有栖川有栖「幻坂」

ちょっと寄り道読書。昨年3月に散策した天王寺七坂を題材にした短編集ということで購入。著者の作品を読むのは初めて。「大阪ほんま本大賞」というのがあるそうで、『大阪の本屋と問屋が選んだ、ほんまに読んでほしい本』ということらしい。本書は、2017年度第5回受賞作である。

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大阪は平坦な土地だとずっと思っていたが、実は、住之江のあたりから北にむかって、高さ20mほど、幅2kmほどの上町台地が伸びている。古代以前、この上町台地は大阪湾に突き出た岬で、あとは海だったという。その後、淀川や大和川による堆積によって、大小の洲や島が生まれ、大阪という土地ができあがっていった。聖徳太子が建立したという四天王寺は、この上町台地の西の端の崖の上にあり、その先は海だったという。四天王寺の西側の谷町筋から松屋町筋に向かって崖を下るのが天王寺七坂である。この一帯は、驚くほどお寺が密集しており、大阪でもっとも古いたたずまいが残っているエリアである。中沢新一の「大阪アースダイバー」によって、上町台地と大阪の成り立ちを知り、新之助の「大阪高低差地形散歩」によって天王寺七坂の存在を知り、昨年春に友人を誘って七坂を歩いてみた。北から「真言坂」「源聖寺坂」「口縄坂」「愛染坂」「清水坂」「天神坂」「逢坂」。ミナミの喧騒のすぐ近くに、こんなに静かで風情ある場所があるのかと驚かされる。

7つの坂をめぐる9つの怪談。

作品は、すべて怪談といってもいいと思う。著者は、それぞれの坂の歴史や伝説をかららめながら、現代の怪談・奇譚として語ってゆく。あまりこわくはない。喪失や死別のせつなさや哀しみを淡々と語っていく。「口縄坂」は坂に棲息する美しい白猫の話で、そういえば散策の途中、やけに猫が多い坂があったことを思い出した。あれは口縄坂だったか…。最後の2編は、現代ではなく、松尾芭蕉の最期と、歌人藤原家隆が出家して庵を結んで往生した話を題材にしている。本書を読んで、また、あのあたりを散策したくなった。

 

桃田健史「EV新時代にトヨタは生き残れるのか」

自動車産業の動きが激しい。
少し前から自動車関連の仕事に関わる機会があって、自動車産業のトレンドを継続的にウォッチしている。しかし、ここ1〜2年の自動車産業の動きは、激しすぎて、その全貌が見えない。特に本書に書かれているような「EVブーム」は、2016年の後半あたりから唐突に始まったような気がする。いったい何が起きているのだろう。その答を知りたくて、本書を購入。著者自身が、世界中の自動車産業を訪ね歩いた生々しいルポには説得力がある。本書は2017年12月のはじめに購入したが、その後も自動車メーカーによるEVをめぐる動きは激しい。2018年1月のCESでも、様々なニュースが飛び込んできた。自動車の未来をめぐる動きから目が離せない。同様のテーマで、井上久男「自動車会社が消える日」も読了。

2017年、突然のEVシフト。
2015年頃では、環境対応車といえばHV(ハイブリッド車)が主流で、PHV(プラグインハイブリッド車)という中継ぎを経て、将来的には、水素を燃料とするFCV(燃料電池車)になっていく、みたいなイメージを漠然と持っていた。EV(電気自動車)は、電池の制約によって、走行距離が短く、都市部におけるコミューター的役割が主体になるだろうと言われていたと思う。それが、2016年後半から、いきなり「EVブーム」といわれても納得できないのである。

現在は第5次EVブーム!
本書によると現在のEVブームは第5次EVブームだという。そうなんだ。昔からEVはあったんだ。ちなみに「第1次」は1900年代の自動車の黎明期で、自動車全体の約40%が電気自動車だったという。蒸気自動車が40%で、ガソリン車が20%だったという。その後、ヘンリー・フォードがガソリン自動車を大量生産して、劇的に価格が下がり、電気自動車も蒸気自動車も瞬く間に駆逐されてしまったという。第2次は、1970年代石油ショック、マスキー法時代。第3次は、1990年代、米国カリフォルニア州のZEV法の施行による。第4次は、2009年、オバマ政権が掲げたグリーン・ニューディール政策による。この時、テスラのモデルS、日産リーフなどが誕生。中国も全土で国家プロジェクト「十城千両」を推進した。しかしEVバブルがはじけ、EVブームはあえなく終わりをつげる。では第5次EVブームはなぜ起きたのか?

きっかけはVWディーゼル不正だった。
著者によると、このような唐突な「EVブーム」には必ず仕掛け人が存在するという。それがジャーマン3と呼ばれるドイツの自動車メーカーである。きっかけは2015年VWディーゼル不正だったという。排ガス検査で有利になる不正なソフトウエアを搭載したディーゼルエンジン搭載車を世界で1000万台以上販売していたという大スキャンダルである。この事件によりVWのブランドイメージは地に落ち、不正に関わった経営陣は辞任。欧州におけるエコカーの主力であったディーゼルエンジン車も信頼を失った。窮地に立たされたVWは戦略を大きく転換する。2016年6月に発表された新中期経営計画「TOGETHER Strategy 2025」では、2025年までに30車種ものEVを販売すると発表。この数字は2017年8月には50車種に拡大され、業界関係者を驚かせたという。VWに続き、ダイムラーBMWも「EV化」に舵を切った。著者は、ジャーマン3がEV化に踏み切った理由のひとつが、ハイブリッド車で先行するトヨタやホンダの締め出しだったという。

IAAではEVシフト一色。日系メーカーは沈黙。

2017年9月、フランクフルトで開催されたIAA:国際自動車ショー。話題はEVに集中した。ダイムラーBMWVWグループからなるジャーマン3は、量産型のEVやEVのコンセプトモデルを記者会見の主役に据え、今後5〜8年ほどで一気にEVシフトすると表明。これによって、世界的なEVブームに拍車がかかったという。その中で、EVに最も積極的なのは、VWで、2025年には年に約300万台のEVを発売し、そのうちの半分150万台は中国向けになることを発表。さらに2050年までに50車種以上のEVを世界各地で投入するという。BMWも、2025年までに25車種の新型電動車を投入し、そのうち12車種はEVとなることを発表した。そして真打ちであるダイムラーは、メルセデスのEVブランド「EQ」で量産が決まっている2台をメインステージに据えて、EVシフトをアピールした。1台はメルセデスの上級ブランドAMGの最上級スポーツカー「プロジェクトワン」1.6リッターV6ターボエンジンをミッドシップに置き、前後輪に4基のモーターを装備。合算出力は740キロワット(1000馬力)のハイブリッド車。もう1台は、全長4.3mの小型3ドア車「EQA」。最高出力は200キロワット(272馬力)、航続距離は400キロメートルで、2019年に発売され、明らかに米国テスラの「モデル3」をライバルとしているという。さらに小型車ブランド「スマート」で欧州と北米で販売する全車種を2020年までにEV化すると発表。またライドシェアリングに対応する次世代スマート「スマートビジョンEQ フォーツー」を公開し、EV、自動運転、シェアリングサービスを融合させたビジネスを促進する姿勢を強調した。一方、日系メーカーは、IAAにおいて大きな動きを見せなかったという。

