阿古真理「なぜ日本のフランスパンは世界一になったのか パンと日本人の150年」NHK出版新書

このところ仕事の資料で洋菓子とパンの本ばかり読んでいるが、その中で出会った出色の一冊。昨今のパンブームを取り上げたグルメ本の類だと思って読み始めたが、本書に描かれているのは、パンの歴史だけではない。パンを含む食文化はもちろんのこと、生活、産業、宗教、戦争までも視野におさめた日本の近代史そのものである。その視野の広さと造詣の深さにグイグイ引き込まれ、一気に読み終えた。250ページほどの新書だが、読後の印象は、ぶ厚いノンフィクションを読んだような充実感がある。

何度目かのパンブーム。

現在は、何度目かのパンブームであるそうだ。各地で本格的なフランスパン(硬いパン)を売る店が生まれ、パンのイベントも開かれるようになっているという。さらに日本に暮らす外国人にとっても日本のパンは美味しいと評判だという。なぜ日本のパンは、こんなに美味しくなったのか?本書は、わが国におけるパンの歴史150年を丹念にたどることでその理由を見つけようとする。しかしパンが日本に入ってきて今日のように普及するまでの道筋はひとつではなく、驚くほど多くの国や人々が関わって、同時多発的に進行してきた物語の集合体である。本書を要約しようと試みたが結構むずかしい。時系列に沿って書かれていないからだ。日本におけるパンの歴史は、同時多発的であると同時に社会や暮らしの様々なレベルで進んできたと言える。本書を読んで興味深かった点をあげると…。

パンと戦争。

日本人がパンと最初に出会ったのは戦国時代らしいが、本格的なパンづくりがはじまるのは幕末である。パンはまず兵糧として注目され、長州、薩摩、水戸、幕府がパンの研究を始めた。戊辰戦争では函館の五稜郭攻略の際に兵糧パンが準備され、西南の役では軍用パンが用意されたという。パンはコメに比べ携行性に優れ、調理の必要もなくどこでも食べることができ、消化もよく、しかも大量に製造することができた。日清・日露の戦争では、大量の脚気患者が発生し、その予防や治療にパンが効果があるとされたこともパンの普及を促したという。その後も戦争は、様々な形でパンの普及に関わっていく。第一次世界大戦では日本はドイツと戦い、多くのドイツ兵が捕虜として連行され、各地に収容所ができた。その中にパン焼き職人がいて、彼らが日本のパン製造者にアドバイスをしたことで本格的なドイツパンの製造がはじまったという。捕虜の一人であったハインリッヒ・フロインドリーブは、戦後、敷島製粉(後の敷島製パン:現在のPASCO)の技師長として迎えられ、本格的なパン製造に貢献する。さらに同社を辞めた後、神戸で現在につながるパン屋の「フロインドリーブ」を立ち上げる。洋菓子の「ユーハイム」も、ドイツ人捕虜だったカール・ユーハイムが横浜で創業し、関東大震災を逃れて神戸に移転したのが始まりである。またロシア革命を逃れた亡命者が始めたのが、「モロゾフ」、「ゴンチャロフ」という、現在につながる菓子メーカーである。神戸にパンや洋菓子が早くから根付いたのは、戦争の捕虜や、ロシア革命を逃れた亡命者の活躍によるというのが面白い。戦争をはじめとする大きな出来事は、人々の生活に大きな影響を及ぼしてきた。関東大震災米騒動もパンの歴史に大きな影響を残している。

