走る人


ずっとランナーという人種が好きになれなかった。長い距離を走り続けたいと思うランナーの気持ちがわからなかった。なぜ、そんなに辛いことを続けることができるのか?習慣にすることができるのか?散歩の途中で時々出会う、全身汗だくで、真っ赤な顔をして必死の形相で走っているランナーを見て「エゴイスティックで、マゾ気味で自己愛強そう…。あまり友達にしたくない人」というイメージを持っていた。自分自身で走るようになるまでは…。
誤解その1「ランニングは辛い」
マラソンに出てることを語ると「よくそんなしんどいことできますねえ。信じられない。」とよく言われる。「長距離を走る=辛い」という図式が頭の中にしっかり出来上がっているらしい。ここに一つ目の誤解がある。誤解が生まれる理由のひとつが、学校時代に長距離を走らされた経験だ。自分も中学時代に「耐寒訓練」と称して5キロぐらいを走らされた記憶がある。この時の辛い体験が「ランニング=辛い」イメージの形成につながっている。ふだん何の練習もせずに、ある日いきなり長距離を走らされて辛くないわけがない。ランニングを習慣にするようになって初めてわかることだが、ランニングは決して辛い体験ではない。走り慣れた人間にとって、1時間程度を適度なスピードで走るのは、心地良い、爽快そのものの運動である。ランニングとは、長距離を走ることに身体を慣らすことである。今から考えると、ふだん長距離を走っていない生徒に、いきなり長距離を走らせるなんて無謀なことだった。例えば耐寒訓練の1カ月ほど前から、少しずつでも長い距離を走る練習をせさておけば、それほど辛い思いをしなくても済んだのである。このような、ある意味無謀なランニング体験がトラウマとなって、「ランニング食わず嫌い」が大勢生まれるのである。大人になってランニングを始めると「辛い苦行ランニングを無理やり続けるマゾヒスト」みたいなイメージは消え去り、ランニングがむしろ心地良く、爽快な運動であることがわかってくる。
誤解その2「ランニングは退屈である」
ヘッドホンで音楽を聴きながら走るランナーは多い。自分もその一人である。「ランニングは単調で、退屈な運動である」と思っている人は多いのではないだろうか。しかし実際は音楽を聴かずに走ることも少なくない。ランニングを続けていると、それがとても奥の深い運動であることがわかってくる。走る時、ランナーは自分の身体と対話している。今日の体調はどうか。姿勢はどうか。今日は何キロぐらい走れるだろうか…。ちょっとペースを上げてみようか。右足の膝の外側にかすかな違和感があるが、これは痛みにつながっていくだろうか。左のシューズのヒモがちょっときつく感じるが、止まって緩めたほうがいいだろうか。走る時は、ふだん意識することがない身体の様々な部分の声に耳を澄ませている。だから、あまり退屈することがない。自分の場合、音楽を聴くのは、クルマが入ってこない公園や河川敷のコースでLSDのトレーニングをする時だ。 LSDとはLong Slow Distansの略で、 1キロ7〜8分ぐらいのペースで、ゆっくり長く走る練習のこと。ゆっくり走るぶん、身体への負荷も少なく、体調の変化も小さいため、退屈してしまうことがあり、音楽が必要になる。そして大会の時は、さらに自分の走りに集中しているため、退屈しているヒマは無い。