中国とインドも、EVへ。
さらに世界最大の自動車市場である中国も、2019年から施行するNEV法(ニューエネルギービークル法)で、EV時代をリードすべく、動き出した。そこでも、プリウスなどのハイブリッド車は、NEVとは認められないという。(プラグインハイブリッド車はNEVと認められる)また、インド政府も、「2030年までにインドで発売する自動車をすべてEVとする」と発表。

自動車の新潮流、3VとMaaS。
著者によれば、いま自動車産業に起きている潮流は、3つのVとMaaSという概念に集約されるという。EV(エレクトリックヴィークル:電気自動車)、AV(オートメイテッドヴィークル:自動運転車)、CV(コネクテッドヴィークル:ネットにつながった自動車)、そしてライドシェアのようなMaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス:サービスとしてのモビリティ)である。ダイムラーは、この潮流をCASE(Connected、Automated、Service、Electric)という戦略で集約した。彼らによれば、3VとMaaSは別々の潮流ではなく、融合、一体化して新しい自動車ビジネスが生まれてくるという。

 アップル、グーグルがEVを諦めた理由。

アップルもグーグルも、一時期、自動車の製造をめざして自動運転の研究・開発を進めていた。しかし、両社とも現在は、ハードとしての自動車の製造を諦め、自動運転のためのソフトウエアやクラウドとの連携などの「システム」に集中する道を選んだ。著者は、両社がEVを諦めた理由を、VWからはじまった世界的なEVシフトの潮流ではなかったかと推測する。

EVブームに遅れをとった日系メーカー。

著者は、トヨタをはじめとする日系のメーカーが、世界的なEVブームに取り残されているという。トヨタは、2017年になって、エコカーの路線を変更。HVから、PHVを経て、将来はFCVに移行していくというロードマップを修正せざるを得なくなったのだ。2016年12月には社長直轄のEV事業戦略室を立ち上げ、2017年9月には、マツダデンソーとEVを共同開発する「EV C.A.スピリット」が設立された。日産も、2017年9月、カルロス・ゴーンCEOがパリにおいて、ルノー三菱自動車が連携して事業を進める「アライアンス2022」を発表。2022年までに新たに12車種のEVを投入するという。ホンダも、長期の事業戦略「2030年ビジョン」の中で、2030年までに世界で販売する四輪車の3分の2を電動車にすると発表。その中心となるのはPHV、FCV、EVだが、ホンダには、太陽光などの再生可能エネルギーを利用して水素を創り出すインフラも含めた「ダブルループ構想」がある。燃料電池車を開発している自動車メーカーで、独自の水素ステーションを開発しているのはホンダだけだという。しかし独自の理念、ビジョンと、自前技術にこだわってきたホンダも、EV時代になると、すべて自前で済ませるわけには行かず、他社との協業に舵を切ったという。日立オートモーティブシステムズとモーター開発で合弁企業を設立。自動運転ではグーグルから分社したウエイモと技術提携を行う。他にも、マツダ三菱自動車、スズキなど、日系自動車メーカーのEVシフトを紹介する。

EV普及のカギを握るのは充電時間の短縮と電池の開発。

著者によると、EV普及の最大の壁は、充電時間の長さだという。日産リーフの場合、通常充電で8時間、急速充電でも80%を充電するのに30分を要する。しかも急速充電ステーションの数が少ないため、自分の前に3台が待っていると、1時間半も待つことを覚悟しなければならない。この充電時間をいかに短くするかがEV普及の鍵となる。ポルシェは、2015年9月のフランクフルトショウで、EVのコンセプトモデル「ミッションE」を発表した。このモデルは満充電で500kmが後続距離を実現。さらにポルシェ・ターボ・チャージングと呼ばれる急速充電で満充電の80%まで15分で行う。今後は、このような大出力による急速充電への対応が不可欠になっていくという。

充電方式は、日本の東電や日系自動車メーカーが進めるチャデモ(CHAdeMO)、ドイツとアメリカが進めるCCS、そして中国の国家企画GBで定める独自方式があり、デファクトスタンダードを巡ってしのぎを削っている。ここでも下手をすると日本が推進するチャデモはEVの世界潮流から取り残されてしまう可能性があるという。

高出力の急速充電システムの量産が現実味を帯びてくると、それに対応したリチウムイオン2次電池の開発が不可欠になる。第4次EVブームでは、日産など自動車メーカーを中心にEV用2次電池の開発が加速したが、ブームが予想より早く終わってしまったため、各社は開発や投資計画の見直しを余儀なくされたという。いっぽう中国は、第4次EVブームが終わった後も、リチウムイオン2次電池の製造設備を日本や韓国から買い入れ、オバマ政権のグリーン・ニューディールの失策により倒産した米の電池メーカー数社を買収。さらに日本から技術者を高給で短期間雇い入れることにより、生産技術を高め、量産コストの大幅な低減を実現し、EV技術の世界制覇に向けて力を蓄えていった。そして2017年、ジャーマン3が仕掛けた第5次EVブームが突然やってきた。しかもジャーマン3は、急速にコスト競争力を高めた中国の電池メーカーと密接な関係にある。リチウムイオン2次電池でも日本は、取り残される可能性があると著者は警告する。

国が牽引して、一刻も早く、オールジャパン体制を。

著者は、EVをめぐる内外の動きを紹介しながら、100年に1度の変革期への日本企業の対応の遅れを危惧する。最後の章で、著者は、経産省の強いリーダーシップが必要だと主張する。国が自動車産業の未来を描き、自動車メーカーや自動車部品メーカーの合従連衡を促してまでも、業界全体をグイグイと引っ張っていくべきだという。その一環として日本版ZEV法の導入もありえる。こうした自動車産業の大手術を行うためには、経産省内に、国土交通省警察庁総務省から精鋭を集めた、モビリティ産業局を新設すべきだと著者は主張してきたという。

自動車部品メーカーは、カーディーラーを買収せよ。

EV化が進むと、1台あたりの部品点数が大幅に少なくなる。さらに共通プラットフォーム化で、部品メーカーの数は現在の十分の一にまで減少する可能性があるという。自動車部品メーカーにとっては、これから茨の道が待ち受けているという。そこで著者は、これまで自動車部品メーカーが発想しなかった大胆な事業の転換を提案する。その一例が、赤字のカーディーラーを買収して、モビリティ・サプライヤーに再生するビジネスである。

テスラはEVベンチャーの参考にならない。

第4次EVブームから現在まで、多くのEVベンチャーが立ち上がり、そのほとんどが消えていったという。著者は、EVベンチャーの多くが、テスラを目指していることが気になるという。テスラは、独自の資金調達、政界や自動車メーカーへの強力な働きかけなどで、かろうじて現状を維持しているにすぎず、成功事例と呼べないという。世界市場ではジャーマン3がEVシフトを急ぎ、それを受けて、トヨタを中心とするオールジャパンの体制が立ち上がろうとしている今、EVベンチャーが生き残る道はどんどん狭まっているという。その中でEVベンチャーに残された唯一の道が、オールジャパン体制の中に「EVベンチャー枠」を設けてもらい、その枠の中で、独自のサービス事業を創出することにあるという。

トヨタは生き残れるか?

