朱野帰子「海に降る」


海洋をテーマにした文学は、大好きなジャンルだが、その中でも深海を舞台にした「深海もの」は、どんな駄作でも必ず買ってしまう分野。古くは、ジュールベルヌの「海底二万里」。A.C.コナンドイル「マラコット深海」。A.C.クラークの「海底牧場」。最近ではフランク・シェッツィング「深海のYrr」などが有名。国内では、このジャンルは藤崎慎吾「ハイドゥナン」「鯨の王」など、数が少ない。映画ではジェームス・キャメロン「アビス」あたりか…。その他、ドキュメンタリーでは藤崎慎吾、田代省三、藤岡換太郎による「深海のパイロット」。女性の潜水船パイロット、シンディ・L. ヴァン・ドーヴァーによる「深海の庭園」が面白かったが、小説での「深海もの」に飢えていたところだった。著者の朱野帰子(あけの・かえるこ)は、ダ・ヴィンチ文学賞を受賞した女性作家。
深海小説の定石を踏襲。
「深海もの」にはいくつかの「定石」がある。ひとつは深海に行くための機械。多くの場合、潜水艦や潜水艇だ。特に数千メートルの深海に潜れる深海探査船は、不可欠の要素だといってもよい。大抵の場合、深海への強い情熱に取り憑かれた科学者が登場する。そして、彼が追い続ける「深海の謎」が存在する。さらに欠かせない存在が、信頼できる操縦士や乗組員といった海の男たち。そして最後に必要なのは「謎の巨大生物」。「海底2万里」では、ノーチラス号を襲う巨大イカが出てくるし、「海底牧場」でも、巨大海蛇の追跡がひとつのエピソードになっている。「鯨の王」では、シロナガスクジラを超える巨大な新種のクジラが出現する。
本書は、「深海もの」の定石を踏襲して成功している。主人公は、日本海洋研究開発機構(JSAMSTEC)に所属し、有人潜水調査船「しんかい6500」のパイロットをめざす若い女性、天谷深雪。彼女の父は「しんかい6500」の開発に関わった技術者で、母と離婚し、現在はアメリカの研究機関で働いている。深雪は、「しんかい6500」での初潜水の際、父への不信が原因と思われる閉所恐怖症に襲われ、有人潜水調査船のチームから外され、広報部に預けられる。そんな深雪のもとに、アメリカに行って再婚した父の登校拒否の息子がやってくる。さらに深雪は、配属された広報部で高峰浩二という若者に出会う。彼は、深海生物学者だった亡き父が、十数年前に日本海溝の潜水中に目撃した未確認の深海生物「白い糸」を、自らが深海に潜水して発見したいと主張する。JAMSTECへの詳細な取材に基づいたと思われる「しんかい6500」や、母船「よこすか」の内部の様子、さらにスタッフや研究者の描写は、生々しく読み応えがある。それに比べると人間の物語は、割と薄味で、さらっと進んでいく。しかし「しんかい6500」という魅力的な機械と、深海の謎に取り憑かれた科学者、頑固で不器用な技術者、女性初のパイロットをめざす主人公の挫折と挑戦、さらに深海に潜む未確認の生物の探索。そして恋…。海洋小説、深海小説の定石に従いながら、JAMSTECを詳細に取材した現場感覚をふんだんに取り入れた本書は、とても楽しい作品だ。唯一難点を上げるなら、謎の深海生物の造形。神話などに出てくる、ある想像上の動物に似ているのだけれど、ちょっとリアリティと意外性に欠ける。梅原克文の「ソリトンの悪魔」ぐらいのヒネリとアイデアが欲しいところだが、本書はSFではないし、目をつぶろう。