ジル・ボルト・テイラー「奇跡の脳 ---脳科学者の脳が壊れたとき--」

こんな凄い本を、なぜ今の今まで知らなかったのだろう。少し前に書店の文庫コーナーで見つけて気になっていたが、その時は買わなかった。買うきっかけになったのは4月23日放送のNHK Eテレの「スーパープレゼンテーション」で、著者のTEDトークを見たことだ。著者の名前は憶えていなかったが、トークを聞いていると、あの本の著者に間違いないと思った。十数分のトークの内容に鳥肌が立った。有能な脳科学者であった著者は、37歳のある朝、脳卒中に襲われる。左脳の中央部の出血によって脳の機能が失われていく。その過程を、著者は、脳科学者の視点から、冷静に語っていく。出血が比較的ゆっくりと進行したせいか、脳の機能が壊れていった様子が生々しく描かれる。目の奥の頭痛に始まり、感覚の異常、身体のコントロールの不調、光や音が苦痛になっていく…。一番驚かされたのは、脳の認知機能が崩壊していこうとしているのに、著者は、かつてないほどの幸福感に満たされていたことだ。そして、自分の身体が50兆個の細胞の完全な協調によって保たれていることを直感する。脳卒中によって著者が体験する世界の変容は、一般に、宗教体験や至高体験といわれるものとよく似ている。完全なる平和、自分の身体と世界との境界が消え、宇宙との一体感を体験する。自分を個体ではなく絶え間ない「流れ」であると感じること…。それは左脳の抑制から解放された右脳が見た世界なのだ。右脳は「いま、この瞬間」のみを生きる。左脳は「過去と未来」を生きる。数字やアルファベットも理解できなくなっていく状態の中で、著者は気の遠くなるような苦労をして友人と自分の勤め先に電話をかけることに成功する。電話をかけた後、著者は、さらに身体の感覚が失われ、生命のエネルギーが尽き、意識が身体から解放される瞬間を体験する。この辺りの描写は、「臨死体験」そのものだ。
幸運にも、駆けつけた友人によって救急車が呼ばれ、病院に運ばれた著者は、かろうじて一命を取り留める。しかし、もはや身体を自ら動かすことも、言葉を発することもできない重度の傷害者になってしまった。母親が駆けつけ、頭蓋を開ける手術を受ける。そして7年間にもおよぶ、長い長い気の遠くなるようなリハビリがはじまる。それは生まれてきたばかりの赤ん坊が、すべてを1から学んでいく過程をもう一度繰り返すことと同じだった。歩き方や物の持ち方をはじめとする身体の動かし方にはじまり、空間の奥行きなど、著者を取り巻く環境の理解まで、ありとあらゆることを1から学んでいく。そして著者は、知能や身体機能も含めて、ほぼ完全に回復する。いや脳卒中に襲われる前の自分ではなく、脳卒中によって体験した「右脳の世界」へのアクセスを自由に行えるようになった新しい自分へと生まれ変わるのだ。脳卒中の後のリハビリテーションの過程で体験する様々な現象は、僕たちの普段の生活でのヒントにもなるものだ。例えば、治療中の著者が出会う人間には、著者からエネルギーを吸い取る吸血鬼のような人間と、エネルギーを与えてくれる人間がいる。前者は、常に時間に追われ、自分の思い通りに動かない著者をぞんざいに扱い、早口で、大声でしゃべりまくり、著者のエネルギーを吸い取るばかりの人だった。後者は、優しく適切に身体に触れ、目を合わせて静かに語りかけることで、患者にエネルギーを与えてくれる。右脳は、人のエネルギーに敏感であり、ちょっとした表情や言葉のトーンから相手の精神状態や体調を読み取り、さらに思いやりによって相手と接しようとする。コミュニケーションは、ロジカルな言葉だけではなく、身ぶりや表情、視線、声のトーンなどによる双方向のエネルギーのやりとりであると著者は語る。僕自身も、人と話す時に、相手と目を合わせずに話すことが少なくない。それって左脳に偏ったコミュニケーションになってはいないか、と反省。
本書の後半は、脳卒中により左脳の機能が失われ、解き放たれた右脳が著者に体験させた「深い心のやすらぎの世界」の素晴らしさと、その世界にいかにアクセスするかを語ることに費やされる。それはほとんど、僕がずっと敬遠してきた「スピリチュアルな世界」の啓蒙本のようである。本書とそれらの本との違いは、著者が脳科学者であるという一点である。そして著者が体験した「右脳の世界」は、脳卒中によって引き起こされた症状にすぎない。そして宗教体験や神秘体験も、同じように右脳が重要な役割を果たしていることは間違いない。宗教家の瞑想や修行も、左脳の機能を抑制し、右脳を解き放つための手段であると言えるかもしれない。宗教に限らず、芸術や創造の分野でも、人間は右脳の力を解き放とうと様々な努力を続けてきた。僕らの仕事でも、様々なやりかたで右脳の世界にアクセスする方法が試されている。本書には、右脳活用のための多くのヒントが書かれていると思った。内田樹先生がおっしゃる「身体で考える」という発想も、もっと右脳の声に耳を澄ませなさい、ということなのかもしれない。
本書は、脳科学者が脳卒中に襲われて、左脳の機能を失い、さらにそこから奇跡的に回復することで書かれた、ほとんど奇跡のような偶然によって生まれた本。自分がここ数年読んだ本の中で最も重要な本の一冊であることは間違いない。

補足
本書を同じ時期に読んでいた友人から、「悟りを脳の機能問題で片付けるの違うと思う」という感想をいただいたので、この問題に関する自分自身の考えを整理しておきたい。僕は基本的に無宗教なので、本書のロジックを何の違和感もなく読んだが、宗教やスピリチュアルな世界を全く否定しているわけではない。心霊的な感受性はほとんど無いが、霊的な世界や存在を心の深層で信じている気がする。そして人間の脳の中には、あらかじめ心霊的、宗教的な世界にアクセスするためのチャンネルが備わっていると思う。それは左脳の抑圧によってふだんは閉じられているが、何かのきっかけによって開かれることがあるようだ。スピリチュアルのチャンネルが開かれた時、ふだん知ることができない情報を知ることができたり、予知や透視など、超常的な体験をすることがある…。そのためにはある種の訓練が必要になる。宗教者の瞑想や修行は、左脳の活動を抑制し、右脳の活動を活発化させるための手段なのだと思う。本書の中でも、SPECT技術を利用してチベットの僧侶とフランシスコ会の修道女が神秘体験する時、脳のどの部分の神経活動が変化するかを調べた研究が紹介されている。だからといって、神秘体験が、脳の一部の単なる生理的な変化にすぎないと決めつけるのは早すぎる。その生理的な変化は「悟り」の世界へアクセスするための回路を開くプロセスの一つに過ぎないかもしれない。著者も、本書の中で、神秘体験の脳科学的な研究の話を紹介しながら、その後で右脳の世界の素晴らしさやアクセスするための様々な方法について熱意を込めて語っているのだから。