著者は、ジャーマン3が仕掛けた「EVシフト」は、プリウスを基盤にトヨタが築きあげてきたハイブリッド王国に対する宣戦布告であるという。その戦法は、マーケティング手法により、EV、自動運転、コネクテッド、それぞれの技術をMaaSという、いまだ事業の形態がしっかり確立されていない枠組みの中に取り込み、トヨタや日系メーカーが得意とする技術オリエンテッドとは別の時間軸で、一気に次世代自動車での事実上の標準(デファクトスタンダード)を狙うというものだ。トヨタとしての対抗策は、ただひとつ。真の意味での「オールジャパン」を狙うことだという。

 

NHKスペシャル「激変する世界ビジネス “脱炭素革命”の衝撃」

石油の国で、世界最大の太陽光発電所を建設。

冒頭から、いきなり衝撃が来る。世界でも有数の産油国であるアラブ首長国連邦アブダビで建設が進む世界最大の太陽光発電所。太陽光パネル300万枚を使用し、原発1基に相当するというこの発電所から生まれる電力のコストは、日本の火力発電所の1/5だという。次の場面は、今年11月にドイツのボンで開かれたCOP23の模様。米国の金融大手が揃って「再生可能エネルギービジネス」への投資を拡大している現状を伝える。パリ協定からの脱退を宣言したアメリカからも、有力な政治家や大企業が参加し、「トランプは、ここにはいないが、我々は、この場所に留まる。決して逃げない!」と声を上げる。コカコーラ、マイクロソフト、ウォルマートなど、大手企業が「脱炭素」に舵を切った経緯が語られる。そして中国も、習近平自らが「我々がエコ文明をリードする」と宣言。世界中で起きている脱炭素シフトの潮流を紹介したあと、番組は日本に目を向ける。日本からもリコーなど、環境経営をリードする企業が参加しているが、他国からは非難が集中する。日本政府は、アメリカと共同で世界中に高効率の火力発電所を建設しようとしているからだ。環境ビジネスを推進するコンサルタントも、参加した日本企業の担当者に「日本には、優れた技術も、資金も、人材もあるのに、なぜ19世紀のエネルギーにこだわるのだ。あなたたちのライバルである中国は、すでに未来に向かって方向転換を進めている。」と迫る。

温暖化による異常気象は、大きなリスクになっている。

アメリカの大手スーパー、ウォルマートの担当者は、最近、発生した巨大ハリケーンがウォルマートにも甚大な被害をもたらし、多くの損失が出たことを語る。店舗の屋上に太陽光発電を設置するなど、環境対策に取り組んだ結果、年間1000億円のコストを削減することができて、それはそのまま利益になったと誇らしげに語る。英国の保険会社アビバも、温暖化による異常気象は、保険会社にとって、将来的に大きなリスクになると予測。今後は、化石燃料に関わるビジネスからの投資を引き上げるという。日本の電源開発にも、脱炭素化を再三提案したが、受入れられず、投資の引き上げを行うという。

日本企業技術者の悔し涙。日本が遅れる理由。

COP23に参加した日本企業の会合に呼ばれた投資家の辛辣な言葉を聞いて、日本の建設会社が進める洋上風力発電の技術者が悔し涙を見せる。彼は十年にわたって、洋上風力発電のプロジェクトを進めてきたが、実際に建設されたのは長崎の五島列島の1基のみ。まだ1円の利益を生み出していないという。番組は、日本で再生可能エネルギーへの転換が進まない事情を、全エネルギーの27.7%が再生可能エネルギーというドイツと比較する。ドイツでは太陽光、風力など、再生可能エネルギーを優先的に送電網に送ることができるのに対して、日本では、再生可能エネルギーの発電量が不安定なことや容量不足などを理由に既存の送電網に送ることができないという。

僕の感想。

グローバル資本主義が、本気で地球の環境のことを考えているかどうかは疑問だが、温暖化による異常気象の荒波が、ようやく彼らの足元を洗い始めたようだ。そして彼らの多くが「脱炭素」のほうにビジネスチャンスを見出しているのは明らかだ。番組の中で紹介されていた、日本が進めている「高効率の石炭火力発電所」の輸出は、現状では意味のある話なのかもしれない。しかし僕には、原発の再稼動にこだわる日本の電力ファミリーが苦し紛れに打ち出した戦略のようにしか見えない。ほんの一部の人々の利権を守るために、日本は、世界の潮流から背を向けようとしている。3.11のあと、日本は、脱炭素へ転換する絶好のチャンスを与えられた。しかし、結局、それを活かすことができなかった。NHKオンデマンドでも配信中。

中井久夫「いじめのある世界に生きる君たちへ」いじめられっ子だった精神科医の贈る言葉

いじめに苦しんだ経験がある高名な精神科医による、奇跡のような本。

前回のエントリー中野信子「ヒトは『いじめ』やめられない」のレヴューを読んでいて、見つけた本。著者は、高名な精神科医中井久夫。本文は100ページ足らず。文字も大きくて、文章もやさしく、小学校の高学年なら読めるレベル。大型書店で購入し、帰りの電車の中で、30分ほどで読み終えた。そして、ほんとうに驚いた。「いじめ」について、これほど平易に、これほど短く、それでいて、これほど高い精度で書かれた本を読んだことがない。すべてのいじめられている子どもたちに、この本を読ませてあげたい。

著者には「いじめの政治学」という論文があり、本書は「僕の論文を子どもが読めるようにしたい」という著者の願いから生まれた本だという。著者は、戦時中にいじめを受けたことがあり、数十年経った初老期まで、いじめの影響に苦しんだという。そんな著者による「いじめ」の考察は、やさしい言葉で語られていても、読んでいて、息苦しくなるほど、生々しく、恐ろしい。

著者によると、いじめはとは、他人を支配し、言いなりにすることであるという。そこには他人を支配していくための独特のしくみがあり、それはなかなか精巧にできているという。うまく立ち回ったり、力を見せつけたり、いじめをめぐる子どもたちの動きは、大人もびっくりするぐらい「政治的」だという。いじめが進んでいく段階を、著者は、「孤立化」「無力化」「透明化」という3つの段階で説明する。そして、このプロセスは、人間を奴隷にしてしまうプロセスだという。この本は、究極ともいえる簡潔さで書かれているので、内容を要約するのは愚の骨頂だが、「透明化」の中の、ほんの一部分だけを引用してみる。