あんパンとカレーパン。

著者は、日本におけるパンの普及と発展にあんパンが果たした役割は大きいという。明治2年、武家の次男であった木村安兵衛は、現在の新橋あたりで文英堂という名のパン屋を開く。パン焼の職人には、長崎出島の異人館でコックとして雇われていたという梅吉を採用した。しかし店は大火に巻き込まれ、翌年、京橋区尾張町(現在の銀座)で木村屋として再出発する。当時、パンの製造は横浜が中心であった。横浜には日本最初のビール工場があり、パン作りに不可欠な酵母を入手しやすかったからである。横浜から離れた都内では酵母の入手が難しく、木村屋は、日本酒の麹を使用することにした。しかし日本酒の酒だねはビール酵母のホップスだねに比べてあまりふくらまないので硬くなってしまい、全然売れなかった。そこで木村親子は日本人に向いたパンができないかと苦心の末に生み出したのが、まんじゅうのようにあんこを包んで作る方法だった。6年の歳月を費やして生まれたあんパンは、まさに日本人が好むパンだった。あんパンの存在があったから日本人はパンを受け入れ、そして後に、様々な具を包むバラエティ豊かなパンへと発想を広げる土壌ができたのではないかと著者は考察する。ジャムパンやクリームパン、メロンパンの誕生をめぐるエピソードも興味深い。あんパンが広がる最初のきっかけとなったのは明治天皇が食べられたことだというエピソードも面白い。あんパンに代表される菓子パンとカレーパンに代表される調理パン(惣菜パン)は日本で生まれた独自のパンである。それらのパンはなぜ日本で生まれたのか?

日本人が好きな柔らかいパンのルーツは、中国からの「粉もの文化」?

日本人のパンの好みは2つに分かれる。コッペパンのような柔らかいパンとフランスパンに代表される硬いパン。圧倒的に多いのは柔らかいパンである。なぜ日本人は柔らかいパンを好むのか。米を主食とする和食文化のせいではないかと言われているらしいが、著者はさらに中国発祥の粉もの文化の影響ではないかと考察する。明治以降に入ってきた肉まん、ラーメン、餃子などに共通するのは、柔らかい食感と具を一緒に食べる点である。中国では、具を包んで蒸す料理「包子:パオズ」の長い歴史がある。そして平安時代に宋から伝わった饅頭も、柔らかい生地で餡を包む菓子であった。和食の基本形は一汁三菜といわれるが、庶民の間では、長い間、うどん、すいとんなど、小麦粉を用いた粉ものと野菜などを一緒に煮込む一品料理が主食であった。明治以降に生まれたカレーライスやカツ丼など、ご飯とおかずを一体化した一品料理も、その延長線上にある日本独自の食スタイルであるという。あんパンやカレーパンなど、日本独自のパンの進化も、この潮流の中で生まれてきたものだ。

神戸とパン。

ドイツ人捕虜であったフロインドリーブがパンの普及に大きな役割を果たした神戸は、その後もパンの歴史の重要な舞台となる。パリの国立製粉学校の教授であったレイモンド・カルヴェルは、退官後、世界各国を回ってパンづくりを指導した。日本でも1954年に、70日間、全国17カ所で業界向けに講習会を開いた。この時、最も注目されたのがカルヴェルが披露したバゲットだった。「皮はパリッと硬いのに、中はしっとりとやわらか。身にはぼこぼこと不規則な穴が開き、えもいわれぬパンのよい香りがしていた」本物のフランスパンに出合った人々が誇張ではなく感涙にむせんだという。その中に、当時33歳、ドンクの藤井幸男がいた。講習会の後、藤井はカルヴェルを神戸の自分の店に招き、パンづくりの指導を仰ぐ。その10年後、カルヴェルは再度来日し、講習会を終えた後、ドンクに立ち寄る。カルヴェルは、その足でフランス大使館に立ち寄り、翌年に日本で開かれる見本市にフランスパンのブースを設けるよう掛け合う。藤井幸男は、見本市で使用する機械をドンクで引き取り、来日するパン職人とも契約を結びたいとカルヴェルに申し出る。日本に行く職人として選ばれたのが、22歳のフィリップ・ビゴだった。1965年4月東京・晴海で開かれた国際見本市でフランスパンづくりのデモンストレーションはテレビ中継までされ、大盛況となった。見本市の後、約束通りビゴはドンクに招かれる。6月には神戸に蒸気の出るオーブンを入れたフランスパン工場も完成する。当初は「こんな硬いパン、食べられませんわ」などと言われながらも、神戸の人たちに受け入れられていく。翌年、爆発的なブームを作った青山店がオープン。ビゴは、神戸、青山を立ち上げた後も、全国にチェーン展開する20カ所以上を回る生活が続いていた。そして1972年、ドンク芦屋店を「ビゴの店」として独立オープン。一躍、人気店となる。ビゴの店では、後に活躍する多くの職人が育ったという。

