坂本龍一 中沢新一「縄文聖地巡礼」

「縄文」という言葉に反応、中沢新一の名前で手に取り、坂本龍一という意外性で購入。中沢新一は、割と読んでるほう。「未来から来た古代人 折口信夫」 以来かな。「アースダイバー」「精霊の王」「芸術人類学」と読みつないできた。中沢新一の本はどれも文句なく面白い。時空を自由に跳び回って、様々な物事を自在につないでいく語り口に、つい引き込まれてしまう。そこには様々な気づきや発見があり、「へえー」の連続である。しかし読み終わると、不思議なことに、「あれ、何の話だったっけ」と腑に落ちないことも、しばしば。さて、今回はどうだろう。二人が縄文に注目しはじめたきっかけは「9.11」だという。中沢新一は、9.11の根底にあるのは「圧倒的な非対称性」、つまり富の集中による「格差」の拡大だ。それを生み出したのは「資本主義」と「グローバリズム」であり、さらにさかのぼると貨幣に行き着く。貨幣が生まれる以前の社会や経済に注目すると、自然に「縄文」に行き着くという。一方、長くアメリカに暮らしていた坂本龍一も「9.11」に衝撃を受け、資本主義やグローバリズムに疑問を持ち、自分のルーツである、日本列島に住んだ先人に関心を持ち始めたという。
このふたりが、縄文について対話をしながら、列島の、縄文の聖地ともいえる地域を旅していく、という企画だ。諏訪に始まり、若狭・敦賀、奈良・紀伊田辺、山口・鹿児島を訪ね、最後は三内丸山遺跡がある青森へ…。その中には、原発のメッカである若狭・敦賀、原燃サイクル施設のある六ヶ所村が含まれている…。中沢新一は、いつもの飛躍に満ちた語り口で(ニューアカっぽい?)対話を進めていく。坂本龍一も、縄文時代や歴史、民族学などに、驚くほど造詣が深く、対等に語っている。二人の考えはシンクロし、途中でどちらが語っているのか、わからなくなるほどである。ふたりが実際に遺跡や聖地に立って感じた印象や、そこから展開される対話は、とても面白い。写真も数多く掲載されており、「行ってみたい」という気持ちになってくる。
農業が大規模化し、共同体が生まれ、それが国家に発展していく直前の「縄文時代」に、現在の世界が抱える多くの問題のヒントがあるという。読み終えて、それが、どのようなヒントなのか、はっきりとわからない、というのが正直なところだ。しかし、ふたりのアプローチは間違っていないと感じる。二人が示す方向は、前にも書いたように、環境や自然農法に関わる先駆者たちが進もうとしている方法と同じ過激さがある。
最後のほうで、二人は「縄文」という言葉に窮屈さを感じ始める。そして「縄文」以降の古代にも興味を持ち始めるところで、本書は終わっている。「縄文」を旅して、次はいよいよ「大和----国家」の成立へ向かうのだろうか。
縄文をイメージした装丁?
装丁にはあえて「難あり」と言いたい。縄文をイメージしたという柔らかい紙の使用。表紙もカバーも同じく柔らかい。その柔らかさを護るために、スリーブというか筒型のパッケージに縦方向に納めてある。(これも出しにくくて中身がチラ見できない)スリーブから出すと、いかにも弱々しい。あっという間にバラバラになりそうだ。しかたなく持ち歩くために、厚めの紙でカバーを作ったが、やっぱり頼りなかった。スリーブがあるので書店でカバーも被せてもらえず、手間のかかる本だと思った。「縄文」というのは柔らかいかもしれないが、脆弱ではなかったと思うので、この装丁はどうかと思う。
この本の中で触れられている、中沢新一細野晴臣が日本各地の霊地を旅した「観光」という本(1985年出版)を古書で買った。