桐野夏生「夜の谷を行く」

著者の作品で読んだのは「魂萌え」「グロテスク」ぐらいだが、テレビドラマや映画になった作品は気になってけっこう見ている。著者は実際に起きた事件をモチーフにして作品を書くことがあるが、本書も連合赤軍の事件がモチーフになっている。事件は僕が高校の時に起きたが、当時は学生運動そのものに拒否反応があり、事件を詳しく知ろうとは思わなかった。その後もまったく関心が持てないまま時間が経ってしまった。閉ざされた集団の中でリーダーたちが徐々に狂っていく過程に興味を覚えて、ドキュメンタリーや小説を読むようになったのは、この10年ぐらい。カバーの不気味な写真は、よく見ると「ママチャリ」。ママチャリだって描き方しだいでホラーな絵になる。

40年前の事件が蘇ってくる。

主人公の西田啓子はかつて連合赤軍の兵士だった。彼女は、メンバー同士による「総括」と称する批判によってリンチで12人が殺された「山岳ベース事件」から脱走した一人だった。現在は、一人の妹以外は誰ともつきあわず、ひっそりと暮らしていた。事件から39年が経った2011年、元連合赤軍の仲間から連絡がくる。彼から最高幹部の永田洋子が死んだことを告げられる。そして彼女に会って取材したいというライターを紹介される。さらに元の夫からも電話がかかってくる。同じころ、姪の結婚が決まり、自分の過去を告げざるを得なくなり、妹との関係も険悪になっていく。封じ込めていた過去が永田洋子の死をきっかけに甦ろうとしているかのようだ。そして3月11日の東日本大震災が起きる。以後、震災報道の様子は、暗騒音のように物語を支配している。

むしろ淡々とした印象で読み進んでゆく。

主人公の、スポーツジムに通うのと図書館の本を借りて読むのが日課という、単調な生活のせいか、読んでいる印象は淡々としている。事件の頃を思い出す場面は出てくるが、事件のドキュメンタリーを読んだ時のような執拗さ、陰惨さは感じられない。主人公は、元夫や昔の仲間と話すうちに、自らも忘れていた事実と向き合わざるを得なくなる…。過激な武装闘争をめざす集団がなぜ、凄惨なリンチ殺人を犯すようになっていったのか?閉ざされた集団の中で、悪霊が生まれ、若者たちの心を少しずつ侵食していき、狂わせていった様子を描いてほしい。僕が連合赤軍の事件に関する本を読むのは、その過程を知りたいからだ。執拗な「総括」やリンチの描写を読む辛さを覚悟して読み始めたが、ちょっと肩透かしをくらった印象。著者は、あの事件の違った側面に光を当てようとしたのかもしれない。ネタばれになるので書かないが、ラストは鮮やかだ。静かな感動に包まれる。

 

村上春樹「騎士団長殺し」

サクサク・ストーリー。

これまででいちばんサクサク読めた。途中でひっかかったり、退屈したり、考え込んだりすることなく、ほんとうに、サクサク、サクサクとストーリーが進んでいき、2冊合わせて1000ページにもなる大作をいっきに読ませてしまう。元々ストーリーテリングが巧みな作家だが、本書では、絶妙というか、なんか巧妙な手品を見せられているようで、ちょっと気味が悪かった。そのせいか、読み終えたあと、思い返すと、いくつか破綻ではないかと思えるところが出てくるが、読んでいる間は、そんなことに全然気づかない。ひょっとして、この「サクサク感」こそが村上春樹の「キーワード」ではないかと思えてきた。あとで「サクサク感」の原因をじっくり考えてみよう。

 回想で語られる物語。

プロローグ。読者は、いきなり寓話的な世界に放り込まれる。そして「騎士団長殺し」が一人の画家が描いた絵であることを告げられる。そして第1章?が始まると、村上作品を読み続けてきた読者には、懐かしいようなハルキワールドが展開していく。主人公は、穏やかだが頑固に自分のスタイルを守り続ける職業人。今回は肖像画の画家という設定。主人公は、妻との結婚生活を一度解消し、9ヶ月後に、もう一度結婚生活を始めることになる。彼は、妻と暮らした家を飛び出し、長い旅に出る。旅から帰ってくると、美大時代の友人である雨田政彦の父であり、著名な画家であった雨田具彦が住んでいた小田原の山の上の家に、半ば留守番役として暮らし始める。その家の住人であった雨田具彦は、高名な日本画家であったが、認知症が進行し、伊豆の高級養護施設に入っているという。小説はこの9ヶ月を主人公が回想する形で語られてゆく。

画家と絵画という新しい枠組み。

主人公は、山の上の家に住みながら、地元の絵画教室で教え、人妻との関係を重ねながら、絵を描こうとするが、描けない日が続く。以前の家の住人であった雨田具彦は、かつては気鋭の洋画家であり、第二次世界大戦前のウイーンへ留学していた。帰国した画家は、6年の沈黙の後、日本画を発表する。それ以後は、日本画を描き続け、日本画家として成功を収める。主人公は、ある日、家の屋根裏で厳重に梱包された1枚の絵を発見する。それは「騎士団長殺し」と名付けられていた。それは発表されていれば間違いなく雨田具彦の代表作なったであろう作品で、日本画ながら、血なまぐさい殺人の場面を描いた絵であった。その絵を見つけた頃から、主人公の周りでは不思議なことが起きはじめる。近所の豪邸に住む謎めいた人物、免色渉から肖像画の依頼。そして深夜に聞こえてくる鈴の音…。お約束ともいえるパラレルワールドの冒険が始まる。以前と違うのは、作品のタイトルに、「顕れるイデア編」「還ろうメタファー編」というような、「これはパラレルワールドの物語ですよ」と、わざわざ謳っていることだろうか。「騎士団長殺し」の絵が、現実世界とパラレルワールドをつなぐ重要なアイテムになる。主人公は「絵」を媒介にしてパラレルワールドイデアの世界)に入っていくのだ。著者が、画家を主人公にした作品を書いたのは初めてではないだろうか。主人公が、肖像画を描きあげていくプロセスがしっかり描写されていて興味深い。現実の画家がこの部分を読んで、どんな風に感じるのか聞いてみたい。著者の創作のプロセスを、絵画に置き換えて描いたようにも読める。雨田具彦のモデルになった日本画家がいるらしく、話題になっている。井上三綱(さんこう)という人で、西洋と日本を融合した作風で知られ、小田原の山の上に住んでいたという。

上田秋成、ウィーンのアンシュルス南京虐殺カルト教団

小説の中で語られる様々なエピソードが興味深い。真夜中に聞こえてくる鈴の音のエピソードの中で語られる上田秋成の「二世の縁」の話。ウィーンでのナチスによる大弾圧「アンシュルス」の話、他に日本軍の南京大虐殺の話、秋川まりえの父が傾倒していくカルト教団の話など。それらのエピソードが物語の中で違和感なく組み込まれ、ストーリーが進んでいくのだ。

謎の人、免色渉(めんしきわたる)

本書の中で、主人公に関わり、物語を展開させていく重要な人物が、この免色渉である。著者は、免色のディテールを執拗に描写するが、なぜかリアリティが感じられないのだ。山の上の白亜の豪邸にたった一人で住み、お金があり余るほどあって、趣味みたいな感じで株や為替の取引をやっている人物だという。主人公がパラレルワールドの冒険から帰ってきた後、友人の雨田政彦に免色の話をすると、雨田は、「なんだか、火星の美しい運河の話を聞いているみたいだ。」という感想を語る。重要な人物なのに、空想の世界の人物を語っているようなリアリティのなさは何だろう。彼のルーツは、過去の作品の中にいるような気もするが、よくわからない。このあたりの解釈は、加藤典洋の「村上春樹イエローページ4」を待ちたいところ。