「このあたりから、いじめはだんだん透明化して、まわりの眼に見えなくなってゆきます。『見えなくなる』というのは、街を歩いているわたくしたちに繁華街のホームレスが『見えない』ようにです。あるいはかつて善良なドイツ人たちに強制収容所が『見えなかった』ようにです。」

「しかし、何より被害者を打ちのめすのは、自分が命がけで調達した金品を、加害者がまるでどうでもいいもののようにあっという間に浪費したり、ひどい場合、燃やしたり捨てたりすることです。被害者が一生懸命やったことも、加害者にとってはゼロみたいなものだと見せつける行為です。」

いじめの被害者や親が、いじめのプロセスを理解するだけで、いじめに対する態度が大きく変わってくると思う。ぜひ手に入れて読んでほしい。本書の元になった論文「いじめの政治学」は、著者の第三エッセイ集「アリアドネからの糸」に所収。

 

中野信子「ヒトは『いじめ』をやめられない」

「いじめ」の報道がいっこうになくならない。「いじめ」が明らかになるのは、多くの場合、いじめに遭った被害者が自殺するなど、最悪の事態になってからである。そして学校側は、判で押したように「いじめの事実は認められない」と発表。それに満足できない親が、教育委員会などに訴え、第三者委員会が設置され、再調査の結果、いじめがあったことが明らかになる。?なぜ、いつも同じようなプロセスが繰り返されるのか?   いじめを根絶することはできないのか?  脳科学者である著者が、「いじめ」をどのように解き明かしてくれるのだろう?  著者の本を読むのは「サイコパス」に続いて2作目。

「いじめ」は種の生存のために、脳に組み込まれた「機能」。

著者は冒頭でいきなり、結論らしき仮説を語る。「実は『社会的排除』は、人間という生物種が生存率を高めるために、進化の過程で身につけた機能ではないか。」

脆弱な肉体しか持たないヒトは、集団を作り、協力しあうことによって種を生存させてきた。集団にとって最も脅威となるのは、集団の和を乱す異分子である。この異分子を見つけ出し、排除するために、ヒトの脳には進化の過程で「裏切り者検出モジュール」が組み込まれるようになり、異分子に対する「制裁(サンクション)が発動される仕組み」が出来上がってきたのである。そして、これらのシステムは、いくつかの脳内物質の働きによってコントロールされているという。

仲間意識を高め、排他性を強める脳内物質、オキシトシン

愛情ホルモンとも呼ばれる神経伝達物質オキシトシン」は、分娩や授乳の際に多く分泌されるが、男女を問わず、スキンシップや、名前を呼びあったり、相手の目を見て話すことでも分泌される。愛する人や仲間と一緒に過ごしたり、仲間と握手したり、肩を組んだりすると、愛情や仲間意識を感じるのは、オキシトシンの作用である。しかしオキシトシンによって、仲間意識が強まるいっぽう、異分子を峻別する排除意識も強くなるという。仲がよい集団ほどいじめが起きやすいという逆説は、オキシトシンの作用によるものだ。著者は、仲間意識と敵愾意識がどのように生まれるかを、有名な「泥棒洞窟実験」を例にあげて紹介する。

泥棒洞窟実験とは。

1954年、アメリカの社会心理学者、M.シェリフらが行った実験である。9歳から11歳までの少年を2つのグループに分け、互いの存在を知らせずに、キャンプ地である泥棒洞窟の、少し離れた場所でキャンプを行う。最初の1週間は、それぞれのグループでハイキングなど野外活動を行わせる。これによってグループ内の結束が強くなり、仲間意識が生まれた。その後、もうひとつのグループが近くでキャンプしていることを知らせ、2つのグループで綱引きや野球など、互いに競い合う競技を行った。その結果、グループ内では仲間意識が高まったが、相手のグループに対して敵対心を持つようになり、競技中に相手グループの悪口を言ったり、相手を攻撃するようになったという。実験では、2つのグループの敵対関係を解消するために、一緒に食事をさせたり、一緒に映画を鑑賞させたりしたが、食事中に喧嘩を始めてしまうなど、対立関係が解消することはなかった。2つのグループの関係に変化をもたらしたのは、キャンプに必要な飲料水のタンクを共同で修理させるなど、どうしても2つのグループが協力しなければならないという状況を作り出し、力を合わせて作業するという経験をさせることだった。この実験が示すのは、集団において、いじめの原因となる「仲間意識」や「排外感情」が、状況によって、実に簡単に発生したり、解消したりするということ。

安心ホルモン、セロトニン

いじめに関わるもうひとつの脳内物質がセロトニンである。セロトニンは安心ホルモンとも呼ばれ、このホルモンが多く分泌されると安心感やリラックス状態を作り出される。逆に不足すると、不安感が生まれ、リスクを回避しようと、行動が慎重になり、周囲の人の意見に同調しようとする。このホルモンに関わる遺伝子型の調査で、日本人は、もっとも同調性が高い遺伝子型を持っていることが判明している。このことから、日本人は、集団の同調への圧力が強く、いじめに加担しやすいという。

いじめることは快感である。ドーパミンの作用。

3つ目が脳内麻薬ともいわれるドーパミン。この物質は、セックスや食事をした時に分泌される。つまり個体や種の生存につながる欲求が充たされた時に分泌される物質だが、集団を守るために、ルールに従わない者に制裁を加えるという、正義達成欲求や、所属集団からの承認欲求が充たされた時にも、放出されるらしい。いじめの始まりは「間違っている人を正す」という気持ちから発生するという。そして「お前は間違っている」という気持ちで制裁を加え、「自分は正しいことをしている」と感じることで快感が得られるのだ。いじめが発生し、集団の中に拡大していくと、制裁がどんどんエスカレートしていくのは、脳内麻薬の作用によるものだ。ネットの炎上が、わかりやすい例だという。誰かが少しでもポリティカル・コレクトネスから逸脱したと見なされると、みんなで寄ってたかって叩きに行く。あの人は共同体のルールに従わない人なので、攻撃してもいいのだというお墨付きを自分は得ているのだと思い込み、ありとあらゆる激しい言葉を使って相手を痛めつける。ネットの社会で、炎上がこれほど起こるのは、どんなに過激な言葉を使っても、匿名性があることでリベンジされるリスクが低いからだという。

「いじめ」は深化する。スタンフォード大学監獄実験。

著者は、いじめがエスカレートしていく実験を紹介する。1971年に心理学者のフィリップ・ジンバルドーは、大学の地下実験室を改造し、刑務所を作った。そこに新聞広告で集められた、互いに面識のない大学生など、21人の被験者によって行われた。被験者は「看守」役と「受刑者」役の2つのグループに分けられ、それぞれの役を演じさせた。一見、お遊びのように思えるが、翌日になると、受刑者には受刑者らしさが現れ、看守は、看守らしく振舞うようになった。恐ろしいことに、受刑者は従順に、看守は強権的になり、その行動はどんどんエスカレートしていったという。看守役は、命令に従わない受刑者役に対して、腕立て伏せなどの罰を与えたり、食事を与えないなど、役割を越えて、虐待を加えるようになっていった。監獄の様子はモニターされ、ジンバルドーは状況をすべて把握していたにも関わらず、実験を止めることができなかった。実験6日目にジンバルドーの恋人であった心理学者が見学に来て、あまりにひどい状況にショックを受けて、実験を中止させたという。

