「もう一つの世界」ではなく、あくまで、「この現実の世界」をめぐる旅として語られていく。名前にアオ、アカ、シロ、クロの色を持つ友人たちは、なぜ、ある日突然主人公を切り捨てたのか…。ミステリー仕立てともいえるストーリーテリングで、読者をぐいぐい引き込んでいく。前半は、友人たちの完璧ともいえるグループの記憶が語られ、後半は、友人たちを訪ね歩く「巡礼」が語られる。
パラレルワールドの終焉。
1Q84」も含めて、村上春樹の小説は、パラレルワールドの小説であると思っている。この世界には「もうひとつの隠された世界」があり、僕らのこの世界は、その「隠された世界」と深くつながっている。ある日、その世界が危機に陥り、主人公の「大切な人」は、その世界に出入りできる能力を持っているために、主人公の前から姿を消す。主人公は、失われた「大切な人」を探すために、旅に出る。それは「もうひとつの世界」に入り込んで様々な試練を受ける旅でもある…。主人公は、その無垢な心と大切な人への思いだけで、様々な試練を乗り越えていく…。しかし、この作品では、そのようなパラレルワールドは登場せず、あくまでも、この世界で、16年前に起きた、主人公が知らなかった物語が解き明かされていく。完璧に思えた5人のグループの関係にも異質なものが入りこんでいたのだ。悪霊は、パラレルワールドにいるのではなく、この世界の、僕たちの心の中にこそ生きているのだ、とでも言いたいかのようだ。
色彩の意味。
青/赤/白/黒など「色」が重要なテーマになっていて、仏教や陰陽五行の概念が隠されているという説もあるが、そこはよくわからない。沙羅という名の女性が出てくるのも、ひょっとしたら仏教に関係があるのかもしれない。そう言えば風水などにいう四神も青龍(アオ)、白虎(シロ)、朱雀(アカ)、玄武(クロ)で、これに中央の黄龍か麒麟を加えて五神ということもあるらしい。さらに灰色や緑も出てくるから、いろんな解釈が出て来そうだ。
成熟だと思う。
この作品には、これまでの村上作品には無かった新しい領域に踏み込んでいると思う。それはパラレルワールドを持ちこまなくても作品が成立していること。それはひとつの成熟ではないだろうか。いままで読んできた村上作品の中で、いちばん素直に共感できた作品である。