これまでと一番違うのは読後感だ思う。

これ以上中身を紹介しても意味がないので、感想を書くことにする。本書は読みなれたハルキワールドのように見えるが、ところどころ微妙に違ってきている。一番違っているのは、読後感だ。物語は、一応、ハッピーエンドっぽく終わる。しかし、なぜか未達感のようなものが後に残る。1000ページを越える長編なのに、何のストレスもなくいっきに読めてしまう。本書はサクサク読めるが、謎は増える一方だ。読み終えた後、「あれっ」と思うような「疑問」がいくつも湧いてくる。まりえの失踪と主人公のパラレルワールド(メタファーの国)の冒険は、もちろん関係あるのだが、何がどうつながっているのか、まったく見えない。免色渉とはいったい何者なのか?スバルフォレスターの男は?物語は終わったはずなのに、「顔のない男」は、なぜ主人公に肖像画を書かせようとするのか?などなど。加藤典洋の著作「村上春樹はむずかしい」ではないが、「村上春樹は、読むのは易しいが、理解するのは難しい」と言ってみたくなる。

ハルキワールドへ、おかえりなさい。

やはり著者は「喪失と冒険と再生の物語」に帰ろうとしているのだと思う。そして彼のストーリーテリングは、さらに冴え渡り、スムーズになって、ますますサクサク感が高まっていく。「なんか、物語のつながりに破綻が!」と思っても、「そんなこと、僕にはわかりません。物語に聞いてください。」という答えが帰ってきそう。

 

姫路城マラソン完走記(京都マラソン棄権)

 

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よりによって、こんな時に!初の京都マラソン一週間前、インフルエンザ発症!

大阪は5度、神戸は3度当選していたが、同時期に始まった京都は一度も当選したことがなかった。6回目となる2017年に初当選。初めての京都ということもあり、いつもは応援に来ない家人も、友人のH君を誘って応援に来てくれることになった。ゴール後、夕食を食べに行くお店も予約。そのまま三条のホテルに泊まり、翌月曜は仕事を休んで京都観光の予定も立てていた。その一週間前、こともあろうに夫婦揃ってインフルエンザの診断!その前の週の後半、咳がひどかった家人は、金曜日の夜には寒気を感じるようになった。土曜日に耳鼻科に行ったが、建国記念日で休診。しかたなく月曜日に病院に行くことになった。僕の方は、土日に10kmずつ走り、一週間後の本番に備えた。ところが、月曜になって仕事に行く途中、関節に軽い痛みを感じた。昼頃になると、寒気もしてきて早退する。家人のほうも午前中で早退していた。夫婦揃ってかかりつけの耳鼻科へ。なんと二人ともインフルエンザと診断。よりによって、こんなタイミングで。あんまりではないか!2014年の東京マラソンも、直前に正体不明の高熱と浮腫みに襲われ、泣く泣く棄権したことを思い出した。翌2015年も、ほぼ同じ時期に同じような症状が出て、篠山マラソンが危なかった。医者は花粉症を疑った。昨年は、2月初めから花粉症の薬を飲んでいたので、症状は出なかった。今年も2月初めから花粉症の薬を飲んで、マラソンに備えていたのだ。仕事は当然二人とも一週間休みになった。僕の方はフリーランスの身なので、休むのは難しくない。症状は夫婦とも軽めで、病状が回復したら走れるかもと一瞬思ったが、マラソンのように人が大勢いる場所にインフルエンザの患者が紛れこんでウィルスを撒き散らすわけにはいかない、と断念。お店もホテルもキャンセルした。幸いというべきか、二人ともインフルエンザの予防接種をしていたせいか、症状は軽く、火曜の夜には熱も下がった。関節の痛みが木曜までは残っていたが、金曜日にはほぼ回復した。

そうだ、姫路城マラソンにエントリーしてたんだ。

京都マラソンを断念した直後から「姫路城マラソン」のことが頭をよぎるようになっていた。東京マラソン京都マラソン、姫路城マラソンは、ほぼ同時期に開催され、抽選も同じ頃に行われる。昨年9月、まず姫路城マラソンの当選、東京の落選が決まった。京都の抽選発表はまだだったが、どうせ駄目だろうと思い、姫路城マラソンの入金も済ませてしまった。ところが2週間後、京都マラソンも当選になり、お金がもったいないと迷ったが、初当選の京都のほうを走ることにした。インフルエンザで京都を断念してから、姫路城マラソンを走りたいと思う気持ちが強くなってきた。家人に相談すると「駄目駄目!インフルがぶり返したらどうするの」と反対していたが、インフルの症状が思ったより軽く、回復も早かったせいもあって「勝手に走れば〜。ぶり返しても知らないよ、応援行かないからね」と冷たいながらOKの空気になってきた。姫路を走るとなると練習も再開しないといけない。日曜まで我慢して、10kmほど走ってみる。膝の関節に違和感を感じるものの、走れそうな感触があり、姫路を走ることに決める。4日前の水曜日にも10kmを走って、当日に臨む。

前日入り、ホテル泊。

当日は7時から荷物預かり。8時15分〜45分にランナー集合。スタートは9時。逆算すると7時半には会場に着きたい。姫路駅から会場まで徒歩15分なので、7時15分頃には姫路駅に着きたいところ。乗り換え案内で検索すると、あてはまる電車がなく、前日入りになってしまう。一番早いので7時30分だ。何度も乗り換えて山陽電鉄を利用して7時17分到着というルートがあった。最寄駅の宝塚南口出発は5時5分となる。「午前4時起きかあ」と悩んでいると、家人から「前日から行って、姫路に泊まったら。ビジネスホテルだったら出してあげてもいいよ」という助け船。さっそくネットで調べてみるが、さすがに姫路市内はどこも満室。エリアを広げると加古川駅前のビジネスホテルに空室があったので予約。前日、午前中、会計士さんが来て確定申告の相談、午後一番で買い物を済ませ、3時頃、家を出る。乗り継ぎが悪く、姫路に着いたのは4時45分頃。駅を出ると正面に姫路城が見える。駅とお城をまっすぐな大手前通りが結ぶ、このたたずまいは悪くない。ここが県庁所在地でもおかしくない。駅から15分ほど歩いて受付会場のイーグレひめじに向かう。受付を済ませ、マラソンまつりをさっと見て、長い本町通り商店街を抜けて姫路駅に戻る。駅の構内のパスタ屋さんでパスタを食べ、普通電車で15分ほどの加古川に向かう。駅から徒歩3分のビジネスホテル。部屋に入ってシャワーを浴び、ゼッケンをつけるなど、装備をチェックする。あとはベッドに入って本を読む。午後9時半ごろ就寝。寝つきのよい自分には珍しく、夜中に何度か目が覚めた。

当日。

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午前5時起床。6時朝食。6時20分チェックアウト。6時40分の普通電車に乗る。姫路駅6時58分着。改札を出ると高校生(中学生?)のブラスバンドが迎えてくれる。これはよいアイデアで気分が盛り上がる。気温は3度とけっこう寒い。大手前通りを進むと途中で昨日帰りに通った本町通り商店街に誘導される。まだ開いている店はほとんど無く、薄暗い中をランナーたちが進んでいく。昨日の受付会場の北側に大手前公園があり、その地下の駐車場が男子の更衣スペースと手荷物預かりスペースになっている。これはよいアイデアで、大スペースを確保できて、しかも大勢のランナーが入ると少し暖かいのもいい。ウエアに着替えて手荷物を預けると7時45分。地上に出て、お城のほうへ軽く走る。戻ってくると8時15分。ランナー集合の時間だ。

装備。

トップはCWXの厚めのジッパー付シャツに、姫路城マラソンの参加賞のTシャツを重ね着。ボトムはミズノのサポート機能なしの防寒タイツに膝丈のナイキ・エアフィット・パンツ。シューズは昨年の大阪マラソン、宝塚ハーフを走ったアディダスのジャパンブースト。帽子ではなくバイザーを被る。時計はGARMIN。前後に振り分けたウエストバッグには、ジェルのサプリを3本、塩飴3個、エアサロンパス(試供品のミニ)、ティッシュ2パック、iPhone6、予備のバッテリーパック。けっこう重装備になった。スタートまでは、防寒のためのビニールポンチョを羽織る。

 