いじめられやすい人。

第3章では、著者は、いじめの傾向を脳科学の視点から分析していく。第1節では「いじめられやすい人の特徴」をあげる。主に暴力を伴ういじめを受けやすい人として「体が小さい人」「体が弱い人」「太っている人」「行動や反応が遅い人」をあげる。これはサンクションを行う際に、身体的に弱く、リベンジが少なそうな人を選んでいるということ。身体的な特徴でなく、人柄、性質といった内面的な特徴としては、「大した意図もなく、集団の和を乱す言動をとってしまう人」「まじめで一人だけ正しい指摘をするがゆえに、みんなの楽しい雰囲気を台無しにしてしまう人」など、いわゆる「空気の読めない人」。また「一人だけ得をしているように見える人」も、妬みからいじめに発展していく。「妬み」の感情は、互いの関係において「類似性」と「獲得可能性」が高い時に強くなるという。類似性とは、性別、職種、趣味嗜好などが似通っていること。獲得可能性とは、相手が持っているものに対して、自分もそれらを得られるのではないかとおいう可能性。例えば自分と同等、もしくは僅差と思われる人が、自分には手に入れられないものを手に入れ、また自分が届かなかったレベルに相手が届いてしまった時に、妬みの感情が生まれる。価値や年齢が全く違う人、努力しても追いつけないほどの天才、手が届かないほどの権力者や、超のつくお金持ちの子などは、類似性も獲得可能性も低いため、妬みの感情は生まれない。しかし、学校は、通う目的も年齢も同じ子が集まり、そこで均一の教育を受けるため、そもそも「類似性」「獲得可能性」が高い人間関係であるという。そのほかにも」外国にルーツのある人や性的マイノリティの人に対する偏見、差別からいじめにつながるケースもある。国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチによる、日本の学校におけるLGBTの子供に対するいじめについての調査によると、学校でのLGBTへの暴言を経験した人は86%にのぼり、そのうち、「教師が言うのを聞いた」と回答した人は約3割もいたという。

テストステロンといじめの関係。

いじめは、小学校高学年から中学2年に過激化するという。著者は、いじめと年代の関係を裏づけるデータがないのだが、と前置きした上で、小学校高学年から中学2年という年代が、身体が子供から大人に生まれ変わる時期であることに注目する。一般的には反抗期と言われたりするこの時期は、特に男子の場合、性ホルモンである、テストステロンの分泌量が急激に高まるという。9歳ごろから急激に増え、15歳頃、ピークに達し、9歳以前に比べると約20倍にもなるという。テストステロンは、支配欲や攻撃性といった男性的な傾向を強めるホルモンであり、この時期の男子は、理由もなく攻撃性が高まってくる可能性があるのだ。同時に、この時期から、情動のブレーキともいえる前頭前野が育ってくるのだが、こちらの方は30歳前後に成熟するため、攻撃性を抑えるブレーキがあまり効かないという。テストステロンによって高まった攻撃性と裏切り者検出モジュールが結びつくことで制裁はより苛烈になるという。また、5月と6月、10月、11月にいじめが増加するのも、日照時間が変化によって脳内物質のセロトニンが不足しがちなことが原因ではないかと言われている。

女はグループを作り、男は派閥を作る。

女性は、もともと愛情ホルモン、オキシトシンの分泌が多いため、グループや仲間を作り、その中でいじめが発生する傾向があるという。男性の場合は、派閥など、ヒエラルキーを前提とした集団においてのいじめが多いという。それは男性において多く分泌される性ホルモンのテストステロンが、支配欲、攻撃性を高めるため、つねに自分が上にいたい、もしくは強い組織に属していたいという意識が高まりやすいからだという。そして男性の制裁行動は、過激化し、暴力を伴うことも少なくないという。女性の場合、制裁行動は、リベンジを恐れて、匿名化、巧妙化する傾向があるという。

文部科学省のいじめ対策。

2011年に滋賀県大津市で中学2年の男子がいじめを苦に自殺した事件を契機として、2013年「いじめ防止推進対策法」が施行された。その中で、学校が講じるべきことの一つに“いじめの事実確認”があげられているが、その具体的な方法は教育現場に任されていたため、対策を講じる温度差が自治体の教育委員会や学校によって違っており、たとえ被害者本人から「いじめられている」という相談があっても、それだけで学校が直ちに対応に乗り出すということは多くなかった。法の施行後も、自殺のような重大事態が減らないことを憂慮した国は、2017年3月に「いじめの重大事態の調査に対するガイドライン」を策定した。その中で「重大事態は、事実関係が確定した段階で重大事態としての対応を開始するのではなく、『疑い』が生じた段階で調査を開始しなければならないと認識すること」としている。しかしガイドラインの策定から1ヶ月後、宮城県仙台市の中学校で2年性の男子生徒がいじめを苦に自殺する事件が起こった。市の教育委員会は、事件の3日後、最初の記者会見を行った。教育長や校長は、いじめについて、「はっきり断定したものはない」「いじめではなく生徒間のトラブル」と発表した。しかし翌日、教育長は、前日の発言から一転「いじめという認識があった」と認めた。校長も、保護者説明会の後の記者会見で「いじめというべきだったと反省している」と話した。その後も、事件は醜悪な事実を露呈することになる。自殺した被害者生徒に対して、女性教諭が口にガムテープを貼る、さらに自殺の前日には男性教諭が握りこぶしで頭を殴るという暴行を加えていたことが判明した。

いじめゼロをめざす学校が、いじめを認めたくないという矛盾。

その後も、いじめを苦にした自殺などの重大事態は後を絶たない。学校や教育委員会の対応も相変わらずである。著者は、「いじめゼロ」をめざす学校にとって、いじめは「あってはならないもの」であるため、疑わしい場合でも「いじめ」や「重大事態」を認めることに慎重になり、対応が遅れてしまうのではないか、と指摘する。いじめがあれば学校の評価も下がるし、教師の評価も下がる。そして調査の実施や報告書の作成、保護者への説明など、仕事が増えるだけである。これでは、学校や教師の中で、いじめを見つけ出すモチベーションが高くなりえない。この問題は、学校や教師が悪いのではない。学校に、いじめを報告することが報われる環境がないことが問題なのだと著者は語る。

第4章では「いじめの回避策」が語られている。第1節の「大人のいじめ回避策」は、いわゆるHow toなので飛ばしてしまうが、要は、妬まれたり、目立ってしまうことをできるだけ避けようということである。

