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角幡唯介「アグルーカの行方 129人全員死亡、フランクリン隊が見た北極」

「空白の5マイル」「雪男は向こうからやってきた」に続く3作目。今度は北極が舞台だ。探検の歴史と自らの探検紀行を同時進行で語っていくという手法はすっかり定着したようだ。どちらか一方だけだとたぶん退屈してしまう探検読み物が、この手法なら最後までいっきに読み通すことができる。本書は、枕元に置いて、夜寝る前に少しずつ読んでいった。
北極探検最大の謎、フランクリン探検隊の足跡を歩く。
本書のテーマであるフランクリン探検隊とは、19世紀半ば、大西洋から太平洋に抜ける北西航路発見をめざした英国の探検隊である。彼らは途中、氷に閉じ込められ、船を捨てて脱出を試みるが果たせず、129人全員が死亡した。極地探検史上最大の謎とされる、この探検隊の足跡を、著者は自らの足でたどってみようと思い立つ。北極圏を100kgもの荷物を積んだ橇を曳いて、1600kmを徒歩で踏破するという探検紀行である。もちろん、まともな地図さえなく、装備も貧弱だったフランクリン隊に比べると著者の北極探検ははるかに恵まれている。ゴアテックスやフリースといった防寒装備、水で戻すだけで食べられる米。ビタミンCの錠剤。軽くて高性能なテント、さらにはGPSや衛星携帯電話などのハイテク機器によって、著者たちははるかに安全で快適な極地踏破が可能になっている。とはいっても連日マイナス20度〜30度になる北極の地を100kgにもなる橇を曳いて歩くのだから、過酷そのもの紀行である。例えば著者と同行の極地探検家、荻田泰永は1日の食事のカロリーを5千キロカロリーと決めて食料を用意していったが、極寒の地で重い橇を曳いて歩くという重労働によって、日に日に痩せていく。そのうち絶え間ない空腹感に悩まされるようになり、さらには飢餓感に苛まれるようになったという。空腹感ならわかるが飢餓感というものを生まれて以来体験したことがない。著者の体験は、やはり極限の冒険紀行と言えるだろう。
餓死の入江で全滅。
著者たちは、氷に覆われた海の上をひたすら歩き続ける。途中、ホッキョクグマやオオカミに遭遇したり、乱氷地帯に苦しみながら、フランクリン隊の足跡を辿っていく。来る日も来る日も周囲は雪と氷のみ。過酷ではあるが、紀行そのものは比較的単調である。同じルートを辿ったフランクリン隊のエピソードを語ることによって、その単調さから救われる。2隻の軍船が氷に閉じ込められたフランクリン隊は、ボートに荷物を積んで氷上を徒歩で脱出しようと試みる。しかし結局は誰一人生還することはできなかった。探検隊が行方不明なって10年以上経ってから、主に北極圏に暮らすイヌイットたちの話から隊の凄惨な最後の様子が明らかになってくる。船を捨てて、徒歩で脱出を試みた隊員たちは、壊血症や凍傷に苦しみ、飢えたあげくカニバリズムに走ったという。彼らが辿ったルートには地獄のような凄惨な死の跡が点々と残されている。最後は「餓死の入江」と名付けられた場所で全滅したとされ、その先には彼らの足跡は一切見つかっていない。
3人の生存者がいた。イヌイットの言い伝え。
しかしイヌイットたちの間には、隊の最後の生き残りがさらに生き延びて脱出を試みたという言い伝えが残されている…。あるイヌイットはひどく消耗した4人の白人に遭遇した話を伝えている。4人の一人はアグルーカと自ら名乗ったという。アグルーカとは、イヌイットの言葉で「大股で歩く者」という意味で、白人の優れた探検家の何人かは、その名で呼ばれたという。イヌイットは、彼らにアザラシの肉を少しずつ与え、イグルーに住ませ、彼らの体力が回復するのを助けたという。間もなく4人の中の一人が死んでしまう。体力が回復した彼らは再び南に向って旅立って行ったという。彼らが生還したという記録は残っていないから、やはり話自体が伝説だったのか、それとも生還できずにどこかで死んでしまったのか…。
著者たちは、64日をかけて千四十六キロを歩いて、最初の目的地、ジョアン・ヘーブンに到着する。ふたりは、この町でたっぷり休養し、体力の回復を待って、次なる旅に出発する。次なる旅とは、フランクリンの死後、隊長の地位を受け継いだフランシス・クロージャーがめざした「バックのフィッシュ川:北米最北部を流れるグレートフィッシュ川」をめざす旅である。イヌイットの言い伝えにあった探検隊の最後の生き残りが辿ったかもしれない夏の不毛地帯をたどっていく。夏、雪や氷が解けてできた無数の川に分断されたツンドラ地帯を旅するのは、氷上以上に困難を伴うという。イヌイットたちも入り込まない夏の不毛地帯は、探検する者もなく記録もほとんど残っていない。著者たちは1.2kgという超軽量のゴムボートなどを使いながら、幻のアグルーカの足跡を探しながら南へ向う。運がよければアグルーカたちの墓といった足跡が見つかるかもしれない…。ジョアン・ヘーブンからさらに600kmを踏破し、北極圏を抜け、ベイカー湖に到達し、旅を終える。
1600kmを歩いた。
本書を読みながら、途中で気になってきたのは、フランクリン探検隊のことより、彼らが遭難した北極の過酷な自然の中で暮らしているイヌイットたちの存在である。動物の毛皮で作った服を着て、動物や魚の骨や皮で作った橇を曳き、狩猟採集生活を続けている彼らのほうが、本当は偉大ではないか。フランクリンをはじめとする英国の探検家たちは銀の食器やワインなど、文明の産物を北極探検に持ち込もうとした。動物の毛皮の服ではなく、防寒性の低い軍服にこだわり続けたらしい。英国人たちはイヌイットの生活を野蛮なものとして見下していたという。西洋文明特有の傲慢さが、フランクリン探検隊の悲劇を招いたのかもしれないと著者は語る。旅の最後で、著者は、フランクリンをはじめとする探検家がなぜ北極体験に出かけていったのかと問いかける。3度の探検のうち、一度は、食料も尽きて死にかけ、靴を齧って生きのびたというフランクリン。故国では銅像が立つ程の英雄になった彼が、なぜ三度目の北極探検に出かけたのか。1600kmを旅した著者は、彼らが北極の自然に囚われてしまったからだという。「それまでふらふらと漂流していた自己の生は、北極の荒野を旅することで、初めてバシッと鋲でも打たれたみたいに、この世における居場所を与えられる。それは他ではえることのできない希有な体験だ。」と結論づける。
毎夜の旅。
毎日、寝る前に30分ほどかけて本書を読み進めていった。読み終えるのに2週間ほどかかった。毎日、過酷な北極の世界を著者たちとともに旅した。読み疲れると、暖かいベッドの中に戻って、心地よいぬくもりの中で、極地紀行の余韻を味わいながら眠りにつく。旅するような読書になった。