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スタート。北へ。逆走ランナーと衝突。

8時45分、セレモニーが始まる。スタート地点のステージの上は見えないが、聞きなれた声。「世界遺産姫路城マラソン 応援軍師 黒田カンペイこと間寛平です!」という自己紹介から始まったセレモニーは短めで好感が持てた。いよいよスタートだ。インフルエンザ明けのフル挑戦が始まった。号砲からさほどのタイムラグもなく、動き出した。100mも行かないうちにランニングに変わる。姫路城を背に、大手前通りをまっすぐ南下。駅の手前で右折して西へ向かう。すぐに右折して北に向かい、左折して北西に向かう。3km地点でポンチョを脱ぐ。暑いマラソンになりそうだ。突然、前方からランナーが逆走してきて、激しくぶつかった。肩と脚がからまってあやうく転びそうになる。手袋か何かを落として、拾うため引き返したらしいが、他のランナーにもぶつかったらしく、後ろのほうから悲鳴が上がる。これは明らかにマナー違反。何かを落としたことに気付いたら、コースの端に寄って(できればコースを出て)、ランナーの迷惑にならないように後戻りする。落とした場所の少し手前からコースに戻り、流れに乗りながら、落し物に近づいて拾いあげる。というのが正しいやりかただろう。

15kmまでは登り。夢前川の上流へ。

行く手には播州地方特有の低い山が見える。道はゆるやかに北に曲がり、前方に書写山が見えてくる。7km付近で夢前川の左岸沿いに出る。山陽自動車道を越え、書写山に登るロープウエイを左手に見上げながら北上。ここまでは抜かれる一方で、ペースもキロ6分30〜40秒前後にとどまっている。いつもなら最初の10kmぐらいまでは周囲の速さに引っ張られてキロ6分前後のペースになるのだが、インフルエンザの影響か、ペースが上がらない。コース図によると前半の15kmまでは70mほどの落差の、気付かないほどの登りである。知らず知らずのうちにペースが落ちるので、キロ6分30秒を維持することに努める。あとから考えると、前半の、この頑張りが25km過ぎの失速につながったのだと思う。9km付近で橋を渡って右岸を行く。なだらかな山並みを縫うように流れてゆく早春の夢前川が美しい。しばらく行くと、道の左側に菜の花畑が広がる。

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15km付近で登りが終わり、ペースアップ。

夢前川は清流で、上流にはカジカが生息していると聞いたことがある。しかしマラソンのコースとしては単調で、同じような風景が続き、僕たち亀ランナーには辛いコースでもある。集落にさしかかると、村中の人が集まってきたような人数の応援で迎えられる。学校のそばにさしかかると、たいていブランスバンドや太鼓の応援があり、元気をもらえる。案山子の応援が2箇所あった。10kmを越えたあたりだろうか対岸の道を、折り返してきたランナーがやってきた。地元のFM局が、ランナーへの応援メッセージを大音量で流している。相変わらずペースが上がらない。15kmあたりでようやく登りが終わる。16km過ぎでやっと折り返して、少しペースが上がった。キロ6分10〜20秒台をキープできるようになった。折り返した後、20km付近の給水所で、ジェルのサプリを補給。川沿いの風景は相変わらず単調。集落での応援で、ちょっと元気をもらう。

姫路は美人が多い?!

気のせいか、沿道で応援してくれる女性に美人が多いと感じた。中高生から、主婦まで、はっとするような美人を何人も見かけた。これまでたくさんのマラソンを走ってきたが、こんな風に感じたのは初めて。コースが単調なせいで、そんなところに目が行くのかもしれないが…。姫路に多いのか?夢前川流域に多いのか、どっちだろう。

竹炭そば、たまねぎスープ、蒲鉾、ぜんざい…。

20kmを越えたあたりから、膝に違和感を覚えるようになった。インフルエンザで熱が下がったあとも膝の関節の痛みはしつこく残っていたから、その影響なのかもしれない。気分転換のために給食コーナーでしっかり食べることにする。竹炭を練り込んだそば、たまねぎスープ、蒲鉾、ぜんざいなどをいただく。しっかりストレッチもして、後半に臨む。この頃になると、周囲のペースが一定になり、同じ顔ぶれで走るようになってくる。25kmぐらいまではなんとか快調に走れたが、ペースが落ちてきた。この先が思いやられる。腰を高く保って、骨盤を立て、腕をしっかり振って、リズムを守る。

下流へ。30kmの壁。

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ようやく山陽自動車道が見えてきて、姫路市街が近づいてきた。しかし往路を戻るのではなく、27km付近で河を渡り、右岸をさらに下流へ向かう。ここからが長かった。道は土手上の散歩道のような狭い道になる。道沿いには桜が延々と植わっていて、お花見によさそう。しかし単調なのは変わらず。その上、対岸の土手道は折り返してきたランナーの列が延々と続いている。土手道なので、小さなアップダウンがあり、けっこうきつい。30kmを越えたあたりで、ついに足が止まった。これがマラソン名物「30kmの壁」。練習不足のツケはきっちりやってくる。こうなるともう我慢しかない。膝の違和感はすでに鈍い痛みに変わっている。立ち止まって、2本目のジェルサプリを補給し、ストレッチを念入りに行って、12kmの苦行に出発する。走り方も変える。腕振りを強くしてリズムを保ち、動かない脚を無理やり動かす。いつまで経っても対岸にわたる橋が見えてこない。33km手前でようやく橋を渡り、上流へ向かう。ここからの左岸の土手道も長く辛かった。歩幅が小さくなり、ペースはキロ7分台に落ち、気を抜くと8分台まで落ちてしまう。35km手前の冷却スプレーポイントで、ふくらはぎ、膝、太ももの後ろを冷却し、さらに水をかけて冷やす。土手道のすぐそばまで住宅地が迫り、庭や自宅の窓越しに応援してくれる。この付近でも、チョコやアメ載せたトレーを差し出して「どうぞ」と声をかけてくれる人がたくさんいるが、いただく余裕はなくなり、「ありがとう」と手を振りながら通りすぎる。

ゴール。動物園。

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38km手前で、ようやく、本当にようやく夢前川を離れ、姫路市街に向かう。最後の3kmほどは、気が遠くなるほど長くて辛い。前を走っている滋賀から着た女性に、先にゴールした男性が沿道を走りながら励ましている。女性は脚を痛めているらしく、走り方が痛々しい。「無理に走らなくてもいいよ。歩いても腕さえ振ってれば、スピードはそんなに変わらないから。」女性は、男性のほうを見ず、走り続ける。市街地に入っても、姫路城が見えてこない。見えてきたのは残り1kmを切ってからだ。外堀を渡り、内堀を渡り、ようやくゴール。ゴール直前、20km過ぎから前後を走っていたカップルを抜く。スポーツドリンクと完走メダルを受け取り、フィニッシャータオルをかけてもらい、ICタグを外され、ランナー順路という案内に従って進むと、なんと動物園の中。あちこちの動物の檻の前のベンチで休んでいるランナーがいるのが不思議。動物園を出て、大手前公園に戻り完走証を受け取って、地下の手荷物預け&更衣スペースに向かう。地下に向かうスロープを、痛む膝でゆっくり降りる。このぶんでは今夜は筋肉痛で眠れないかもしれない。40分ほどかけて着替えて、JR姫路駅に向かう。新快速で三宮まで行き、阪急に乗り換える。宝塚南口に着いたのが5時前。風呂に入って、洗濯を済ませ、録画してあった東京マラソンブラタモリを見ながら夕食。11時に就寝。膝の筋肉痛で夜中に何度も目が覚めた。走った後、こんな風になるのは最初のフルマラソン以来だ。練習不足、インフルエンザ、コース前半のゆるい登りによる消耗など、複合的な原因によるものかもしれない。

5時間8分35秒

ネットタイムは5時間7分46秒。記録は見るべきもの無し。ここ3年はサブ5すら達成できていない。もちろん練習不足が一番の原因だが、最近は練習していても「僕は、マラソンに向いてないのかも」と思ってしまったりする。

