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松岡正剛「多読術」

松丸本舗」のエントリーでも書いたが、松岡正剛は、自分が20代の頃から読んでいる著者で、自宅の書棚を探せば十数冊は見つかると思う。「探せば」と書いたのは、書棚のあちこちに散らばっているからで、その理由は、著書のジャンルを特定できないからである。読むたびに、その知識の広さと深さに圧倒される。広いというより、カバーしている分野が、一人の人間では到底不可能に思えるほどかけ離れている。物理学から、情報工学、宗教、文化人類学、芸術、社会学…。たぶん自分の10倍、いや100倍の書物を読破しなければ、この見識は得られないと思う。現在の世界の知の全体像を把握している数少ない人物である。彼が自分の多読術の秘密を公開するのだから、読まずにはいられない。ただ読書術とか、速読法というのが好きではなく、本は自分なりの読み方でつきあえばいいと思ってきたので、買ったまま手をつけずにいた。先日、丸の内の「松丸本舗」を訪れ、松岡正剛の読書法に、俄然、興味が湧いてきた。興味深かったのは、著者自身が語る、子どもの頃の本との出会いだ。著者の生家は、京都の呉服屋で、父親はいわゆる旦那衆で、祇園先斗町で遊ぶのはもちろん、歌舞伎、落語、相撲、新派に親しむプチタニマチであったという。当時の遊びは、文化的で知的なものだった。客を招いては句会を開いたり文化番付などを作って遊んでいた。家には歌舞伎や新派の本がけっこうあったという。父も母も俳句をたしなみ、特に母は文芸少女で、幸田文有吉佐和子水上勉などをきちんと読んでいたという。古いしきたりの家の中で自分の才能を外に出すとということはしなかったが、微妙な感覚とか京都的なものに通じていたという。季節感、習慣、花の色、季語や歌語にも詳しかったという。父も母も本を大切に読んでいて、それが羨ましかったという。家には買った本だけではなく、いろんな人が持ってきた本が少なからずあったという。本に著者の「献呈」の言葉があったり、署名があったり、蔵書印が捺されていたり、本の著者自身に会ったりもしたという。こんな環境の中で書物と出会えていたら、自分の読書人生はどうなっていただろう、と空想してみる。しかし、そんなに変わらないんじゃないかな、とも思う。著者も、このような恵まれた読書環境にありながら、読書そのもののスタートは驚くようなものではない。母にクリスマスに買ってもらった「ノンちゃん雲に乗る」を面白いと思い。壺井栄の「母のない子と子のない母と」、そして「世界少年少女名作全集」の世界。「岩窟王」「ああ無情」とか…。そこから、一気に飛んで高校時代、著者は鈴木大拙の「禅とは何か」と出会っている。そして友人から「カラマーゾフの兄弟」を教えられ、衝撃を受ける。この辺りまでは、自分とそう違わない。自分が小遣いを貯めて、筑摩のドストエフスキー全集を買ったのも高校時代だった。しかし、その後が大きく違っている。著者は大学を出て、父の残した借金を返すために、広告代理店で働き、その後、「工作舎」という出版社を起こして、編集の仕事に乗り出していく。そこで多くの作家や編集者、ブックデザイナーに出会い、書物の世界にのめりこんでいく。その過程で「編集工学」なる言葉を創りだし、「編集」が著者自身の重要なキーワードになっていく。「創作という作業は、すべてを全くゼロから生み出すのではなく、すでにある情報や素材を、再編集することである。」著者の本の読み方もますます「編集的」になっていく。マーカーで印を付ける。欄外に書き込む。ノートに整理する。ただ整理するだけでなく、ある種のインデックスを作ったり、マトリックスを作ったり、年表にしたりと、かなり独創的な読み方だ。その年表ノートが後に「情報の歴史」という巨大な本になる。このような著者の読書遍歴も面白いが、後半の「多読術の実践編」とでもいうべき部分も読み応えじゅうぶんだ。備えるべき辞書や資料、シソーラス。きちんとした年表を用意しておくことなど…。自分も歴史の本や歴史小説を読む時に高校生用の年表を携帯していたことがあって重宝した記憶がある。数冊の本を並行して読むことも、その有用性は実感している。長い間、読書の習慣を続けていると、それなりに自分の方法ができていると思うが、松岡正剛の読書術は、もっと積極的に、編集したり創作したりするために、もっと意識的であり、徹底している。著者の仕事場には数万冊の本があるという。自宅にも小説などを中心に大量の本があるという。しかし大量の本があっても書庫にはしていないという。松本清張など、大量の本を抱えていた蔵書家が「書庫を作ってしまうと、逆に本を読まなくなる」いう話を聞いているからだという。それはつまり、生活空間の中に書物を置け、ということだと思う。これはうらやましい話だ。高校ぐらいから、図書館のような家に住んで読書ざんまいの生活を送るのが夢だった。いまは5畳ほどの部屋の壁を書棚で埋めているが、とても足りず、あふれる本に苦労している。電子書籍端末が出てくれば、そっちに行ってもいいと思っていたが、「松丸本舗」を訪れて少し考えが変わった。書棚というものは読者の読書の記憶が空間的、視覚的に置き換えられたものだ。先日、自宅に遊びにきた友人は、ハヤカワSF文庫の水色の背表紙が並んだ書棚を見て、「この色がここまで本棚を覆っているのは、この人ぐらいだよ」と言っていた。電子書籍のプライベートライブラリーに、読者の個性は現れるだろうか?