高村 薫「太陽を曳く馬」ようやく読了


最強の難攻不落小説、やっとやっと読破。2009年8月に購入したので半年以上かかったことになる。村上春樹1Q84」を読み終えた直後、同じようにオウム真理教を題材にしたと思われる本書と篠田節子の「仮想儀礼」を購入。3作とも上下2巻という大作だ。この3作品を読み比べ、さらに浦沢直樹の「20世紀少年」を加えれば、人と違った1Q84論が語れるのではないかという安易な目論みだった。その目論みは、読み始めて、たちまち挫折。さすが高村作品。サクサク読めてしまう「1Q84」の感覚で読み始めると、いきなり壁にぶちあたる。篠田節子ならもっと読みやすいだろうと思って、先に「仮想儀礼」に取りかかるが、こちらも、内容のディープさに止まってしまう。結局、「太陽を曳く馬」を読み進めることにする。しかし読みづらい。高村作品ってこんなに読みづらかったっけ。つまづきながら、道に迷いながら、ぬかるみに足をとられながら、読み進む感じ。もう「1Q84」との比較などと言ってられない。この作品は、そんな安易な読み方を拒絶している。テロから、アートから、サブカルチャー、心理学、宗教まで、異質な素材を、まるごと放りこんだような荒々しい構成で物語は進んでいく。この読みづらさは、私たちが、今という時代や世界を丸ごと捉えようとする時に味わう困難や不可能性と同じではないか。合田雄一郎も福澤彰之も、その困難さに耐えながら、システムや制度の枠組みを越えて、誠実に、時代・世界を丸ごと理解しようとする。哲学の言葉であれ、宗教の言葉であれ、司法の言葉であれ、既存の言葉では、もはやこの世界で起きていることは語りきれない。
注目していた、「オウム」に触発されて創作された部分はどうなのか。「1Q84」と違い、オウムは「オウム」として出てくる。作品では伝統的な寺院のサンガに元オウム信者が入ってくるという設定。彼は座禅の途中に僧堂を抜け出して、通りかかったトラックにはねられて死亡する。彼の死は、寺院側の管理不行き届きによるものだと、両親が訴訟を起こしている。物語は、このエピソードを軸に進んでいく。禅寺の集団の中に異分子である元オウム信者が入り込んできて、僧たちはどんな反応を示したか。それが作品後半の重要なテーマになる。オウムそのものを描くよりも、伝統的な仏教がどう対抗しようとしたかを描くことで、オウムの世界をあぶり出す。あるいはオウムとの対比によって伝統的な仏教の現状と限界を描き出そうとしているように見える。寺院側の住職は、禅宗の枠組みを越えて、元オウム信者を同化させようと試みるが、結局失敗し、サンガ自体の解散に追い込まれる。下巻で、禅宗の僧侶たちによって語られるオウム真理教をめぐる徹底した議論は読み応えがある。「オウムはいったい宗教なのか」「オウムは、なぜ多くの青年たちに受け入れられたのか」「なぜハルマゲドンに走ったのか」その論証は、自分たちやメディアが捉えた「紋切り型のオウム真理教」よりも徹底している。その徹底ぶりが、執拗ぶりが高村 薫である。

というわけで「1Q84」との比較は不可能という結論。

作品は、「晴子情歌」「新リア王」に続く福澤一族サーガの完結編として位置づけられているが、その辺りの話は、前2作を読んでいないので、語れない。まず「晴子情歌」を読んでみようか。