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古井由吉「杳子・妻隠」再読

たぶん30年ぶりぐらいの再読。単行本で持っていたはずだが見つからず、本棚から新潮文庫で2冊発見。ふだん同じ本を再読することはほとんどないが、この作品だけは例外中の例外で、少なくとも数回は読んでいる。基本は恋愛小説だ。主人公は大学生。単独登山の山中、谷底で動けなくなっていた女子大生「杳子」と出会う。「杳子は深い谷底に一人で座っていた。」という書き出しも空で覚えている。主人公は、山中で神経に失調をきたした杳子を助け、都内まで連れ帰る。2〜3ヶ月後、都内の駅で二人は偶然再会する。それから二人の交際が始まる。しかし杳子は神経を病んでおり、普通の男女のような恋愛にはなっていかない。待ち合わせ場所ひとつにしても、いつもの喫茶店のいつもの席を他の客が占めているだけで杳子は行き場所を失ってしまう。普通の恋人たちがする何気ない行為が杳子にはとても難しい。主人公が、そんな杳子の「病気」を見守り続け、どこまでもつきあっていくことで、物語が紡ぎ出されていく。古井由吉独特の、こわいほど細やかに心身の揺らぎを拡大描写していく文章が、一種のサイコ的な、閉じられた世界を構築していく。神経を病んだ杳子の、はかない、壊れやすい、精緻なクリスタル細工のような描写が美しい。二人以外の人物はほとんど登場せず、世界は二人の間で閉じられている。著者が、いわゆる「内向の世代」と呼ばれるきっかけとなったような作品だ。神経を病んだ女性と彼女の病気に寄り添って、ふたりだけの閉じられた世界を守ろうとする主人公。そのピュアな生き方に惹かれた。この作品を20代のはじめに読んだ時の衝撃は大きかった。ある一時期は、主人公のように考え、毎日を過ごしていたと思う。しかし、今読み返してみると、若い主人公の視点のもうひとつ手前に、大人になった男性の、醒めた視点が明確に見えてくる。この小説が書かれた時点で、この恋愛は、すでに終った青春の物語を成熟した男が回想する視点で描かれていたのだ。少女から女への成長とともに、病気の治癒とともに失われてゆく世界。だからこそ杳子は、一度きりの透明な美しさを見せるのだ。この作品を幻想的だと批評されることがあったが、違うと思う。杳子と主人公の間に生まれる濃密な世界の描写は、臨床的ともいえる正確さを備えている。杳子が引き起こす様々な病気の描写は、精神病理学の検証にも耐えるのではないだろうか。だから、いま読んでも古さはまったく感じない。間違いなく戦後の文学が生み出した傑作のひとつだと思う。本書のもう一つの作品「妻隠」も傑作だと思うが、自分の中では圧倒的に「杳子」。こんなによい小説が、もう新刊で読めないのは残念だ。ちなみに「杳子」は1977年に映画化されている。