 広島とパン。

広島も、パンの歴史において重要な役割を果たしてきた。広島県は山地が多く平野が少ないため、戦前はアメリカなどへ多くの移民を出したという。移民たちは現地に定住せず、お金が貯まれば生まれ故郷に帰ってきたという。アメリカで身につけた技術を持ち帰る者も多く、その中にパン屋もあった。また日清戦争で軍の大本営が置かれ、その後も軍の重要な拠点だったせいでで、兵糧パンが大量に作られたことが製パン技術の向上に役立ったという。陸軍の情報将校だった高木俊介と妻の彬子は戦後間もなく広島市でパン屋「タカキのパン」を開く。彼が売り出したイギリス式の山形食パンが評判となり、県内で委託販売の店舗を20店舗近くまで拡大、1951年には株式会社化した。「タカキベーカリー」の名の卸売は現在の「アンデルセングループ」の柱となる。高木は、当時珍しかったサンドイッチのイートインスペースを設けた直営店「パンホール」を開き、食事用パンの普及に努める。また客がトレイを持ってパンを選ぶセルフ方式も高木が生み出した。また工場で大量に製造し冷凍したパンを店舗に配送して焼くベーカリーチェーンを日本で最初に始めたのもアンデルセンであった。

パンとキリスト教

著者によると世界でパンが普及している地域はキリスト教が勢力を広げている地域と一致しているという。キリスト教徒にとってパンは単なる食品ではない。新約聖書の「マタイ福音書」の中だけでもパンのエピソードが7回出てくる。また最後の晩餐のエピソードで、キリストが、出されたパンを祝福して割き、「これは私のからだである」と言い、ワインを「多くの人のために流すわたしの契約の血である」という。そして弟子たちとの食事中に捕らえられ、処刑される。

現在のイラクアフガニスタンクウェート、シリア、イスラエルパレスチナなどを含む「黄金の三日月地帯」で、紀元前4000年頃にパンの歴史は始まったという。その後エジプトに広がり、さらに勢力を伸ばしてきたギリシアに伝わる。その後、繁栄を極めた古代ローマでも、パンは主食になった。紀元前30年頃には帝国内に329カ所の良質な製パン所があり、すべてギリシア人が経営していた。ローマにはパンの職人学校があり、特許の組合組織も定められていたという。パンづくりは西ローマ帝国を滅ぼしたゲルマン人などにも伝わり、ヨーロッパ全体がパン食文化圏になっていく。312年、教徒の拡大によって東ローマ帝国キリスト教を公認すると、製パン技術は、パンとワインを神聖なものとする価値観とともにヨーロッパに広がっていった。中世初期には修道院が風車を備え、粉挽きとパンづくりも担っていた。

日本におけるパンの普及にもキリスト教は関わっている。明治期、宣教師が学校を次々に作ったが、それらキリスト教系の私立校でも給食はパンだったという。京都の老舗パン屋である「進々堂」も、学生時代、内村鑑三に師事した続木斉と同志社女学校を卒業したハナ子が始めた。東京、文京区の「関口パン」も小石川関口教会が、経営する孤児院の子供たちに手に職をつけさせようと発足させた「製パン部」が始まりであるという。

給食のコッペパンはアメリカの陰謀?

日本人が柔らかいパンを好む背景に、戦後の給食のコッペパンが影響しているという説がある。その背景にアメリカの政策があったとするのが、2003年発売された鈴木猛夫著『「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活』である。同書によると、戦後の日本人の食生活が肉や油脂、乳製品やパンを摂る方向へと大きく舵を切ったきっかけは、アメリカが余剰小麦を日本に援助し、小麦輸入の道を拡大させたことだ。厚生省、農林省、文部省などが協力してそれぞれの外郭団体がアメリカから資金を受け、小麦の市場開拓のために取り組んだ。学校給食も、戦後占領期のアメリカの食料援助に始まり、独立後も、パンの学校給食を維持する条件で4年間小麦を援助する約束をし、パンが給食の主食となった。著者は、同書以外の書籍や資料を読んで、検証を試みる。第二次世界大戦で戦場とならなかったアメリカは大量の余剰小麦をを抱えこんでいた。戦後すぐはヨーロッパへの食料援助を行っていたが、ヨーロッパが復興すると自国の農業を守るために援助中止を望むようになった。そこでアメリカはアジア地域に目を向ける。アメリカが日本に対して行った援助は「米国が日本に小麦食を売り込むと同時に、反共産主義の砦として日本に再軍備させるための資金の一部を、小麦の日本国内での売却益でまかなおうという米国の思惑を反映したものだった」という。アメリカの小麦戦略は確かにあった。しかし、その結果日本人の食生活のスタイルを変えたことについては別の問題として考えるべきだろうと著者はいう。

