塩田武士「罪の声」

あの声の主

本書は1984年から1985年にかけて起きた「グリコ・森永事件」を題材にした小説。この事件を題材にした作品では高村薫の「レディ・ジョーカー」がある。本書の舞台は、事件から31年経った「現在の関西」だ。なぜ「現在」なのか?その理由は、主人公の一人が、事件で現金受け渡しの指示に使われた「子供の声の録音テープ」の声の主であったから。京都でテーラーを営む主人公・曽根俊也は、ある日、亡くなった父の遺品の中からカセットテープと黒皮の手帳を発見する。手帳は英語の文字で埋まっていた。カセットテープには、子供の声で、現金受け渡しを指示する言葉が録音されていた。その声を聞いた主人公は、それが彼自身の声であるとわかり衝撃を受ける。父は犯行グループの一味だったのか…。録音に関する彼自身の記憶はなかった。31年前の真相を知るために、彼は事件を調べ始める。

31年目の真実

同じ頃、大日新聞社文化部に所属する阿久津英士は、社会部・事件担当デスクの鳥居から、大阪本社の年末企画「ギン萬事件ー31目の真実」への参加を求められる。鳥居は、阿久津にある資料を手渡して、調査を命じる。その資料とはギン萬事件の4ヶ月前にオランダで起きたハイネケン社長の誘拐事件に関するもので、事件の直後から現地で事件のことを調べ回っている東洋人がいたという。阿久津は嫌々ながらイギリスに飛んで、調査をはじめる。31年前の、あの事件の真相が、二人の男によって闇の中から再び甦ろうとしていた…。

事件の子供 たちという着眼

本書はミステリーなので、ストーリーを紹介することは控えるが、事件に使われた子供の声の「本人」を主人公にするという着眼は秀逸だ。当時主人公は幼かったため、録音した時の記憶はなく、父の友人であった家具商の堀田とともに事件を調べはじめる。基本は、昔の関係者を探して話を聞くSeek & Findの物語だが、要所で事件当日の緊迫した追跡劇もしっかり描かれ、スリリングな展開も楽しめる。ラストでは、思わず涙が出た。400ページを超える長編だがいっきに読めた。かなりおすすめ。

僕自身、あの事件に、かすっていた。

グリコ森永事件の主な舞台となった、京都南部から北摂の一帯は、学生の頃住んでいたこともあり、土地勘もかなりある。地名や駅名を聞けば、街並みや風景が浮かんでくる。誘拐に使われた水防倉庫も見に行ったことがある。そして何より、僕自身が捜査の網に引っかかったことがあるのだ。まだ事件が終息してなかった時期だと思うが、職場に妻から電話があり、いきなり「あんた、何したん?」と問い詰められた。訳を聞くと、目つきの鋭い刑事が訪ねて来て「警察ですが、ご主人に聞きたいことがある」という。妻が「何の件か」とたずねると教えてくれない。「感じ悪いので、家の中に入れなかった。会社の住所と電話番号を教えたから、そっちに行くと思うよ。あんた、ほんとに悪いことしてないん?」と僕を疑っている。「いやあ、全然わからん。」と電話を切った。事件は、僕の日常にも小さな波紋を生んでいた。その日の午後遅く、刑事が職場にやってきた。事件で使用されたクルマについて調べているという。「X月X日にレンタカーで赤のトヨタスプリンターを借りられてますね。」それで刑事が来た理由がわかった。その頃、カーオーディオのカタログの制作の仕事をしていて、カタログの写真の撮影のためにトヨタスプリンターを借りたことがあったのだ。フィッティング写真といって、カーオーディオのユニットが実際に装着された写真をカタログの巻末に掲載するのだ。出来あがったカタログを見せて説明すると、刑事はすぐ納得してくれた。僕がコピーライターであることを知ると、話題を変え、「かい人21面相の書いた文章は、コピーライターのような職業の人物が書いたものだと思うか」という話になった。「文章は面白いが、別にコピーライターでなくても書けると思う」と答えた記憶がある。そんなこともあって、事件には少なからぬ興味があり、事件に関する本も目に留まれば購入して読んでいた。

フィクションとノンフィクションのはざまで。

著者によると、本書では社名や人名は変えてあるが、事件の部分については、実際の事件を忠実に再現しているという。そのせいか、ノンフィクションの部分からフィクションに移るその一瞬、かすかな「境目」が感じられてしまうのが、ちょっと惜しい気がする。微妙に空気が違うというか、フィクションの領域に踏み込んだ瞬間、現実の事件が持っていた、あの不気味さ、得体の知れなさが、フッと霧散してしまうような気がするのだ。当時リアルタイムで事件の報道に触れ、僕自身が感じていた、犯人のイメージと本書の犯人像が微妙に違っているせいかもしれない。犯人たちは派手な愉快犯を装いながら、その実態は、誘拐、暴力、殺人を躊躇なく実行する冷酷な犯罪者集団であったのだ。犯人たちの人物像を思い浮かべる時、その顔の部分だけがぽっかり空白になって像を結ばない…。「キツネ目男」の似顔絵からも犯人像が見えて来ないのだ。十年以上前、一橋文哉のノンフィクション「闇に消えた怪人 グリコ・森永事件の真相」を読み終えた時、僕たちを取り巻く闇がさらに暗さを増したような気がした。僕らが暮らしている、すぐ隣に、顔のない犯人たちが今も潜んでいる…。そんな恐怖のせいだったかもしれない。フィクションとはいえ、犯人たちに実態を与えてしまうのは、そんなリスクを伴っている。

あの子供たちが生きていれば、少女は40代半ば、少年は30代後半、そして幼児は、本書の俊也のように30代半ばになっている。現実の彼らは今、どのような人生を生きているだろう。今でも犯人たちの顔を見たいと思っている。本書を読んでいる間、僕は、80年代半ばの、あの時代を生きていた。