第三者の目、外部の目で死角をなくす。

第3節で、著者は、現在の学校に、いじめを抑制するための手立てや効果的なシステムがないことを指摘する。いじめは、そもそも教室という、社会の目が届きにくい、子供達だけの「密室」で行われるため、その発見や防止は容易ではない。本気でいじめをなくそうとすれば、文科省教育委員会、学校だけで解決できると考えるべきではないと著者は主張する。そして、現在のいじめは、触法行為であることから、ここに至っては、学校とは別の組織で扱うことや、法的措置や、警察などの導入の検討も議論される時期かもしれないという。日本では学校に警察権が入ることに強い抵抗があるが、アメリカでは、多くの州で、被害者が「いじめられた」と感じた時点でいじめと認知して直ちに報告することが州法によって義務づけられているという。また、いじめを触法行為、犯罪として扱い、小学生であっても犯罪歴となる州もあるという。日本の現場でも「警察に報告します」「あなたのしていることは刑法によって罰せられる行為だ」ということをはっきり言う。そして時と場合によっては本当に警察に相談するということができれば、大きな抑止力になるという。最近では、いじめを訴えても学校が対処してくれないため、保護者が証拠集めのために探偵を雇うケースが急増しているという。しかし探偵は学校内に入ることはできない。子供たちだけの密室で行われるいじめをどのように察知するか。警察OBやセキュリティ会社の人を巡回させるという方法も第三者の目を入れるという点では有効である。

大津市の場合。

2011年に起きた中学2年生いじめ自殺事件の後、大津市長は、学校と教育委員会の調査が不十分であったことを認め、遺族推薦の委員を含む第三者調査委員会を市長直轄として立ち上げるなどして、徹底した原因調査に取り組んだ。さらに学校、教育委員会とは独立する形で、市長直轄の部署として「いじめ対策推進室」新設。さらに、常設の第三者機関として、弁護士や臨床心理士などを常駐させた「大津の子どもをいじめから守る委員会」を設置した。いじめを受けた子どもや保護者は、学校や教育委員会を通さず、直接この委員会にいじめの相談をすることができる。また「守る委員会」には、直接相談のあったいじめ事案に関する調査の実施や、市長に対して再発防止やいじめ問題解決のための方策の提言を行う権限が与えられている。また、教育委員会も、一校をのぞく私立小中学校53校すべてに「いじめ対策担当教員」として、生徒指導に力を持ついじめ対応の専任教師を配置した。

ルシファーエフェクトを防止する防犯カメラ。

著者はまた、防犯カメラを教室に設置することも有効な方策であると主張する。人は誰にも見られていない時や、自分が特定されないという条件で、倫理的に正しくないことする確率が高くなる。これを「匿名化によるルシファーエフェクト」という。普通の善良な人たちが、一瞬で悪魔=ルシファーのようになってしまったスタンフォード大学監獄実験を行った心理学者のフィリップ・ジンバルドーが名付けたものだ。教室の密室化、匿名化を防ぐために、監視カメラを導入することを前向きに検討してみてもよいのではないかと著者はしめくくる。

教室からつながっている場所。

ここからは僕の感想。「いじめ」に関する本を読んで驚かされるのは「いじめの手口」が実に巧妙で効果的であること。親や教師から見えないように、実に巧妙に、しかも最大限のダメージを与えながら、被害者を追い詰めていく、そのやりかたは、大人顔負けである。人生経験の少ない小学生や中学生が、どうやって、それを身につけたのだろうと、ずっと謎だった。しかし最近では、きっと「いじめ」は学ぶものではなく、人間が生まれつき持っている「仕組み」ではないかと思うようになってきている。本書は、そんな思いを裏付けてくれる本である。「いじめ」という言葉は、パーソナルな世界の小さな現象のようなイメージを感じさせるが、本当は、人間の根源的な「悪」につながる特性なのだと思う。「いじめ」は、どんな集団にも起こる、ありふれた現象なのだが、その破壊力は凄まじい。子供たちの教室と、アウシュビッツはつながっているのだ。

P・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」再読。映画「ブレードランナー2049」を観る前に。

 

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映画「ブレードランナー2049 」を観る前に。

前作から35年ぶりとなる「ブレードランナー2049」は、個人的にいろいろな視点で観ることになった。まず、前作をマイベストSF映画と決めているSF映画ファンとしての視点。もちろん長年のSFファンとしての視点。さらに原作者のP.K.ディックのファンという視点。どの視点で観るかで、かなり評価が違ってくる。「2049」を観る前に、原作である「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を40年ぶりに読み、前作の「ブレードランナーファイナルカット版」をもう一度観た。

ブレードランナー」は、マイ・ベスト・SF映画である。

もう一度言わせてもらうが、前作「ブレードランナー」はマイベストSF映画である。35年前に観た時、何よりもまず、あの映像と世界観に度肝を抜かれた。荒廃し、酸性雨が降り続ける未来のロサンジェルス。日本、中国をはじめとするアジア文化がはびこる、猥雑で倒錯した街のイメージ。SF小説では、そんな未来描写は珍しくもなかったが、実際の映像で目の当たりにするのはものすごい衝撃だった。その中に、シド・ミードがデザインしたビークルや建築が違和感なく溶け込んでいる。巨大な神殿のような、未来のピラミッドのようなタイレル本社。それまで、未来をこんな風に描いた映画はなかった。冒頭に登場するフォークト・カンプフ検査の装置も、どういうわけか、ジャバラで空気を送り込む仕掛けを備え、レトロフューチャーな気分を盛り上げる。そして、なんと言ってもよかったのが、レプリカントたち。ルドガー・ハウアー扮する戦闘型アンドロイド、ロイ・バッティの存在感。映画が創りあげた男性のアンドロイドのNo.1は、なんといってもターミネーターのT800だが、2番目が、こちら。ラスト近く、デッカードを追い詰めていく時に、バッティが上げる、狼の遠吠えのような叫び声。自らの死が近いことを悟ったアンドロイドが、最後の力を振り絞って、仲間の復讐を果たそうとする。恐ろしくて、それでいて哀しい声は、今でも耳に残っている。デッカードとアクロバティックな格闘を繰り広げる女性アンドロイド、プリスを演じたダリル・ハンナは、この1作でファンになった。そして極め付けは、ショーン・ヤング演じるレイチェルの完全無欠の人造美女。往年の大女優を思わせる、古典的でありながら、どこか無機質な美しさに、完全にノックアウトされた。あれから35年、多くのSF映画を観たが、「ブレードランナー」を超えるSF映画にいまだ出逢えていない。

しかし前作には、ディック・ファンとして許せない部分があった。

ブレードランナー」は、そのすべてが、その後の様々な作品に少なからぬ影響を与えた金字塔のような映画だった。しかし、いっぽうで、ディック作品の映画化版として観ると、僕にはどうしても許せないところがあった(後述)。そのせいで、映画「ブレードランナー」は、本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」の映画版ではなく、ディックの作品のストーリーや設定を借りてつくられた、まったく別の作品だと考えることにしている。

40年ぶりの再読。

すっかり黄ばんでしまった早川SF文庫の奥付を見ると、昭和52年(1977年)なので、僕が23の時に読んでいる。ディック作品としては最も有名だが、当時、評価はそれほど高くなかったような気がする。