本格フランスパンブームが始まった。

2000年代初頭、神戸文化圏から東京へ来たばかりの著者は、おいしいパン屋さんを見つけるのに苦労したという。『おいしい食パンを売る店はあるが、大好きなフランスパンを置いている店があまりないのだ。たまにバタールを売っている店を見つけることはあるが、買ってみると皮が柔らかめで「ちょっと違う」と思ってしまう』その東京で、ここ数年異変が起きているという。『フランス語でパン屋を意味する「ブーランジェリー」を名乗る店があちこちにできている。置いてあるパンの種類は少なく、単価は高め。コッペパンサンドが見当たらないかわりに、カンパーニュのサンドイッチがある。バタールよりバゲットの存在感が強く、もちろん皮は硬い。都心にはフランスから日本に上陸した店もふえてきた。一方、住宅街の一角や商店街の空き店舗などに間口も奥行きも小さいパン屋ができてきた。オーナーは若い女性が多く、スコーンやジャムなども置いている。ハード系パンはあるが食パンがない場合がある。品揃えが少なく、パンの形が、どこか素朴。値段はやはり高め』経産省の商業統計によるとパンの製造小売の数は1997年の1万2千百店をピークに減少を続けていたが、2012年から2014年にかけて1459店増加している。そんな潮流を消費者が敏感に感じ取り、パンブームが始まった。ブーム到来を決定づけたのは「Hanako」2009年11月12日号で「東京パン案内」という特集が組まれたこと。2011年10月には世田谷区・三宿で地元の人気パン屋を集めたイベント「世田谷パン祭り」が始まったこと。2013年秋には、表参道の国連大学前で週末に開かれる「青山ファーマーズマーケット」の中で、年に何回か「青山パン祭り」が開かれるようになった。パン屋情報も増えている。雑誌やムック本、テレビの情報番組でパン特集が増えてきた。SNSを利用してインターネットで発信する人も増えてきた。

リーマンショックの後。

パンブームが始まったのは2008年のリーマンショックの後だという。「前段として2000年前後のデパ地下ブームに伴って発生したスイーツブームがあるという。平成不況のどん底で流行りはじめたスイーツは、ファッションにあまりお金をかけられなくなったが、トレンド消費への欲望を満たしたい人々の心理を反映していた」という。しかしデパ地下で売られるスイーツは、気軽なおやつとしては値段が高い。ブームが一巡して冷めたところへ、再び大きな景気の後退が起こった。それでも、単に空腹を満たすだけではない食への欲望は消えなかったという。そんな人たちが発見したのが、ちょっと高級だがスイーツよりも手軽に食べられる、話題の店のパンだった。スイーツブームの時と違うのは情報が格段に増えたことだ。地域に点在するパン屋の情報をインターネットやマスメディアを通じて発信するのはパンマニアたちだ。パンマニアが登場する背景には、1970年代以降、充実の一途をたどる外食店の存在があるという。外食慣れした世代が社会の中核を占めるようになってきた。そしてパンマニアを育てているのはクオリティを上げ続ける日本のパン屋である。高いパンもおいしければ売れるきっかけを作った「VIRON」、フランスから上陸してきた「PAUL」「メゾンカイザー」のケースを紹介する。

 