姫路城マラソンについて。

今年で3回目となる大会だが、運営や演出、ボランティア、ランナーのサポートなどは申し分なかったと思う。市民、学校などが一体となった応援も気持ちよかった。また走りたい。課題は、やっぱりコースだと思う。姫路城マラソンといいながら、コースの大半は夢前川沿いで、自然豊かな景観の中を走れるのは、いいと思うが、そればかりでは退屈してしまう。僕らのような亀ランナーにとって退屈は疲労につながり、辛いマラソンになってしまう。交通規制の問題でこうなったのだと思うが、これでは姫路の魅力を伝えるマラソンにはならない。コースを、もっと南の臨海部や、東西方向に広げれば、変化に富んだマラソンにできると思うが。

 

 

鳥居「キリンの子 鳥居歌集」

詩歌の本はほとんど読まないが、知人から本書を教えられて、即購入。著者のプロフィールが凄まじい。2歳の時に両親が離婚。目の前で母が自殺。児童養護施設に入るが虐待を受ける。小学校中退、ホームレスにもなった。拾った新聞で文字を覚え、短歌を作りはじめる。作品が入選し、歌集を出した今も、セーラー服を着て、母の形見である赤い傘をさしている…。こんな生い立ちの著者がどんな言葉を紡ぎだすのか?

鮮烈な言葉、凄惨なイメージ。

言葉が意味ではなく、ほとんど生理的ともいえる痛みとなって刺さってくる。母の自殺や目の前で電車に飛び込んだ友人、虐待の歌などは、読んでいて息苦しくなってくる。特に、友人が目の前で踏切に飛び込んで自殺した時の体験を歌った連作「紺の制服」は、歌人の目に焼きついた光景が、コマ落としの映像のように連続して動いていくのを読者は体験させられる。連作を読み終えて、思わず息を吐き出した。短歌でこんな体験をしたのは初めてだ。

歌われることで、救われていく。

救いは、少女が歌人になったことだろうか。泥にまみれ、地を這うような日々が、歌われることで詩に昇華され、救済されていく。描かれた体験は凄惨そのものだが、歌になった世界は、不思議と静謐で、読み手を癒してくれる。

なぜか懐かしさを感じる。

歌集を読み終えて、デジャ・ブというか、懐かしさのようなものを感じた。僕らがまだ十代だった頃、生きづらかったり、疎外感を感じたりしたことが、本書の中で極北の姿で歌われているのかもしれない。十代の終りに読んだ「天の鐘」という神経症の少女が書いた詩集を思い出した。地を這うような日々を生きる者は、大空や天に憧れる。著者も、歌の中で自らを天駆ける「キリンの子」であると歌いあげる。歌人は、今も複雑性PTSDに悩まされているという。

 

阿古真理「なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか パンと日本人の150年」NHK出版新書

このところ仕事の資料で洋菓子とパンの本ばかり読んでいるが、その中で出会った出色の一冊。昨今のパンブームを取り上げたグルメ本の類だと思って読み始めたが、本書に描かれているのは、パンの歴史だけではない。パンを含む食文化はもちろんのこと、生活、産業、宗教、戦争までも視野におさめた日本の近代史そのものである。その視野の広さと造詣の深さにグイグイ引き込まれ、一気に読み終えた。250ページほどの新書だが、読後の印象は、ぶ厚いノンフィクションを読んだような充実感がある。

何度目かのパンブーム。

現在は、何度目かのパンブームであるそうだ。各地で本格的なフランスパン(硬いパン)を売る店が生まれ、パンのイベントも開かれるようになっているという。さらに日本に暮らす外国人にとっても日本のパンは美味しいと評判だという。なぜ日本のパンは、こんなに美味しくなったのか?本書は、わが国におけるパンの歴史150年を丹念にたどることでその理由を見つけようとする。しかしパンが日本に入ってきて今日のように普及するまでの道筋はひとつではなく、驚くほど多くの国や人々が関わって、同時多発的に進行してきた物語の集合体である。本書を要約しようと試みたが結構むずかしい。時系列に沿って書かれていないからだ。日本におけるパンの歴史は、同時多発的であると同時に社会や暮らしの様々なレベルで進んできたと言える。本書を読んで興味深かった点をあげると…。

パンと戦争。

日本人がパンと最初に出会ったのは戦国時代らしいが、本格的なパンづくりがはじまるのは幕末である。パンはまず兵糧として注目され、長州、薩摩、水戸、幕府がパンの研究を始めた。戊辰戦争では函館の五稜郭攻略の際に兵糧パンが準備され、西南の役では軍用パンが用意されたという。パンはコメに比べ携行性に優れ、調理の必要もなくどこでも食べることができ、消化もよく、しかも大量に製造することができた。日清・日露の戦争では、大量の脚気患者が発生し、その予防や治療にパンが効果があるとされたこともパンの普及を促したという。その後も戦争は、様々な形でパンの普及に関わっていく。第一次世界大戦では日本はドイツと戦い、多くのドイツ兵が捕虜として連行され、各地に収容所ができた。その中にパン焼き職人がいて、彼らが日本のパン製造者にアドバイスをしたことで本格的なドイツパンの製造がはじまったという。捕虜の一人であったハインリッヒ・フロインドリーブは、戦後、敷島製粉(後の敷島製パン:現在のPASCO)の技師長として迎えられ、本格的なパン製造に貢献する。さらに同社を辞めた後、神戸で現在につながるパン屋の「フロインドリーブ」を立ち上げる。洋菓子の「ユーハイム」も、ドイツ人捕虜だったカール・ユーハイムが横浜で創業し、関東大震災を逃れて神戸に移転したのが始まりである。またロシア革命を逃れた亡命者が始めたのが、「モロゾフ」、「ゴンチャロフ」という、現在につながる菓子メーカーである。神戸にパンや洋菓子が早くから根付いたのは、戦争の捕虜や、ロシア革命を逃れた亡命者の活躍によるというのが面白い。戦争をはじめとする大きな出来事は、人々の生活に大きな影響を及ぼしてきた。関東大震災米騒動もパンの歴史に大きな影響を残している。

あんパンとカレーパン。

著者は、日本におけるパンの普及と発展にあんパンが果たした役割は大きいという。明治2年、武家の次男であった木村安兵衛は、現在の新橋あたりで文英堂という名のパン屋を開く。パン焼の職人には、長崎出島の異人館でコックとして雇われていたという梅吉を採用した。しかし店は大火に巻き込まれ、翌年、京橋区尾張町(現在の銀座)で木村屋として再出発する。当時、パンの製造は横浜が中心であった。横浜には日本最初のビール工場があり、パン作りに不可欠な酵母を入手しやすかったからである。横浜から離れた都内では酵母の入手が難しく、木村屋は、日本酒の麹を使用することにした。しかし日本酒の酒だねはビール酵母のホップスだねに比べてあまりふくらまないので硬くなってしまい、全然売れなかった。そこで木村親子は日本人に向いたパンができないかと苦心の末に生み出したのが、まんじゅうのようにあんこを包んで作る方法だった。6年の歳月を費やして生まれたあんパンは、まさに日本人が好むパンだった。あんパンの存在があったから日本人はパンを受け入れ、そして後に、様々な具を包むバラエティ豊かなパンへと発想を広げる土壌ができたのではないかと著者は考察する。ジャムパンやクリームパン、メロンパンの誕生をめぐるエピソードも興味深い。あんパンが広がる最初のきっかけとなったのは明治天皇が食べられたことだというエピソードも面白い。あんパンに代表される菓子パンとカレーパンに代表される調理パン(惣菜パン)は日本で生まれた独自のパンである。それらのパンはなぜ日本で生まれたのか?

日本人が好きな柔らかいパンのルーツは、中国からの「粉もの文化」?

