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葉室鱗「蜩ノ記」ほか

時代小説は好きなジャンルだが、藤沢周平を読み尽くした後は、他の作家を読んでもあまり面白くないと思ってしまう。ストーリーがご都合主義で人物描写が浅い。しかも設定などが藤沢作品の二番一煎じに思えてしまう。だから時代小説が読みたくなると、藤沢作品を再読したり、もっと以前の山本周五郎を読んだりしてしのいでいる。そこに登場したのが2012年「蜩ノ記」で146回直木賞を受賞した葉室鱗。家人が文庫化された作品を数冊読み、「藤沢周平を越えているかも」と絶賛。ほんとかなあと疑いながら数冊を読んでみる。
「秋月記」
筑前の小藩、秋月藩が舞台。確かに文章は上手い。端正で涼やか。人物もしっかり描けている。藤沢作品を知らずにこの作品を読んだとしたら間違いなく傑作だと思っただろうが、ストーリーや設定が藤沢作品に似ており、二番煎じの感はぬぐえない。読み終えたあと、他のレビューなどを読むと、この作品は、実際の事件を題材にした歴史小説のようだ。
「実朝の首」
こちらは時代小説というより歴史小説。鎌倉時代の源実朝の暗殺事件を題材にした小説で、北条政子などの人物描写が面白くて、楽しめた。しかし歴史上の事実をベースにしているせいか、「秋月記」ほどのパワーはなかった。著者は、武士や貴族の衣装にも造詣が深いようで、登場人物たちの衣装の描写をかなり描きこんでいるが、悲しいかな、知識の貧弱な自分では文章から衣装のビジュアルを思い浮かべることができない。図鑑などを参照しながら読むと面白いのかもしれない。
「銀漢の賦」
これは よかった。同じ道場に通う幼なじみの親友が成長し、違う道を歩き始める。一方は藩政の頂点に登りつめ、他方は、下級役人のまま老境に入ろうとしている。そして再び藩内の権力争いが動き出した時、二人は運命的な再会を果たす…。藤沢作品にもよく出てくるようなストーリーだが、二人の主人公を中心とした人物はしっかり描かれていて、リアリティがある。そして二人にからむ敵役や女性たちも、それぞれ存在感があって魅力的。物語の終盤、二人が過去の出来事を回想して、隠された真実を語り合う場面では不覚にも涙が出た。著者は漢詩に造詣が深いようで、武士の教養であった漢詩引用が、作品に独特の香りを与えているようだ。「銀漢」という言葉も、漢詩で銀河のことを表すという。ただしストーリーと人物の造形は、芝居がかりすぎというか、きれいに作りすぎというか、藤沢周平なら、もっとさらりと書いたのになあ、と思ったりした。
「蜩ノ記」
舞台は豊後・羽根藩。奥右筆の檀野庄三郎は、城内で刃傷事件を起こし、切腹となるところを、家老より特命を命じられ、命拾いをする。その特命とは、向山村に幽閉中の元郡奉行・戸田秋谷のもとに行き、彼が命じられている家譜(藩史)の編纂を補助すること。秋谷は七年前、前藩主の側室と密通を犯し、家譜編纂と十年後の切腹を命じられていた。家譜編纂の補助と言いながら、庄三郎の本当の使命は、秋谷の監視であった。庄三郎は、秋谷のそばで過ごすうちに、その人柄の清廉さに惹かれ、彼の切腹を食い止めようと、7年前の事件の真相を探り始める…。10年後の切腹を命じられた武士と、からくも切腹を免れた武士、かなり不自然な設定から物語は始まり、7年前の事件の真相解明というミステリー仕立ての展開で進んでいく。藩内の権力争い、若い二人の恋などをからめながら、7年前の事件解明のクライマックスへ。読み応えもあり、感動もする。主人公である戸田秋谷があまりにもきれいに描かれすぎてるような気がする。
「乾山晩愁」