米とパン。主食が逆転

コメの消費量は、1962年をピークに減り続けている。2011年には、総務省家計調査による一世帯あたりのパンの購入金額がコメを上回ったという。日本人が、ご飯の替わりにパンを主食にするようになったと騒がれた。しかし、著者は、家庭におけるコメの用途がほぼご飯を炊くことに限定されるのに対し、パンはおやつ用も含まれるため、必ずしも主食としてご飯を食べる回数がパンより少なくなったことを意味していないだろうという。著者は、さらに、日本人の食生活そのものが大きく変化しているせいではないかという。私たちは「おかず食い」になって、ご飯をあまり食べなくなっている。人々はまずご飯のお替わりをやめ、やがてご飯自体を食卓に載せなくなっている。「まったくご飯を口にしなかった日が思い当たるだけで何日もあるという現役世代は少なくないだろう。(中略)朝はパンで昼は麺類で夜は居酒屋でつまみだけ、という日はないか。(中略)ご飯はすっかり添え物になっているのだ。ダイエットをしなくても、私たちはとっくにご飯なしの日常を送っている。」

本書の面白さは、もうひとつの自分史をたどれること。

食品のひとつに過ぎないパンの歴史をたどることが、こんなに面白い読書体験になるとは思わなかった。僕のコピーライティングの師匠であるM司政官が昔、こう言ってたことを思い出した。「何かひとつだけでいいから、小さなことでいいから、それについて隅から隅まで知っているモノを持ちなさい。その「小さな世界」と「世界」は通底しているから、「小さな世界」をよく観察しているだけで「世界」で何が起きているか、わかるのだ」本書は日本におけるパンの歴史だが、歴史の本を読むよりも、たくさんの気づきや発見がある。そして、パンを通して歴史を見る視点は、間違いなく庶民の視点なのだ。しかも最近の半世紀ほどは、自分史とも重なっている。給食のコッペパン、あんパンやカレーパンの思い出、そして神戸のドンク、フロインドリーブ、ビゴのパンも、その匂いや味が、それを食べた時代の記憶とともによみがえってくる。

 

 

大阪マラソン2016完走記

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とうとう「マラソンおやじ」になった。

16回目のフル挑戦になる今回の大阪マラソン。僕はとうとう「マラソンおやじ」になった。「マラソンおやじ」とは、僕が勝手につけた名前で、家族や友人の応援もなく、独りで黙々と走り続ける中高年マラソンランナーのこと。どこの市民マラソンでも見かける彼らのことを、僕は密かにこう呼ぶようになっていた。数年前、どこかの市民マラソンの帰りの電車の中で、こんな会話を耳にした。「奥さんとか来てはったん?」「まさか。女房が応援に来たのは最初の2〜3回。最初は、家族がマラソンに出るのは一大イベントやし、珍しかったんで、女房も家族も応援に来てくれた。そんなもん2〜3回で飽きるわ。『人も多いし、移動も大変やし、長いこと待って、見れるのは一瞬やし、つまらん』言うて来んようになったわ。」この会話を聞いて、僕は、近いうちに、自分もきっとこうなると思った。

けっこうなシリアスランナーだったりする。

彼ら「マラソンおやじ」の会話を聞いていると、ランナーとしてのレベルはけっこう高い。「サブ4」は当たり前。「サブ3.5」や「サブ3」を狙っている猛者もいる。さすがに頭のほうは後退していたり、頭頂部が薄かったりするが、体型はしっかり走り込んでいる証拠であるアスリート型で、その辺のお腹の出た中高年とは隔絶している。僕がいつも練習で走っている武庫川の河川敷コースでも「マラソンおやじ」をけっこう見かける。「太腿とふくらはぎにしっかり筋肉がついて足首がきゅっと締まっている」のが特長だ。 「マラソンおやじ」は、1キロ5分を切るペースで軽々と僕を置き去りにしていく。