日本人のパンの好みは2つに分かれる。コッペパンのような柔らかいパンとフランスパンに代表される硬いパン。圧倒的に多いのは柔らかいパンである。なぜ日本人は柔らかいパンを好むのか。米を主食とする和食文化のせいではないかと言われているらしいが、著者はさらに中国発祥の粉もの文化の影響ではないかと考察する。明治以降に入ってきた肉まん、ラーメン、餃子などに共通するのは、柔らかい食感と具を一緒に食べる点である。中国では、具を包んで蒸す料理「包子:パオズ」の長い歴史がある。そして平安時代に宋から伝わった饅頭も、柔らかい生地で餡を包む菓子であった。和食の基本形は一汁三菜といわれるが、庶民の間では、長い間、うどん、すいとんなど、小麦粉を用いた粉ものと野菜などを一緒に煮込む一品料理が主食であった。明治以降に生まれたカレーライスやカツ丼など、ご飯とおかずを一体化した一品料理も、その延長線上にある日本独自の食スタイルであるという。あんパンやカレーパンなど、日本独自のパンの進化も、この潮流の中で生まれてきたものだ。

神戸とパン。

ドイツ人捕虜であったフロインドリーブがパンの普及に大きな役割を果たした神戸は、その後もパンの歴史の重要な舞台となる。パリの国立製粉学校の教授であったレイモンド・カルヴェルは、退官後、世界各国を回ってパンづくりを指導した。日本でも1954年に、70日間、全国17カ所で業界向けに講習会を開いた。この時、最も注目されたのがカルヴェルが披露したバゲットだった。「皮はパリッと硬いのに、中はしっとりとやわらか。身にはぼこぼこと不規則な穴が開き、えもいわれぬパンのよい香りがしていた」本物のフランスパンに出合った人々が誇張ではなく感涙にむせんだという。その中に、当時33歳、ドンクの藤井幸男がいた。講習会の後、藤井はカルヴェルを神戸の自分の店に招き、パンづくりの指導を仰ぐ。その10年後、カルヴェルは再度来日し、講習会を終えた後、ドンクに立ち寄る。カルヴェルは、その足でフランス大使館に立ち寄り、翌年に日本で開かれる見本市にフランスパンのブースを設けるよう掛け合う。藤井幸男は、見本市で使用する機械をドンクで引き取り、来日するパン職人とも契約を結びたいとカルヴェルに申し出る。日本に行く職人として選ばれたのが、22歳のフィリップ・ビゴだった。1965年4月東京・晴海で開かれた国際見本市でフランスパンづくりのデモンストレーションはテレビ中継までされ、大盛況となった。見本市の後、約束通りビゴはドンクに招かれる。6月には神戸に蒸気の出るオーブンを入れたフランスパン工場も完成する。当初は「こんな硬いパン、食べられませんわ」などと言われながらも、神戸の人たちに受け入れられていく。翌年、爆発的なブームを作った青山店がオープン。ビゴは、神戸、青山を立ち上げた後も、全国にチェーン展開する20カ所以上を回る生活が続いていた。そして1972年、ドンク芦屋店を「ビゴの店」として独立オープン。一躍、人気店となる。ビゴの店では、後に活躍する多くの職人が育ったという。

 広島とパン。

広島も、パンの歴史において重要な役割を果たしてきた。広島県は山地が多く平野が少ないため、戦前はアメリカなどへ多くの移民を出したという。移民たちは現地に定住せず、お金が貯まれば生まれ故郷に帰ってきたという。アメリカで身につけた技術を持ち帰る者も多く、その中にパン屋もあった。また日清戦争で軍の大本営が置かれ、その後も軍の重要な拠点だったせいでで、兵糧パンが大量に作られたことが製パン技術の向上に役立ったという。陸軍の情報将校だった高木俊介と妻の彬子は戦後間もなく広島市でパン屋「タカキのパン」を開く。彼が売り出したイギリス式の山形食パンが評判となり、県内で委託販売の店舗を20店舗近くまで拡大、1951年には株式会社化した。「タカキベーカリー」の名の卸売は現在の「アンデルセングループ」の柱となる。高木は、当時珍しかったサンドイッチのイートインスペースを設けた直営店「パンホール」を開き、食事用パンの普及に努める。また客がトレイを持ってパンを選ぶセルフ方式も高木が生み出した。また工場で大量に製造し冷凍したパンを店舗に配送して焼くベーカリーチェーンを日本で最初に始めたのもアンデルセンであった。

パンとキリスト教

著者によると世界でパンが普及している地域はキリスト教が勢力を広げている地域と一致しているという。キリスト教徒にとってパンは単なる食品ではない。新約聖書の「マタイ福音書」の中だけでもパンのエピソードが7回出てくる。また最後の晩餐のエピソードで、キリストが、出されたパンを祝福して割き、「これは私のからだである」と言い、ワインを「多くの人のために流すわたしの契約の血である」という。そして弟子たちとの食事中に捕らえられ、処刑される。

現在のイラクアフガニスタンクウェート、シリア、イスラエルパレスチナなどを含む「黄金の三日月地帯」で、紀元前4000年頃にパンの歴史は始まったという。その後エジプトに広がり、さらに勢力を伸ばしてきたギリシアに伝わる。その後、繁栄を極めた古代ローマでも、パンは主食になった。紀元前30年頃には帝国内に329カ所の良質な製パン所があり、すべてギリシア人が経営していた。ローマにはパンの職人学校があり、特許の組合組織も定められていたという。パンづくりは西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人などにも伝わり、ヨーロッパ全体がパン食文化圏になっていく。312年、教徒の拡大によって東ローマ帝国キリスト教を公認すると、製パン技術は、パンとワインを神聖なものとする価値観とともにヨーロッパに広がっていった。中世初期には修道院が風車を備え、粉挽きとパンづくりも担っていた。

日本におけるパンの普及にもキリスト教は関わっている。明治期、宣教師が学校を次々に作ったが、それらキリスト教系の私立校でも給食はパンだったという。京都の老舗パン屋である「進々堂」も、学生時代、内村鑑三に師事した続木斉と同志社女学校を卒業したハナ子が始めた。東京、文京区の「関口パン」も小石川関口教会が、経営する孤児院の子供たちに手に職をつけさせようと発足させた「製パン部」が始まりであるという。

給食のコッペパンはアメリカの陰謀?

日本人が柔らかいパンを好む背景に、戦後の給食のコッペパンが影響しているという説がある。その背景にアメリカの政策があったとするのが、2003年発売された鈴木猛夫著『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』である。同書によると、戦後の日本人の食生活が肉や油脂、乳製品やパンを摂る方向へと大きく舵を切ったきっかけは、アメリカが余剰小麦を日本に援助し、小麦輸入の道を拡大させたことだ。厚生省、農林省、文部省などが協力してそれぞれの外郭団体がアメリカから資金を受け、小麦の市場開拓のために取り組んだ。学校給食も、戦後占領期のアメリカの食料援助に始まり、独立後も、パンの学校給食を維持する条件で4年間小麦を援助する約束をし、パンが給食の主食となった。著者は、同書以外の書籍や資料を読んで、検証を試みる。第二次世界大戦で戦場とならなかったアメリカは大量の余剰小麦をを抱えこんでいた。戦後すぐはヨーロッパへの食料援助を行っていたが、ヨーロッパが復興すると自国の農業を守るために援助中止を望むようになった。そこでアメリカはアジア地域に目を向ける。アメリカが日本に対して行った援助は「米国が日本に小麦食を売り込むと同時に、反共産主義の砦として日本に再軍備させるための資金の一部を、小麦の日本国内での売却益でまかなおうという米国の思惑を反映したものだった」という。アメリカの小麦戦略は確かにあった。しかし、その結果日本人の食生活のスタイルを変えたことについては別の問題として考えるべきだろうと著者はいう。

