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内田樹「呪いの時代」


いま僕が最も信頼している論客、内田樹センセイの著書。出れば必ず買う著者の一人。昨年末に読了していたが、今回は、ちょっと気になることがあって、感想を書きあぐねているうちに、もう次の著書が出てしまった。(中沢新一との対談集「日本の文脈」)著者の本は、どれを読んでも、頭の中のモヤがすっと晴れ上がるような知的快感がある。しかも、その体験は、文章だけではない。著者が参加したシンポジウムを2回聞く機会があったが、内田センセイがしゃべり始めると、会場の空気の透明度がすっと上がったような、とても気持ちのいい空間が出現するのだ。著者の論理は、意外性があって、しかも納得性が高い。一瞬、「えーっ」と思うが、次の瞬間、「なるほどお」と激しく納得する。かなり高度な概念を語っているにもかかわらず、著者の言葉は、あくまでも平易でやさしいことも関係あるかもしれない。読者は、この知的なジェットコースターに乗っているようなスリルに高揚し、ハマってしまうのだ。しかし、最近、著書を読んだ後、しばらくすると、知的興奮がウソのように消えてしまっていることに気づく。これって一体何なんだろう、と今日まで考え続けている。同じようなことは中沢新一の著書を読んだ後にも起きていることに気づいた。「精霊の王」や「アースダイバー」を読んでいる間、持続していた高揚が、読み終えて、すぐに「それで?」と自問した瞬間、夢から覚めたように白けてしまうのだ。そんな経験ないですか?そんなことを考えながら、本書をほぼ3回通読した。「呪い」は、ここ最近の著者の発言の中でも特に重要な位置を占める概念である。
「呪い」が公用語になりつつある。
著者は、人々が批評的な言葉づかいをする時「呪い」は公用語になっているという。僕自身の実感からも著者のこの指摘は頷ける。確かに、この10年ほどの間にネットに限らず、テレビや新聞、雑誌などのメディアでも、恐ろしく攻撃的な「人を切り捨てる言葉」が目立つようになってきた。メディア上だけではない。普段のくらしや仕事で接している人の口からも、驚くほど鋭利な悪意を伴った言葉を聞くことが増えたような気がする。著者がいう「呪い」とは、相手の人物に対して、その人格全体に向き合うのではなく、相手の、ほんの一部分だけを取り上げ、それが相手のすべてであるかのように拡大解釈して、その部分だけを執拗に攻撃する手法だ。個人を呼ぶその時、相手は、様々な側面を持った全人格ではなく、単純な記号で語られる。人の身体的な特徴を捉えて「ハゲ」「チビ」などと呼ぶのも同じ手法だと思う。あたかも呪う相手を、抽象化された藁人形に置き換え、五寸釘を打つのと同じ行為だ。著者は「『私は正しい。おまえたちは間違っている』と棒読みを繰り返すだけの言葉づかいは、何かを壊すことはできますけれど、何かを創造することはできません。」という。呪いの言葉が際立ってきたのは、80年代半ば、ニューアカデミズムの、切れ味のいい批評が登場してきた頃だと言う。その頃から、「人の話の腰を折り、割り込み、切り捨てるという『朝まで生テレビ』や『ビートたけしのTVタックル』のスタイルが支配的になっていった」という。そして、これらの番組が政治を語る時のスタンダードになってしまった。相手からどのように反証されても決して自説を撤回しない、ディベートという討論の手法も、この頃から見られるようになってきたという。
高い自己評価と低い外部評価のギャップが呪いを生む。
著者は、呪いがこれほど蔓延したのは、個人が過剰に高い自己評価を求め、それに見合うだけの外部評価が得られなくなっているからだという。学校では、「君には無限の可能性がある」と教えるが、「君の力量はこれぐらいだ。だから分をわきまえろ」とは教えない。肥大した自己を持ちながら、それにつりあう外部評価が得られない時、高い自己評価を維持する方法のひとつが「ひきこもり」である。それは自分に対して低い評価をする可能性のある外部を遮断してしまうというソリューションであるという。そして、もうひとつのソリューションが、自分を低く評価しそうな外部の破壊なのである。著者は、例として2008年に秋葉原で無差別殺人を犯した加藤智大をあげる。加藤が携帯サイトに書き込んだ投稿には、彼を取り巻く外部への恨みに満ちている。「劣悪な労働環境」や「地域や家族との絆の喪失」が犯行の動機であると書かれている。しかし、これらは本当の動機ではない、と著者は言う。もしそうなら、このような環境に置かれた青年は、全国に何十万人といるはずで、その誰もが犯罪を犯すわけではないという。