2〜3年前から妻は応援に来なくなった。

上に書いたのとほとんど同じ理由で、妻がマラソンに来なくなった。最初は篠山マラソン。コースの大半が、田畑や里山のようなところを走るため、応援スポットが少なく、篠山の街自体も小さいので時間を潰す場所が少ないのだ。3月上旬開催で、山間の盆地は気候が寒いのも嫌がる理由のひとつだ。未明にクルマで出発し、到着まで1時間近くを要する遠さも辛かったらしい。大阪マラソン神戸マラソンも最初は応援に来てくれたが、2回目、3回目は会社の同僚とチームで走り、4回目は東京から参加した友人と走ったため、完走後の打ち上げ会などもあり、妻は来なかった。そして会社を退職してからは、一緒に走る仲間もなく、ずっと独りで練習を続けてきた。マラソンは、独りで練習し、独りで参加できるスポーツであるところが自分に合っていると思っている。しかし大会に参加するたびに、チームや仲間どうしで参加するランナーたちを見て、羨ましいと思うようになった。しかしどこかのランニングクラブに入るのも煩わしいという気持ちも強い。というわけで今回は、「誰も応援に来ない、淋しいマラソン」になった。

10月30日。前日受付とマラソンEXPO。

 朝食を済ませ、洗濯などをして、9時頃から走り始める。2kmほどごくゆっくり走った後、時間をかけてストレッチングを行う。その後は、ウィンドスプリントなどを交えながら身体を伸ばすような大きな走りで2km。最後の1kmは身体をほぐしながらゆっくりジョギング。家に帰ってシャワーを浴び、着替えて女房の買い物に付き合う。ショッピンセンターで昼食とショッピングを済ませ家に帰ってきたのが15時前。15時過ぎに自宅を出て南港のマラソンエキスポ会場をめざす。大阪駅から地下鉄御堂筋線に乗り換え、本町で中央線に、コスモスクエア駅ニュートラムに乗り換え、中ふ頭駅で降りる。受付はスマホに表示したQRコードを読みとるだけ。ゼッケンやTシャツなどを受け取り、エキスポ会場へ向かう。というより強制的にエキスポ会場を一巡するルートを歩かされる。初回からするとエキスポ会場のブースの数がずいぶん増えたように思う。ブースを一通り見て回り、グリコのブースで明日のレース中に補給するサプリメント3本500円を購入。出口近くでノンアルコールビールをもらって、旨いものコーナーを素通りして帰宅。家に帰ったのが18時30分。テレビを見ながら夕食。食後、お風呂に入った後、ようやく明日の準備を始める。就寝は10時半。

10月31日当日。

4時30分起床。パンとコーヒーの朝食を済ませ、ランニングウエアに着替え、その上にウォームジャケットを羽織り、ジョガーパンツを履いて、家を出る。気温は12度でけっこう寒い。6時10分宝塚発大阪行きの快速電車に乗る。一昨年とまったく一緒だ。参加ランナーを示すICチップをシューズに装着したランナーがちらほら見える。尼崎で東西線に乗り換える。駅ごとにランナーたちが乗り込んでくる。7時少し前に京橋駅到着。ホームのトイレが空いていたので、すばやく入る。改札を出て、OBPに向かう通路を進む。7時10分更衣ゾーン(芝生)に入って着替える。といってもウォームジャケットとジョガーパンツを脱ぐだけ。ウエストバッグなど装備を確認して、荷物をまとめ、荷物預りのトラックに向かう。装備を記しておこう。シューズは、大会の3週間前に買ったアディダスのAddizeroのJapan Boost。Addizeroは僕の足と相性がいいようで、ここ3年ほどは、このシューズで走っている。ボトムはCWXのメッシュ下着にNikeのグレーの膝丈パンツ。トップは前日にミズノのショップで購入した青白柄の透湿速乾Tシャツ。帽子は、ここ数年使っている黒のバイザー。アシックスのウエストポーチにはiPhone、ポケットティッシュ2個、グリコのジェルサプリ3本、塩飴5個、千円札3枚+小銭500円とバンドエイド2枚。左手にGARMINGPSウォッチと右手にiPhoneとの接続を切ったApple watch。(つないでいるとバッテリーが消耗して42.195km持たない)晴れてはいるが陽が陰ると寒いので、ビニールポンチョを被っていくことにする。7時45分に荷物を預け、スタート地点に向かう。途中で空いているトイレを見つけたので、「ラッキー!」と利用する。8時過ぎにスタート地点に集合。今年はHブロックなので、今までで一番後からのスタートになる。気温はあまり上がらず、半袖ランナーの腕に鳥肌が立っている。寒さに耐えながら、スタートを待つ。ポンチョを持ってきてよかった。5分前に、GARMINiPhone上のnike run clubを起動する。3分前にポンチョを脱いでポケットに収める。一旦走り出したら要らなくなると思うが、念のために持っていこう。いつものことながら今回も走りこみ不足で、後半が心配だ。