本格フランスパンブームが始まった。

2000年代初頭、神戸文化圏から東京へ来たばかりの著者は、おいしいパン屋さんを見つけるのに苦労したという。『おいしい食パンを売る店はあるが、大好きなフランスパンを置いている店があまりないのだ。たまにバタールを売っている店を見つけることはあるが、買ってみると皮が柔らかめで「ちょっと違う」と思ってしまう』その東京で、ここ数年異変が起きているという。『フランス語でパン屋を意味する「ブーランジェリー」を名乗る店があちこちにできている。置いてあるパンの種類は少なく、単価は高め。コッペパンサンドが見当たらないかわりに、カンパーニュのサンドイッチがある。バタールよりバゲットの存在感が強く、もちろん皮は硬い。都心にはフランスから日本に上陸した店もふえてきた。一方、住宅街の一角や商店街の空き店舗などに間口も奥行きも小さいパン屋ができてきた。オーナーは若い女性が多く、スコーンやジャムなども置いている。ハード系パンはあるが食パンがない場合がある。品揃えが少なく、パンの形が、どこか素朴。値段はやはり高め』経産省の商業統計によるとパンの製造小売の数は1997年の1万2千百店をピークに減少を続けていたが、2012年から2014年にかけて1459店増加している。そんな潮流を消費者が敏感に感じ取り、パンブームが始まった。ブーム到来を決定づけたのは「Hanako」2009年11月12日号で「東京パン案内」という特集が組まれたこと。2011年10月には世田谷区・三宿で地元の人気パン屋を集めたイベント「世田谷パン祭り」が始まったこと。2013年秋には、表参道の国連大学前で週末に開かれる「青山ファーマーズマーケット」の中で、年に何回か「青山パン祭り」が開かれるようになった。パン屋情報も増えている。雑誌やムック本、テレビの情報番組でパン特集が増えてきた。SNSを利用してインターネットで発信する人も増えてきた。

リーマンショックの後。

パンブームが始まったのは2008年のリーマンショックの後だという。「前段として2000年前後のデパ地下ブームに伴って発生したスイーツブームがあるという。平成不況のどん底で流行りはじめたスイーツは、ファッションにあまりお金をかけられなくなったが、トレンド消費への欲望を満たしたい人々の心理を反映していた」という。しかしデパ地下で売られるスイーツは、気軽なおやつとしては値段が高い。ブームが一巡して冷めたところへ、再び大きな景気の後退が起こった。それでも、単に空腹を満たすだけではない食への欲望は消えなかったという。そんな人たちが発見したのが、ちょっと高級だがスイーツよりも手軽に食べられる、話題の店のパンだった。スイーツブームの時と違うのは情報が格段に増えたことだ。地域に点在するパン屋の情報をインターネットやマスメディアを通じて発信するのはパンマニアたちだ。パンマニアが登場する背景には、1970年代以降、充実の一途をたどる外食店の存在があるという。外食慣れした世代が社会の中核を占めるようになってきた。そしてパンマニアを育てているのはクオリティを上げ続ける日本のパン屋である。高いパンもおいしければ売れるきっかけを作った「VIRON」、フランスから上陸してきた「PAUL」「メゾンカイザー」のケースを紹介する。

 

米とパン。主食が逆転

コメの消費量は、1962年をピークに減り続けている。2011年には、総務省家計調査による一世帯あたりのパンの購入金額がコメを上回ったという。日本人が、ご飯の替わりにパンを主食にするようになったと騒がれた。しかし、著者は、家庭におけるコメの用途がほぼご飯を炊くことに限定されるのに対し、パンはおやつ用も含まれるため、必ずしも主食としてご飯を食べる回数がパンより少なくなったことを意味していないだろうという。著者は、さらに、日本人の食生活そのものが大きく変化しているせいではないかという。私たちは「おかず食い」になって、ご飯をあまり食べなくなっている。人々はまずご飯のお替わりをやめ、やがてご飯自体を食卓に載せなくなっている。「まったくご飯を口にしなかった日が思い当たるだけで何日もあるという現役世代は少なくないだろう。(中略)朝はパンで昼は麺類で夜は居酒屋でつまみだけ、という日はないか。(中略)ご飯はすっかり添え物になっているのだ。ダイエットをしなくても、私たちはとっくにご飯なしの日常を送っている。」

本書の面白さは、もうひとつの自分史をたどれること。

食品のひとつに過ぎないパンの歴史をたどることが、こんなに面白い読書体験になるとは思わなかった。僕のコピーライティングの師匠であるM司政官が昔、こう言ってたことを思い出した。「何かひとつだけでいいから、小さなことでいいから、それについて隅から隅まで知っているモノを持ちなさい。その「小さな世界」と「世界」は通底しているから、「小さな世界」をよく観察しているだけで「世界」で何が起きているか、わかるのだ」本書は日本におけるパンの歴史だが、歴史の本を読むよりも、たくさんの気づきや発見がある。そして、パンを通して歴史を見る視点は、間違いなく庶民の視点なのだ。しかも最近の半世紀ほどは、自分史とも重なっている。給食のコッペパン、あんパンやカレーパンの思い出、そして神戸のドンク、フロインドリーブ、ビゴのパンも、その匂いや味が、それを食べた時代の記憶とともによみがえってくる。

 

 

大阪マラソン2016完走記

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とうとう「マラソンおやじ」になった。

16回目のフル挑戦になる今回の大阪マラソン。僕はとうとう「マラソンおやじ」になった。「マラソンおやじ」とは、僕が勝手につけた名前で、家族や友人の応援もなく、独りで黙々と走り続ける中高年マラソンランナーのこと。どこの市民マラソンでも見かける彼らのことを、僕は密かにこう呼ぶようになっていた。数年前、どこかの市民マラソンの帰りの電車の中で、こんな会話を耳にした。「奥さんとか来てはったん?」「まさか。女房が応援に来たのは最初の2〜3回。最初は、家族がマラソンに出るのは一大イベントやし、珍しかったんで、女房も家族も応援に来てくれた。そんなもん2〜3回で飽きるわ。『人も多いし、移動も大変やし、長いこと待って、見れるのは一瞬やし、つまらん』言うて来んようになったわ。」この会話を聞いて、僕は、近いうちに、自分もきっとこうなると思った。

けっこうなシリアスランナーだったりする。

彼ら「マラソンおやじ」の会話を聞いていると、ランナーとしてのレベルはけっこう高い。「サブ4」は当たり前。「サブ3.5」や「サブ3」を狙っている猛者もいる。さすがに頭のほうは後退していたり、頭頂部が薄かったりするが、体型はしっかり走り込んでいる証拠であるアスリート型で、その辺のお腹の出た中高年とは隔絶している。僕がいつも練習で走っている武庫川の河川敷コースでも「マラソンおやじ」をけっこう見かける。「太腿とふくらはぎにしっかり筋肉がついて足首がきゅっと締まっている」のが特長だ。 「マラソンおやじ」は、1キロ5分を切るペースで軽々と僕を置き去りにしていく。

2〜3年前から妻は応援に来なくなった。

上に書いたのとほとんど同じ理由で、妻がマラソンに来なくなった。最初は篠山マラソン。コースの大半が、田畑や里山のようなところを走るため、応援スポットが少なく、篠山の街自体も小さいので時間を潰す場所が少ないのだ。3月上旬開催で、山間の盆地は気候が寒いのも嫌がる理由のひとつだ。未明にクルマで出発し、到着まで1時間近くを要する遠さも辛かったらしい。大阪マラソン神戸マラソンも最初は応援に来てくれたが、2回目、3回目は会社の同僚とチームで走り、4回目は東京から参加した友人と走ったため、完走後の打ち上げ会などもあり、妻は来なかった。そして会社を退職してからは、一緒に走る仲間もなく、ずっと独りで練習を続けてきた。マラソンは、独りで練習し、独りで参加できるスポーツであるところが自分に合っていると思っている。しかし大会に参加するたびに、チームや仲間どうしで参加するランナーたちを見て、羨ましいと思うようになった。しかしどこかのランニングクラブに入るのも煩わしいという気持ちも強い。というわけで今回は、「誰も応援に来ない、淋しいマラソン」になった。