本当の動機は、加藤が、自分を取り巻く現実に与えた解釈が犯行を正当化したのであるという。もし彼を取り巻く外部環境が犯行の動機なら、その外部環境を攻撃すればよかったはずだ。彼の職場の上司や彼が羨む生活をしている層の人々を狙えばよかった。しかし、彼はそうせずに「通りすがりの」被害者を殺した。7人の死者は犯人からの「キリング・メッセージ」であるという。そのメッセージは、「この殺人の意味は何だと思う?」とメディアに問いかけているのだ。そしてメディアは、彼の思惑通りに「彼はこの殺人を通じて何が言いたかったのか」を論じ始めた。この事件は、現実の殺人ではなく、イメージの殺人、記号の殺人であったという。六条御息所の葵の上への嫉妬の感情は、行き場を失って現実の六条御息所の身体を離れ、生霊になった時に、人を殺すほどのパワーを持った。加藤の「嫉妬・恨み」も、彼の身体を離脱し、抽象化・記号化された「呪い」となった時、現実に人を殺すほどのパワーを持つことになったという。
「呪い」を解くのは「祝福」しかない。
著者は、「呪い」を解くのは「祝福」しかないという。その祝福とは次のように定義されている。「それは生身の、具体的な生活に捉えられた、あまりぱっとしないこの正味の自分をこそ、真の主体として維持し続けることです。『このようなもの』であり『このようなものでしかない』自分を受け入れ、承認し、『このようなもの』にすぎないにもかかわらず、けなげに生きようとしている姿を『可憐』と思い、一掬の涙をそそぐこと。それが祝福することの本義だと思います。」そして著者は、「多くの人たちが誤解していることですが、僕たちの時代にこれほど利己的で攻撃的なふるまいが増えたのは、人々が『自分をあまりに愛している』からではなく、自分を愛することがどういうことかを忘れてしまったせいだという。著者が語る「祝福」の最後の部分は正直に言ってよくわからない。しかし、僕自身の直感として、これからのくらしや仕事の中に、どうにかして「祝福」をとりこんでいかなければならないと思っている。合理的な「等価交換の経済」から「贈与をベースににした経済」へという、著者のもうひとつの主張につながっていく重要な概念であると思う。
それでも「呪い」と呼びたくない。
著者が言うところの「呪い」のロジックは理解できる。しかし、僕にはこれを「呪い」の一言で片付けてしまうのには抵抗がある。これらの現象は、「悪意」や「憎悪」「攻撃性」「非寛容」、そして「差別」「虐殺」に通じる、人間の、ある根源的な「心理学的メカニズム」から生まれてきたものではないだろうか。それを「呪い」と呼んだ途端、禍々しいオカルト的な神秘性をまとってしまう。著者がいう「呪い」が生まれる仕組みとは、誰の心の中にもある、ありふれた心のメカニズムである。しかし、ひとたびスイッチが入ると、嫉妬や恨みを引き起こし、さらにエスカレートすると、強い悪意や憎悪になり、さらに、このメカニズムが暴走すると「差別」や「大虐殺」にまで起こしてしまうことがある。最近、ほんとうに他人を一方的に攻撃したり、むき出しの悪意をいきなりぶつけてきたりする人が増えているような気がする。たちの悪いクレーマーモンスターペアレント、キレやすい人間の増加も、ルーツはきっと同じだと思う。ふと気がつくと、自分も、身近な人に対して利己的で攻撃的な言葉づかいをしていることがある。「呪い」は時代の病なのだと思う。
交換経済から贈与経済へ。
上でも書いたが、本書における、もうひとつの重要な概念が、「贈与経済」という考え方。簡単に言うと、現在の経済は、価値の等価交換による経済だが、もともと経済は、「贈与」によって始まった。交換経済の発展が、現代の人類の繁栄をもたらしたが、いまや、それが行き詰まり、新しい経済のありかたが求められている。それが「贈与による経済」である。それがいかなるものなのか、僕にはよくわからない。しかし「祝福」と同じく、直感的には正しい気がしている。
3.11以後に書かれた最後の2章。
最後の2章は、3.11以後に書かれているが、なかなかユニークな概念が出てくる。例えば原子力一神教の神であるという考え方や「原発供養」をすべきであるという主張は、とても面白いし、納得性もあると思った。また大阪梅田の北ヤードに「ウメキタ大仏」を作ればいい、という提言もぶっ飛んでいて面白い。しかし、これらの話に真剣に耳を傾ける政治家や企業や市民がどれだけいるだろう。内田センセイの話はとっても面白いんだけど、現実にはあんまり役に立たん。いや役に立てることができないのは、僕自身の能力の無さのせいなのか、センセイの考えが先を行き過ぎてて、具現化が難しいのか、どっちなんだろう。次の「日本の文脈」を読んでいるところ。