絵師など芸術家を主人公にした短編集。これは面白かった。尾形光琳の弟の陶工、尾形乾山長谷川等伯狩野永徳など、戦国期から江戸期まで、時代の流れに翻弄されながら、時の権力に取り入りながら、自らの芸術を追求した芸術家たちの生涯を描いた。武士が主人公の作品に見るような、権力や陰謀をめぐるドラチックな展開はないが、日本画の豊富な知識に裏付けられたストーリーはけっこう楽しめる。芸術家を主人公にした歴史小説は難しいと思う。特に画家や音楽家を主人公にした作品は、あまり好きな作品がない。江戸時代の小唄の作者の生涯を描いた山本周五郎「虚空遍歴」、本阿弥光悦・俵谷宗達・角倉素庵による嵯峨本の出版を描いた辻邦生「嵯峨野明月記」ぐらいしか思いつかない。面白いのは、作品の中で、尾形光琳などの絵師たちと四十七士による討ち入りが実はつながりがあったかもしれないという仮説が語られること。あまり好きではない忠臣蔵の話が別の意味合いを持ち始める。
「風渡る」
戦国時代に活躍した軍師、黒田官兵衛を主人公にした歴史小説。官兵衛といえば司馬遼太郎の「播磨灘物語」が有名だが、本書の印象は大きく異なっている。その理由は、官兵衛がキリシタンであったことに焦点を当てて書かれているせいである。他のキリシタン武士や宣教師たちとの交流が物語を進めていく。そして、戦国時代最大の謎ともいえる「本能寺の変」も、実はキリシタンに大いに関わりがあり、驚くべき真相が明かされる。「播磨灘物語」では、官兵衛は商売にも通じた合理的な知将として描かれている。それは「花神」の大村益次郎、「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛、「坂の上の雲」の秋山真之等にも共通する、司馬好みの技術者ーースペシャリストとしての姿である。本書での官兵衛は、天才的な知謀をめぐらしながらも、キリスト教信者としての精神性を貫いた武士として描かれている。官兵衛の次に重要な役割を与えられているのが日本人宣教師ジョアン。日本人でありながら、長身と白い肌、そして青い目を持つ若者の存在は、最後まで明かされない謎として、また官兵衛をキリシタンにとどめる力として物語を牽引していく。ジョアンの人物は作者の創作で、小説のリアリティを損なっている部分もあるが、エンターテインメントとしては数倍面白くなっている。ジョアンは、如安?官兵衛の晩年の名である「如水」も実はキリスト教に関係があった!?というエピソードも面白い。戦国時代を舞台にした歴史小説の中で、キリシタン側の視点から描くという着眼点はユニークで成功している。解説で本書の続編が書かれたとあるが、読んでみたい。
藤沢周平を越えたか?
最後の「風渡る」は、歴史小説としてはとても面白かった。自分的には合格。この先も読み続けたいと思う。次に、藤沢周平以後の時代小説作家としてはどうだろう。現在存命の作家としては間違いなくトップクラスだと思う。ただし、藤沢周平の作品と比較すると、ほんの少しだけ物足りないものを感じる。それは何なのだろう…。葉室作品を読みながら、ずっと考え続けてきたのだ。間違っているかもしれないが、たぶん以下のようなことだと思う。それは一言で言うと「リアリティ」ではないか。藤沢作品の登場人物は、それがどんなに端役であっても、こういう人物はいるな、と読者に思わせる存在感がある。それは江戸時代というよりも、現代におけるリアリティなのである。江戸時代に、そのような人物が存在したかどうかはわからないが、自分の周囲にも間違いなくいそうな人物が、江戸や戦国という設定の中で動き回るという感じなのである。藤沢作品は、時代小説というよりサラリーマン小説や青春小説として読まれているのではないかと密かに思っている。またストーリーの展開にも、同じく妙なリアリティがある。作品中で登場人物たちに訪れる事件や運命にも「そうなんだよな、人生って奴は、こんな時に限って、こんな風に動くんだよなあ…」と思わせる力があるのだ。藤沢作品の場合、不思議なことに「蝉しぐれ」など、架空の小藩を舞台にした作品のほうがリアリティが優れている。そのせいか、実在のの人物を題材にした作品のほうが自分の中では評価なが低いのである。葉室鱗の小説は、この点のみで藤沢作品にほんの少し及ばない。逆に言えば、だからこそ、葉室作品の面白さがあるのかもしれない。