10月30日。前日受付とマラソンEXPO。

 朝食を済ませ、洗濯などをして、9時頃から走り始める。2kmほどごくゆっくり走った後、時間をかけてストレッチングを行う。その後は、ウィンドスプリントなどを交えながら身体を伸ばすような大きな走りで2km。最後の1kmは身体をほぐしながらゆっくりジョギング。家に帰ってシャワーを浴び、着替えて女房の買い物に付き合う。ショッピンセンターで昼食とショッピングを済ませ家に帰ってきたのが15時前。15時過ぎに自宅を出て南港のマラソンエキスポ会場をめざす。大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り換え、本町で中央線に、コスモスクエア駅ニュートラムに乗り換え、中ふ頭駅で降りる。受付はスマホに表示したQRコードを読みとるだけ。ゼッケンやTシャツなどを受け取り、エキスポ会場へ向かう。というより強制的にエキスポ会場を一巡するルートを歩かされる。初回からするとエキスポ会場のブースの数がずいぶん増えたように思う。ブースを一通り見て回り、グリコのブースで明日のレース中に補給するサプリメント3本500円を購入。出口近くでノンアルコールビールをもらって、旨いものコーナーを素通りして帰宅。家に帰ったのが18時30分。テレビを見ながら夕食。食後、お風呂に入った後、ようやく明日の準備を始める。就寝は10時半。

10月31日当日。

4時30分起床。パンとコーヒーの朝食を済ませ、ランニングウエアに着替え、その上にウォームジャケットを羽織り、ジョガーパンツを履いて、家を出る。気温は12度でけっこう寒い。6時10分宝塚発大阪行きの快速電車に乗る。一昨年とまったく一緒だ。参加ランナーを示すICチップをシューズに装着したランナーがちらほら見える。尼崎で東西線に乗り換える。駅ごとにランナーたちが乗り込んでくる。7時少し前に京橋駅到着。ホームのトイレが空いていたので、すばやく入る。改札を出て、OBPに向かう通路を進む。7時10分更衣ゾーン(芝生)に入って着替える。といってもウォームジャケットとジョガーパンツを脱ぐだけ。ウエストバッグなど装備を確認して、荷物をまとめ、荷物預りのトラックに向かう。装備を記しておこう。シューズは、大会の3週間前に買ったアディダスのAddizeroのJapan Boost。Addizeroは僕の足と相性がいいようで、ここ3年ほどは、このシューズで走っている。ボトムはCWXのメッシュ下着にNikeのグレーの膝丈パンツ。トップは前日にミズノのショップで購入した青白柄の透湿速乾Tシャツ。帽子は、ここ数年使っている黒のバイザー。アシックスのウエストポーチにはiPhone、ポケットティッシュ2個、グリコのジェルサプリ3本、塩飴5個、千円札3枚+小銭500円とバンドエイド2枚。左手にGARMINGPSウォッチと右手にiPhoneとの接続を切ったApple watch。(つないでいるとバッテリーが消耗して42.195km持たない)晴れてはいるが陽が陰ると寒いので、ビニールポンチョを被っていくことにする。7時45分に荷物を預け、スタート地点に向かう。途中で空いているトイレを見つけたので、「ラッキー!」と利用する。8時過ぎにスタート地点に集合。今年はHブロックなので、今までで一番後からのスタートになる。気温はあまり上がらず、半袖ランナーの腕に鳥肌が立っている。寒さに耐えながら、スタートを待つ。ポンチョを持ってきてよかった。5分前に、GARMINiPhone上のnike run clubを起動する。3分前にポンチョを脱いでポケットに収める。一旦走り出したら要らなくなると思うが、念のために持っていこう。いつものことながら今回も走りこみ不足で、後半が心配だ。

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スタート。

車椅子マラソンのスタートのあと、9時ジャストにスタート。号砲が鳴った。GARMINの記録をスタートさせる。Hブロックという位置のせいか、なかなか動き出さない。10分を過ぎて、ようやく、ゆっくり動き出した。スタートラインを通過したのは号砲から12分が経過してからだ。iPhoneapple watchの記録も開始する。かなり後ろのブロックだったが、どんどん抜かれていく。しかし気にしないことにする。今回の方針は「体力の温存」だ。長い距離の走り込みがほとんどできていないため、30km以降が心配だ。30kmを中間点のつもりで、極力ペースを一定に保って走ることにする。骨盤とリズムを意識して無心に走る。上町筋から本町通り、中央大通りを経て、森之宮で玉造筋を南下する。日陰に入ると冷んやりして肌寒い位だが、日なたに出ると汗ばむほど暑くなる。玉造筋は道路の左側が日陰になるので、左寄りを走る。鶴橋まで南下し、右に曲がって千日前通りを西へ。すぐに緩やかな登り坂になる。練習不足のせいか、今回はこの坂が長く感じた。坂を登りきり、下っていくと、5km。最初の給水ポイントが待っている。スポーツドリンクを飲み、水は摂らない。

御堂筋。銀杏の匂い。

なんばの交差点を右折し、御堂筋を北上する。曲がってすぐに折り返してきたランナーに出会う。速い。しかも先頭ではない。トップはなんばの交差点を越えて京セラドームのほうに向かっているのだろう。イチョウ並木から落ちた銀杏の匂いが漂っている。途切れなく応援の列が続く。普段はクルマが主役のメインストリートを走るのは気持ちがいい。淀屋橋の交差点で右折し、土佐堀通りを東へ向かう。天満橋の手前で10km。まだ足は大丈夫だ。道が狭くなり、ビルが続くので割と単調な区間。しばらく行くと、右手に大阪城が見えてくる。片町で最初の折り返し。北浜で中之島に渡り、図書館など、歴史的な建築を見ながら御堂筋に戻ってくる。御堂筋の西側を南下する。本町手前で15km通過。ここまでキロ6分30秒前後をキープ。応援してくれる知り合いもいないので道の真ん中を淡々と走る感じ。

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なんばから京セラドーム、通天閣

なんばの交差点を右折し、千日前通りを西へ。高速道路が頭上を走っていて、殺風景な眺めが続く。この辺りは以前の仕事場に近く、懐かしい。大正橋を渡って右折すると京セラドームが見える。手前にショッピングセンターが出来てドームの全貌が見えなくなったのは残念だ。しばらく北上して2つめの折り返し地点を折り返すと20km通過。まだ足は大丈夫だ。千日前通りに戻って、中間地点通過。ここで気を抜いてはいけない。30kmを中間地点のつもりで走ろう。なんばの交差点を右折して南下し、大国町を左折し、3つ目の折り返し地点に向かう。ここで5時間15分のペースメーカーに追いついた。ペースメーカーは観光案内もしてくれていて、通り過ぎる街並みの説明や見所を喋りながら走ってくれる。折り返し地点では、通天閣が見えるが、ほんの一瞬で、しかもビルの間にに見えるので、意識して横を向かないと見逃してしまう。初めてのランナーは、ペースメーカーから教えてもらわないと見ることができないだろう。ここから先はランドマークとなる建物もなくなり、景観は単調になり、疲れも出てくるので、ランナーにはつらいコースとなる。

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元気をくれる人。その1:仮装ランナー。

後ろのほうが歓声とそれに応える「ヒィー!」という叫び声が近づいてくる。ショッカーの仮装をした二人組は人気者で、応援に応える「ヒィー!」という叫びは爆笑を呼んでいる。彼らは僕よりも少しだけペースが速くて、追い抜いていくのだが、すぐに沿道の観客に捕まって、記念写真を撮ったりしていて、僕のほうが追い抜いてしまう。しばらくすると、また、あの叫び声が近づいてきて…。ということを何度も繰り返しているうちに10km近くをショッカー氏と一緒に走ってしまった。今回は、あまり過激な仮装ランナーに出会わなかったが、仮装は、他のランナーにとっても、疲れを紛らわせてくれる貴重な存在である。彼らのチャレンジ精神にはいつも感服する。

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元気をくれる人々。その2:ディープな応援者。

後半、苦しくなってきた時、元気をもらうために沿道の応援に応えることにしている。大阪マラソンの魅力の一つが、後半、南に行くほどディープになる応援だ。ご近所のおばちゃんやおっちゃんたちがキツめの言葉で励ましてくれるのには、かなり元気づけられる。今年は気のせいか、そんな「ナニワの応援」が少なくなったような気がする。

