相愛大学シンポジウム 中沢新一・内田樹・釈徹宗「人文科学の挑戦」

相愛大学人文学部「仏教文化学科・文化交流学科」の開設記念シンポジウム。内田先生のtwitterで知り、妻とふたり分申し込んで、自分だけ当選。600名のところを1600名応募があったらしい。お目当てのメインはナマ内田先生だが、釈轍宗氏にも興味がある。中沢新一はテレビとかでいつも見ているのだが、内田樹・釈轍宗とのセッションで、どんな反応が出てくるか、興味があった。
ナマ内田先生、ナマ釈先生の印象。
ナマで見る二人の印象を記しておこう。内田先生は、声がいい。予想していたより(もう少しガラガラ声かなあ)少し高くて、よく通るクリアな声だった。明快そのもののロジックと相まって、彼がしゃべると、場の空気の透明感がふっと高まったような印象を受ける。それに比べると釈氏は、喋りそのものにノイズが多く、話の展開が見えにくい。よく聞くと、語られている言葉のロジックは通っているのだが、すっと頭に入って来ないのだ。中沢氏は、メディア慣れしていて、しかも他の二人より浮世離れした印象。
いまどき、仏教なんて、チャレンジャー。
話は、相愛大学の「仏教文化学科」開設の話からはじまる。中沢新一は、今時、仏教の名を冠した学科を新設するなんて「チャレンジ」だといい、内田樹は「正しい」という。内田樹によれば、20年ぐらい前から日本の宗教系大学は「脱・宗教化」を進めてきた。多くの場合コンサルが入って、より多くの学生を集めるよう、無宗教を提案されたという。その結果、大学の均一化が進み、地方の小さな大学は、追い詰められ、マンモス大学だけが生き残れる時代になっている、という。ここからは内田先生がいつも主張している「市場経済モデル」の導入による弊害のお話しだ。
「心の先史時代」という本
内田先生がいま読んでいるという「心の先史時代」という本の話が面白かった。人類がサルから別れて文化を作る進化をたどっていった理由は、カテゴリーの違う分野の思考をカテゴリーを越えて流動させることにある。それまでの類人猿は、高度な知識や、技術を持っていたが、それはひとつのカテゴリーに限定され、他のカテゴリーに応用されることは無かった、という。それがクロマニヨンなど、現在の人類につながる人類になると、カテゴリーを超えた応用ができるようになる。「これって、あれよね」つまり未知のモノに出会っても、過去に経験した別の体験から、対応のしかたを類推し、行動することができる。教育とは知識を蓄積することではなく、「未知のモノに出遭った時に対応できる応用力を育成することではないか」という話になる。
父性の学問と母性の学問。そして時間の流れ。
いわゆる西洋の学問と仏教をはじめとする東洋の学問の違いについての話も面白かった。西洋の学問は「父性的」であり、東洋の学問は『母性的」であるという。仏教など東洋の学問は身体を使って学ぶ学問が多い。つまり、それは時間をかけて学ぶということである。仏教の修行でも、拳法の修行でも、長い時間をかけて学んでいく。(太い箸の話、ジャッキーチェンの拳法映画の話)中沢新一は、仏教など、東洋の思想が、最先端の量子力学の世界に通じているという。量子力学においては、原因・結果のつながりが1対1でつながっているのではなくマルチ対マルチでつながっている。中沢はこれをマトリックスといい、インドでは子宮のことを「マトリ」と呼び、母のマザーと通じる。中沢新一は、自分の中には19世紀が注ぎ込まれている、という。おばあちゃんは、90幾つで、新選組と官軍の戦いを実際に見ていたらしい。成長や、教育のためには、このように世代を超えて流れる時間が必要なのだ。内田氏の「コレクティブハウスをめぐる議論も興味深い。様々な世代、世帯が共同で暮らすコレクティブハウスで、介護を一方的に受けるだけの高齢者の存在が、帳尻が合わないが、どうしたらよいかという質問に答えてた話。いま。現在の時間だけで帳尻を合わせようとするからうまく行かない。時間の経過を考慮しないといけない。共同体をつなぐ大きな物語が必要である。
ガラパゴス先進国になろう。
後半は日本の固有性や大阪のの固有性の話題。「日本は、ガラパゴスでいいじゃないか。」で始まった日本論も、ユニークだ。『「世界標準」なんか追いかけるから、みんな不幸になるんだ。日本は、日本の国内だけで大きな市場を持っているのだから、ガラパゴスと言われようが、その中で成功すればいいじゃない。そうしている内に未来のダーウィンがやってきて、世界中で失われてしまった「本物の人間」が、この国には残っているということを発見すればよい。』
「アースダイバー大阪編、取材中」
そして最後は大阪人論。大阪人のコミュニケーションは「流れ」を重視する。正しいロジックなどは二の次で、その場の会話の流れを捉え、それに全員が乗っかっていく。(ナイトスクープの話)また大阪人は、面と向かって、相手を傷つける言葉を発しない。大阪人は「都市の人」だという感じがする。それに比べて東京人は、出会い頭に結構、相手を傷つける言葉を発する。それは東京の人間関係が「使い捨て」であるということ。そこで関係が壊れても、別の人を探せばよい。そんな人間関係を成立させているのは、人間の出入が激しいからである。大阪はコミュニティが小さく、「こいつらとずっとやっていくしかない」から、どんな時でも相手との関係を100%壊さない、という。京都人になると、これが閉鎖的、排他的になって「いけず」に行ってしまう。中沢新一は、とても面白かった「アースダイバー」の大阪編も現在取材中だという。どんな「アースダイバー」になるのか楽しみだ。中世まで、現在の大阪のほとんどの地域は海だったらしいから、東京とはまったく違った話になりそうだ。
メモを取りながら聞いていたわけではないので、話のつながりはテキトウだが、印象に残った話は、こんなところか。しかし、ほんとうに面白かった。この手のシンポジウムで、お腹を抱えて笑う事などめったにないが、本当によく笑った。面白かった。内田先生のお話し、機会があればまた行きたい。