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スタート。

車椅子マラソンのスタートのあと、9時ジャストにスタート。号砲が鳴った。GARMINの記録をスタートさせる。Hブロックという位置のせいか、なかなか動き出さない。10分を過ぎて、ようやく、ゆっくり動き出した。スタートラインを通過したのは号砲から12分が経過してからだ。iPhoneapple watchの記録も開始する。かなり後ろのブロックだったが、どんどん抜かれていく。しかし気にしないことにする。今回の方針は「体力の温存」だ。長い距離の走り込みがほとんどできていないため、30km以降が心配だ。30kmを中間点のつもりで、極力ペースを一定に保って走ることにする。骨盤とリズムを意識して無心に走る。上町筋から本町通り、中央大通りを経て、森之宮で玉造筋を南下する。日陰に入ると冷んやりして肌寒い位だが、日なたに出ると汗ばむほど暑くなる。玉造筋は道路の左側が日陰になるので、左寄りを走る。鶴橋まで南下し、右に曲がって千日前通りを西へ。すぐに緩やかな登り坂になる。練習不足のせいか、今回はこの坂が長く感じた。坂を登りきり、下っていくと、5km。最初の給水ポイントが待っている。スポーツドリンクを飲み、水は摂らない。

御堂筋。銀杏の匂い。

なんばの交差点を右折し、御堂筋を北上する。曲がってすぐに折り返してきたランナーに出会う。速い。しかも先頭ではない。トップはなんばの交差点を越えて京セラドームのほうに向かっているのだろう。イチョウ並木から落ちた銀杏の匂いが漂っている。途切れなく応援の列が続く。普段はクルマが主役のメインストリートを走るのは気持ちがいい。淀屋橋の交差点で右折し、土佐堀通りを東へ向かう。天満橋の手前で10km。まだ足は大丈夫だ。道が狭くなり、ビルが続くので割と単調な区間。しばらく行くと、右手に大阪城が見えてくる。片町で最初の折り返し。北浜で中之島に渡り、図書館など、歴史的な建築を見ながら御堂筋に戻ってくる。御堂筋の西側を南下する。本町手前で15km通過。ここまでキロ6分30秒前後をキープ。応援してくれる知り合いもいないので道の真ん中を淡々と走る感じ。

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なんばから京セラドーム、通天閣

なんばの交差点を右折し、千日前通りを西へ。高速道路が頭上を走っていて、殺風景な眺めが続く。この辺りは以前の仕事場に近く、懐かしい。大正橋を渡って右折すると京セラドームが見える。手前にショッピングセンターが出来てドームの全貌が見えなくなったのは残念だ。しばらく北上して2つめの折り返し地点を折り返すと20km通過。まだ足は大丈夫だ。千日前通りに戻って、中間地点通過。ここで気を抜いてはいけない。30kmを中間地点のつもりで走ろう。なんばの交差点を右折して南下し、大国町を左折し、3つ目の折り返し地点に向かう。ここで5時間15分のペースメーカーに追いついた。ペースメーカーは観光案内もしてくれていて、通り過ぎる街並みの説明や見所を喋りながら走ってくれる。折り返し地点では、通天閣が見えるが、ほんの一瞬で、しかもビルの間にに見えるので、意識して横を向かないと見逃してしまう。初めてのランナーは、ペースメーカーから教えてもらわないと見ることができないだろう。ここから先はランドマークとなる建物もなくなり、景観は単調になり、疲れも出てくるので、ランナーにはつらいコースとなる。