映画「ブレードランナー」と同じ部分と違う部分。

大規模な核戦争によって、地球は汚染され、生物が次々と絶滅していく。人々は、放射能の降灰に怯えながら、様々なメディア装置に浸ることと、電気仕掛けの動物を飼うことで、救いのない毎日を過ごしている。原作には、ディック特有の、様々なガジェットやメディア装置が登場する。情調オルガン、共感ボックス、テレビショウ「バスターフレンドリーと仲良し仲間」…。主人公や、その妻は、情調オルガンによって、日々の感情をコントロールしている。愛憎や高揚も、チャンネルひとつで切り替えることができるこの装置は、未来の生活には欠かせない機械だ。共感ボックスは、没入型のメディアで、ウィルバー・マーサーという教祖に完全に同化することができるVR装置である。テレビでは、人気キャラクターのバスターフレンドリーのショウが24時間途切れなく、宇宙への移民を宣伝している。主人公のリック・デッカードは、ロボットの羊を飼っているが、近所の住人に本物でないことを知られるのを怖れ、いつか本物を手に入れたいと願っている。環境が悪化する中、国連は、人類の宇宙への移住計画を推進している。移住を希望する者には、特典として奴隷として使えるアンドロイド一体が与えられる。最新型のネクサス6は、人間と見分けがつかないほど進化し、感情を持っているという。そのアンドロイド8体が、自らの主人を殺害し、逃亡、地球に潜入してきた。彼らのリーダーはロイ・ベイティ(映画ではロイ・バッティ)。腕利きのバウンティハンター、ホールデンは、2体ののアンドロイドを倒すが、3体目で、逆に襲われ、重症を負う。ホールデンに次ぐバウンティハンターであるリック・デッカードに声がかかる。彼はアンドロイドの開発メーカーであるクローゼン社に出かけ、アンドロイドを判別する「フォークト・カンプフ判別機」で、逃亡アンドロイドと同じネクサス6型であるレイチェルを検査する。映画も、このあたりまでは、原作に近い設定を保っているが、ストーリーが進むに従い、原作とは違う展開を見せるようになる。

レイチェルは、ムンクの絵画「思春期」の少女!?

原作と映画でいちばん違っているのは、アンドロイドの描き方である。原作では、リーダーのロイ・ベイティは、モンゴロイド系の、平坦な顔で、火星時代は、薬剤師を自称し、様々な精神融合薬を盗み出しては、自ら実験していた。彼は、アンドロイドの生命の神聖さを説き、集団脱走計画を発案したという。原作のアンドロイドたちは、映画のような超人的な身体能力を与えられていない。また、レイチェルとプリスは同じ型のアンドロイドで、少女のような姿であると描写されている。また、なぜディックは、そのように描いたのか。デッカードが逃亡アンドロイドの一人を逮捕しにいくのが、「ムンク展」の会場なのである。逃げられないと覚悟したアンドロイドは、デッカードに、今見ている絵の複製を買ってほしいと懇願する。その絵が「思春期」だ。黒髪で眼の大きな全裸の少女が、おびえたような表情でベッドの端に腰掛けている、あの有名な絵だ。原作のレイチェルは、やせっぽっちで、胸も小さく、少女みたいで、顔だけが大人であると描写されている。映画を観るまで、僕が描いていたレイチェルのイメージは、ムンクの「思春期」の少女なのである。レイチェルの人物像は原作では重要な意味を持っている。

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デッカードは、残ったアンドロイドを倒すために、レイチェルの協力を求める。レイチェルは協力するふりをして、デッカードを誘惑する。彼は、レイチェルの誘惑に負け、彼女と寝てしまう。レイチェル型のアンドロイドは、人間の男性の愛情を獲得するために造られたらしい。レイチェルを愛するようになったデッカードは、一度はアンドロイド狩りを断念するが、レイチェルによる誘惑が、クローゼン社や逃亡アンドロイド達の策略だったことを知って、アンドロイド狩りを再開する。デッカードはレイチェルを一度は殺そうとするが、結局、殺せずに解放して、逃亡アンドロイドたちを狩りにいく…。

原作ではアンドロイドは「悪」。

映画は、原作の筋書きにおおむね忠実なように思えるが、決定的に違う部分がある。それはアンドロイドについての解釈が、原作と映画では180度違っている点である。映画では、人間と同じように知能や感情を持ちながら、4年の寿命しか認められていないアンドロイドの運命と悲哀が描かれている。観客は間違いなく、デッカードではなく、レプリカントのロイ・バッティのほうに感情移入するはずだ。しかし原作は違っている。アンドロイドの存在自体が「悪」なのである。彼らがどれほど人間に近づいても、それは人間の心の動きを模倣しているに過ぎず、本物の感情ではない。死の灰によって、脳が犯され、落伍者の烙印を押された登場人物のイジドアが見つけてきた蜘蛛を、アンドロイドのプリスがつかまえ、その脚を1本ずつちぎっていく場面には寒気がする。アンドロイドは、人間を含む、あらゆる生物に共感することができないのだ。主人公にしても、その妻にしても、落伍者のイジドアにしても、どこか精神を病んでいるのだが、生き物に「感情移入」する心は失われていない。アンドロイドがどれほど精密に人間の心の動きを再現しようとしても、それは所詮「模倣」に過ぎない。彼らは、本物の心を持つことができない邪悪な存在として描かれている。作者は「感情移入」こそが、人間を人間たらしめている特質であると言いたいかのようである。「人間と人間もどき」。このテーマは、ディックの作品の中に繰り返し出て来るテーマのひとつなのだ。リドリー・スコット監督は、ディックとは正反対の位置にアンドロイドを置いてしまった。僕は、この1点において、映画をディック作品の映画版として認めないことにした。

AIやシンギュラリティ時代の「2049」。

SF小説SF映画が未来予測の手段のひとつだとすれば、シンギュラリティに関しては、映画のほうが正しいような気もする。シンギュラリティが現実に起こり、アンドロイドたちが、人間になり、さらに人間を超え、文明の継承者となっていく日がくるのかもしれない。そういえばリドリー・スコットの、もうひつの傑作「エイリアン」と、一連のシリーズでも、アンドロイドは重要な役割を担っている。今年公開された「エイリアン・コヴェナント」では、アンドロイドのデビッドが、人類の創造主であるエンジニアの文明を滅ぼすという設定だった。そういう意味で、アンドロイドが人間になろうとした前作から、人間とのハイブリッドによって、人間になり、さらに人間を超え、今度は、人類に対して革命を起こすという「2049」は、ある意味のシンギュラリティを描いた映画であると言えないこともない。リドリー・スコットは、この映画は「ピノキオ」の物語なんだと言ってるらしいが。

VR、AR満載だった「2049」。

興行的には失敗だったと言われている「2049」だが、僕自身は十分楽しんだ。2時間40分におよぶ長尺も気にならなかった。前作のストーリー、世界観を継承しながら、前作とは異なる映像美を創り出している点も評価できる。SF映画の魅力は、出てくるガジェットに負うところが大きいが、その点でも満足した。今回、初めて出てきたAI×AR×ホログラフィーのVRキャラ「ジョイ」も、なかなか魅力的だった。ジョイと本物の女性(後でアンドロイドと判明)が合体した相手とのセックスも面白かった。インタラクティブに反応するエロティックな巨大ホログラフィー広告、スピナー(空飛ぶ自動車)に付属の偵察ドローン、ウォレスが操るミニドローン群など、新しいアイデアも満載だ。

ちょっとキャラが弱かった?

