福岡伸一「フェルメール 光の王国」

生物学者でありながら「小説家の文章」を書いてしまう希有な著者、福岡伸一によるフェルメール紀行。世界中に散らばったフェルメール作品を、所蔵している美術館において鑑賞するという贅沢な企画である。ANAの機内誌「翼の王国」に連載された。著者は、例えば分子生物学の重要な発見について語る時も、その発見に関わった人間たちの様々なエピソードを物語ることによって、語ろうとするテーマを際立たせていく。成功と転落。野望と失意。友情と確執…。科学の輝かしい業績の陰には、つねに人間くさいドラマが存在する、と著者は言いたいかのようだ。その結果、著者の作品は、小説以上にスリリングな読書体験を味わせてくれる。その文章も、小説の一節といってもいいような明晰さと美しさを兼ね備えている。本書も、フェルメールの作品や生涯を詳細に語るというよりは、彼の絵にまつわる様々な人物に光をあてて、いわば、その反射光によって著者のフェルメール像の浮かび上がらせようとする試み。
フェルメールとその宇宙。
フェルメールと同じ年にオランダの同じ都市で生まれた「顕微鏡の父」レーウェンフック。アインシュタインスピノザ野口英世ガロアライアル・ワトソン、シェーンハイマー…。その半数は、フェルメールと接点すらない人物であるが、著者自身の内面においてつながっている。だから本書の中で、著者が描き出したフェルメールの世界は、いままでに読んだフェルメール論とは少し違っている。さらに本書の最後に、著者は「顕微鏡の父、レーウェンフック」とフェルメールが出会い、交流し、互いに影響しあった可能性を示唆する。レーウェンフックが顕微鏡による自然観察の結果をフェルメールに描かせた可能性さえ考えられるという。フェルメールの「光への理解」は、レーウェンフックの顕微鏡や光学機器による自然観察の体験によるところが大きいのではないかと…。現在まで、二人の交流を示す証拠は発見されていないが、著者はその可能性にこだわる。かつてオランダには科学者と芸術家がコラボレーションする伝統があったという。またフェルメールの時代、科学と芸術は、そんなに遠い存在ではなかったという。
ライアル・ワトソンの終いの家。
ダブリンの美術館でフェルメール作品を鑑賞した後、著者は、2008年に亡くなったライアル・ワトソンが最後に暮らしたアイルランドの家を訪れている。僕は、個人的には、この章を興味深く読んだ。著者がライアル・ワトソンの最後の著作をどのような経緯で翻訳することになったのかは知らないが、きっと著者は、ワトソンが求め続けた世界に強い共感を憶えていたのだと思う。著者の作品がサイエンスの領域を超えて、科学史上のロマンを表現しようとするのと、実証的な科学の領域を超えて、自然の神秘に迫ろうとしたワトソンの姿勢は似ていないこともない。ただ、ワトソンは、その思いが強すぎて一連の「ねつ造」に走ってしまった。著者はワトソンのことを「彼は確かに実証的な意味では科学者ではなかった。彼はむしろ、自然に対する認識のあり方を、ある種の予言的な言葉で語ろうとした詩人だったということができる。」僕もそう思う。ワトソンは、科学者として生きるのではなく、詩人や小説家と同じく、芸術家として自らのビジョンを発信したほうがよかったと思う。ワトソンの一連の作品が、小説やエッセイ、あるいはある種の評論として発表されていても、そのインパクトは失われなかったと思う。本書で示唆されるフェルメールとレーウェンフックの交流も、著者は用心深く、断定を避けて次のように書く。「これから書くことは、この旅を通じて得た私の仮説である。付記、もしくは外伝といってもいい。それはあくまで、ほんとうに純粋な意味で個人的な仮想でしかない。」
34/37。そして写真紀行としても。
現存するフェルメールの作品は37点。著者はそのうちの34点を展示されている現地で鑑賞している。本書に納められた作品は、額縁におさまり、壁に掛けられた状態の写真で掲載されている。さらに著者が訪れたオランダをはじめとする都市の写真もふんだんに盛り込まれ、魅力的な本に仕上がっている。本書は昨年8月出版されたが、少し高くて、購入をためらっていた。