元気をくれる人々。その3:美形ランナー(後ろ姿)。

スタートして、しばらくすると、自分と周囲のペースが一致してきて、同じペースのランナーと並走するようになる。いつものように、その中で自分と同じリズムで走るランナーを見つけて勝手にペースメーカーになってもらう。僕の場合、「勝手にペースメーカー」は、なぜか女性、それも美形ランナーでないとダメなのである。(美形といっても、後ろ姿のみ)どんな理由からかわからないが、男性だと、すぐ見失ったり、離れたりしてしまう。スタイルやランニングフォームの美しい女性や、長い髪をなびかせて走っている女性ランナーの後を走ると、スムーズにペースを保てるのだ。同じような話を他のランナーのブログでも読んだことがある。きっと、ランニングのような運動をしていると、身体の本能的な能力が高まって、異性に対する感度が鋭くなり、それによって運動機能も少し向上するのではないか、という勝手な理屈。

中国人ランナーに囲まれる。

四ツ橋筋を南下しはじめてしばらくすると、後ろから集団が追い抜いていった。彼らは互いに声を掛け合いながら、走っているようで、けっこう騒々しい。中国語のようだ。追い抜かれる一瞬、中国語に取り囲まれたような錯覚に陥った。いまや京都などの観光地で中国語に取り囲まれるのは珍しくないが、マラソンでは初めての体験だ。今回は、中国、韓国など、アジアの参加者が以前より多かったような気がする。日本人がホノルルやニューヨークマラソンに参加するように彼らもツアーで参加しているのだろうか?

30kmでも、まだ脚は動いている。

リズムに注意して、一定のペースを心がけたせいか、25kmを越えても、まだ脚は動いている。なんとか完走できそうな気がしてきた。30km過ぎの給食コーナーで、いなり寿司、どら焼きなどを食べて、一息つく。前回の時は32km付近でU君が仮装で応援してくれたことを思い出して姿を探すが見つからない。住之江公園で右に曲がり、南港へ向かう。ここも新交通が頭上を走る殺風景なコースだ。そして35kmを通過。さすがに脚が動かなくなってペースが上がらない。持参したエアサロンパスを使用し、給水コーナーの水をふくらはぎにかけて冷やす。そして南港大橋の登りは少し歩くことにした。坂の頂上から再び走りはじめる。南港に渡って、東の直線路に中学の同級生のA君がカメラマンとして撮影しているはずだ。歩いている姿を撮られるわけにはいかないので、走り続ける。東の直線の道路脇を注意しながら走るが、見当たらない。カメラで隠れて顔が見えないのと、帽子を被っているカメラマンが多く、ランナー側が発見するのは難しい。このまま淋しい「ぼっちマラソン」で終わるのか、と諦めかける。脚はもう動かず、1キロ7〜8分のペースでゴールをめざす。ゴール直前、観客の中から突然名前を呼ばれ、声のほうを見るとU君がいた。「さすがです!ナイスラン!」という叫び声が嬉しかった。ありがとうU君。ぼっちマラソンにならずに済んだ。彼に感謝しながらゴール。

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 走り終わって。

ゴール後、完走メダル、タオル、スポーツドリンク、あんパンを受け取って、荷物受け取りコーナーに行く。荷物を受け取った後、3階の更衣エリアへ。両膝の関節付近にだるさと痛みはあるが、歩くのに支障はない。身体を拭き、着替えて、出口へ向かう。待ち合わせている人もいないので、うまいものコーナーもパスして、さっさと中ふ頭の駅に向かう。いつもはニュートラムコスモスクエア駅まで乗って地下鉄中央線に乗り換えるが、今年は住之江公園まで乗って、地下鉄に乗り換えるルートで帰ることにする。少し時間はかかるが、混雑が少しはマシかもしれない。地下鉄の住之江公園から四つ橋線西梅田へ。このルートは、途中までマラソンコースの後半とほぼ同じところを逆にたどることになり、走った距離が実感できるのが面白い。大阪駅から福知山線新三田行きの快速に乗る。幸い座ることができた。家に帰りついたのが5時前。風呂に入って洗濯を済ませる。当日開かれた全日本女子大駅伝の録画を見ながら夕食。11時前にベッドに入った。

ネットタイム5時間4分40秒。グロスタイム5時間17分16秒。前回の大阪マラソン2014よりは良かったが、今回も見るべきところなし。夏に練習しなければならない秋のマラソンは本当に難しい。この後は、毎年出ている12月の宝塚ハーフと、初めて当選した2月の京都マラソン。ちゃんと練習しなければ。

 

新海誠「君の名は。」

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雲を描く人

新海誠の作品は「雲のむこう、約束の場所」から観るようになった。「雲の〜」は東京勤務時代、渋谷の小さな小さな劇場で観た。「雲」のディテールをここまで克明に描いたアニメに初めて出会った。実は僕自身が子どもの頃から「雲」を眺めるのが大好きだったのだ。1日中、雲の変化を眺めていても退屈しない子どもだった。もちろん、新海作品の魅力は「雲」だけではなく、自然描写全般なのだが、僕にとって彼は「雲を描く人」なのである。今回も「雲の描写」を堪能した。

セカイ系から遠く離れて。

2000年代はじめ、新海誠のアニメは「セカイ系」の作品として位置づけられていた。「セカイ系」とは、主人公とヒロインの閉じられた関係と「世界の終わり」や「最終戦争」という巨大な出来事が、社会という中間項なしに直結した作品群のことをいうらしい。エヴァンゲリオンにルーツを持ち、高橋しんの「最終兵器彼女」、新海誠の「ほしのこえ」などが、その代表とされていた。「戦闘美少女のヒロイン」と「無力な僕」の愛という、オタクの自意識をそのまま物語にしたような世界観に、恥ずかしながら一時期はまってしまった。「雲のむこう、約束の場所」では、まだ「セカイ系」を引きずっていたと思う。その後、「ほしを追うこども」で宮崎駿的なファンタジーに行き、「言の葉の庭」では、SFじゃない恋愛の物語になった。その段階で、僕は、もう新海作品を見ることはないだろうと思った。美しい自然描写の中で進行するありふれた恋愛物語に興味は持てなかった。

空から何かが降ってくる。

君の名は。」のポスターには「空から何かが降ってくる」のが描かれていた。宇宙船なのか?ミサイルなのか?新海のデビュー作である「ほしのこえ」や「雲の向こう、約束の場所」を思い出した。もう一度SFに帰ってくるのか?そんな期待をこめて作品を観た。「初代ゴジラ」が公開された1954年に映画「君の名は」3部作の完結編が公開された。それから62年後、庵野秀明新海誠という、いわば「セカイ系」の中心にいた監督二人の作品が同名のタイトルで公開される。初代ゴジラ公開の年に、僕もこの世に生まれ落ちていた。その不思議な因縁も感じて「君の名は。」を観ることにしたのだ。

ジブリとは違うファンタジー

少年と少女の「とりかえばや」という、一応「時空ファンタジー」ではある。そこにはもう「セカイ系」の匂いは全然ない。ちゃんとエンターティンメントに成長した、多くの観客を楽しませる作品。平日の夜にもかかわらずほぼ満席であることに驚いた。渋谷の100人も入れないような劇場で観た「雲のむこう、約束の場所」からすると隔世の感がある。あいかわらず風景の描写は素晴らしい。主人公たちの心象風景をそのまま映像にしたような描写はアニメでしか表現できない世界だ。六本木ヒルズをはじめ、東京の都心が、あんなに「懐かしく」描かれた映画はなかったと思う。「レトロフューチャー」という言葉を思い出した。でも僕にはちょっと物足りなかった。SFが、ファンタジーが足りない。宮崎駿も自然のディテールを克明に描くことがあるが、それは、観客をその先の空想の世界へ誘い込むための「仕掛け」なのだ。よく観察すると驚異に満ちた里山の自然の中には、不思議なトトロが隠れている。森の奥深く、今も残る原始の森には「シシ神」がいる…。新海誠も、そっちのほうへ行ってほしいと思った。