難点をあげるとすれば、登場人物のキャラが、ちょっと弱かったことかな。前作の、ロイ・バッテイ(ルドガー・ハウアー)、レイチェル(ショーン・ヤング)、プリス(ダリル・ハンナ)のような、強烈な存在感のキャラクターがいなかった。前作でハリソン・フォードが演じたデッカードは、実は、あまり存在感がなかったと思うが、「2049」では彼が一番存在感を主張していた。

映像は美しいが、クールすぎて…。

それと、前作とのつながりを重視するあまり、映像がストイックになりすぎて、前作のような、猥雑なカオス的賑やかさが出てなかったこと。前作の、過剰ともいえるディテールは、2度目、3度目に観ても、発見があったが、今回はどうだろう。

P.K.ディック全作品を再読破したい。

今回、40年ぶりぐらいで本書を読んで、もう一度ディックを読みたくなった。自宅の本棚で数えると40冊ほどある。最後に読んだのは、もう何年前だろう。10年以上読んでないのではないだろうか。「ヴァリス3部作」など、途中で挫折した作品も少なくない。定年後の身に時間はたっぷりあるので、全作品読破に挑戦してみようか。

POPなカフカ
ディックは、SF作家として知られているが、僕は、彼が、「SF作家であって、SF作家ではない」と思っている。宇宙人、時間旅行、火星、パラレルワールド、超能力など、当時でも、ありふれて陳腐なSFの題材を用いながら、まったく別の異質な物語を紡ぎ出す作家である。日常の一部が、ある日突然、ほころびはじめ、現実と仮想、過去と未来、自分と他者など、あらゆる境界が、曖昧になり、意味の混沌の中に呑み込まれてゆく。そのすさまじい崩壊感は、ディックでしか味わえない。誰かがディックを「POPなカフカ」と表現しているのを目にしたことがある。30年ほどの作家生活の中で40編を超える長編を書き、数多くの短編を残した。1982年、53歳、映画「ブレードランナー」の完成を見ることなく亡くなっている。

藤田日出男「隠された証言 日航123便墜落事故」

日航123便墜落事故」関連の本を読んでいる。

8月28日のエントリーで書いた

青山透子「日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る」 - 読書日記

を読んで以来、あの事故のことが気になってしかたがない。そこで、いろいろ読んでみることにした。大型書店で探しても、あの事故について書かれた本は、もうほとんど置いてない。あるのは青山氏の新刊のみ(けっこう売れてる)。しかたなくAmazonでいろいろ購入。その中の1冊。

日航パイロットの視点。

本書を選んだのは、著者が日航パイロットであること。そして早くから航空事故調査に取り組んできたこと。さらにその知見から、日航123便事故調査委員会の結論に疑問を持ち、再調査を主張し続けたことが理由。事故当日、著者は、翌朝の香港便に搭乗のために成田にいたが、事故発生の一報を聞き、群馬県に急行、墜落現場へ駆けつけて調査を開始した。1994年、日本航空を定年退社し、「日本乗員組合連絡会議」事故対策委員を務めた。本書は、2003年に出版された(2006年文庫化)。2008年永眠。

著者は、圧力隔壁の金属疲労による破壊を原因とする事故調査委員会の結論に疑問を持ち、独自の検証で事故原因を追求した。特に、生存者の証言やボイスレコーダー、フライトレコーダーの解析から「圧力隔壁破壊による急減圧は無かった」と主張。自説を実証するために、急減圧の実験を行い、事故原因の再調査を訴え続けた。

陰謀論には加担しない。しかし。

日航パイロットのせいか、「自衛隊のミサイルが直撃した」「墜落の直後から自衛隊の特殊部隊が現場に入っていた」などの陰謀論には懐疑的。しかし、防衛庁の素早すぎる対応、墜落現場特定の遅れ、事故直後、現場に来て救援を行おうとしていた米軍ヘリを日本政府が断っていたこと。そして、そのまま翌朝まで救助活動を行わず放置していたことなど、当時の錯綜した情報を整理することで、「謎」を浮き彫りにしている。

パイロットならではの視点。

異常が発生し、墜落するまでの123便の飛行を、フライトレコーダーやボイスレコーダーの情報を元に分析しているのは、わかりやすい。パイロットならではの視点には説得力がある。

隔壁破壊説に一貫して反論。

著者は、事故調の結論である「圧力隔壁の金属疲労による破壊説」に、一貫して反対している。本書の半分以上は「隔壁破壊による急減圧説」を否定するために書かれているといってもいい。生存者の証言、急減圧を起こした過去の航空事故、そして、急減圧の実験を行って、隔壁破壊説に反論する。その論理には説得力があると思う。

本当の事故原因は?

著者は、隔壁破壊説を否定した上で、どのような原因が考えられるのか、考察を加えている。しかし相模の湾海底に沈んでいるはずの垂直尾翼の残りの部分を回収して、検証しなければ、本当の原因はわからないという。ミサイルや隕石の直撃という「とんでも説」を除くと、「フラッター説」が有力であるという。フラッターとは方向舵が、旗が強い風でバタバタとはためくのと同じような状態になることを指す。過去にはフラッターによって墜落した飛行機も少なくないという。著者はボイスレコーダーに記録された8〜16Hzの周波数変動が、フラッターではないかと推測している。この振動は、異常発生を表す「バーン」という音の、約4分の1秒前から始まっていて、尾部のどこかの破壊の始まりとも見られるという。

内部告発者とのコンタクト。

本書の中に、著者に接触してきた内部告発者のことが紹介されている。彼は運輸省の官僚で、事故調査の様々な資料に触れるポジションにいる。2000年11月、運輸省は、翌年に控えた情報公開法の施行に備えて、多くの資料を廃棄処分した。その直後、著者の元に匿名の手紙が届いた。そこには、「調査資料は、破棄された。しかし、役所にも良心はある。資料を残しておこうという有志がいて、資料を手元に残している。それを集めてお渡ししたい」という内容が書かれていた。著者は、彼とコンタクトし、資料を見ることができたという。著者自身が預かるわけにいかず、資料を保管している秘密のトランクルームに預けることにしたという。

残念ながら、著者は2008年に亡くなっている。著者が強く願った、日航123便事故の再調査は、いまだ実現していない。著者は亡くなる前に、ジャーナリストと共同執筆の本を出そうとしていたという。米田憲司「御巣鷹の謎を追う」。こちらも読む予定。他に吉岡忍「墜落の夏」飯塚訓「墜落遺体」小田周二「524人の命乞い」も購入済み。池田昌昭の著作も読むつもり。