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元気をくれる人。その1:仮装ランナー。

後ろのほうが歓声とそれに応える「ヒィー!」という叫び声が近づいてくる。ショッカーの仮装をした二人組は人気者で、応援に応える「ヒィー!」という叫びは爆笑を呼んでいる。彼らは僕よりも少しだけペースが速くて、追い抜いていくのだが、すぐに沿道の観客に捕まって、記念写真を撮ったりしていて、僕のほうが追い抜いてしまう。しばらくすると、また、あの叫び声が近づいてきて…。ということを何度も繰り返しているうちに10km近くをショッカー氏と一緒に走ってしまった。今回は、あまり過激な仮装ランナーに出会わなかったが、仮装は、他のランナーにとっても、疲れを紛らわせてくれる貴重な存在である。彼らのチャレンジ精神にはいつも感服する。

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元気をくれる人々。その2:ディープな応援者。

後半、苦しくなってきた時、元気をもらうために沿道の応援に応えることにしている。大阪マラソンの魅力の一つが、後半、南に行くほどディープになる応援だ。ご近所のおばちゃんやおっちゃんたちがキツめの言葉で励ましてくれるのには、かなり元気づけられる。今年は気のせいか、そんな「ナニワの応援」が少なくなったような気がする。

元気をくれる人々。その3:美形ランナー(後ろ姿)。

スタートして、しばらくすると、自分と周囲のペースが一致してきて、同じペースのランナーと並走するようになる。いつものように、その中で自分と同じリズムで走るランナーを見つけて勝手にペースメーカーになってもらう。僕の場合、「勝手にペースメーカー」は、なぜか女性、それも美形ランナーでないとダメなのである。(美形といっても、後ろ姿のみ)どんな理由からかわからないが、男性だと、すぐ見失ったり、離れたりしてしまう。スタイルやランニングフォームの美しい女性や、長い髪をなびかせて走っている女性ランナーの後を走ると、スムーズにペースを保てるのだ。同じような話を他のランナーのブログでも読んだことがある。きっと、ランニングのような運動をしていると、身体の本能的な能力が高まって、異性に対する感度が鋭くなり、それによって運動機能も少し向上するのではないか、という勝手な理屈。

中国人ランナーに囲まれる。

四ツ橋筋を南下しはじめてしばらくすると、後ろから集団が追い抜いていった。彼らは互いに声を掛け合いながら、走っているようで、けっこう騒々しい。中国語のようだ。追い抜かれる一瞬、中国語に取り囲まれたような錯覚に陥った。いまや京都などの観光地で中国語に取り囲まれるのは珍しくないが、マラソンでは初めての体験だ。今回は、中国、韓国など、アジアの参加者が以前より多かったような気がする。日本人がホノルルやニューヨークマラソンに参加するように彼らもツアーで参加しているのだろうか?

30kmでも、まだ脚は動いている。

リズムに注意して、一定のペースを心がけたせいか、25kmを越えても、まだ脚は動いている。なんとか完走できそうな気がしてきた。30km過ぎの給食コーナーで、いなり寿司、どら焼きなどを食べて、一息つく。前回の時は32km付近でU君が仮装で応援してくれたことを思い出して姿を探すが見つからない。住之江公園で右に曲がり、南港へ向かう。ここも新交通が頭上を走る殺風景なコースだ。そして35kmを通過。さすがに脚が動かなくなってペースが上がらない。持参したエアサロンパスを使用し、給水コーナーの水をふくらはぎにかけて冷やす。そして南港大橋の登りは少し歩くことにした。坂の頂上から再び走りはじめる。南港に渡って、東の直線路に中学の同級生のA君がカメラマンとして撮影しているはずだ。歩いている姿を撮られるわけにはいかないので、走り続ける。東の直線の道路脇を注意しながら走るが、見当たらない。カメラで隠れて顔が見えないのと、帽子を被っているカメラマンが多く、ランナー側が発見するのは難しい。このまま淋しい「ぼっちマラソン」で終わるのか、と諦めかける。脚はもう動かず、1キロ7〜8分のペースでゴールをめざす。ゴール直前、観客の中から突然名前を呼ばれ、声のほうを見るとU君がいた。「さすがです!ナイスラン!」という叫び声が嬉しかった。ありがとうU君。ぼっちマラソンにならずに済んだ。彼に感謝しながらゴール。

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 走り終わって。

ゴール後、完走メダル、タオル、スポーツドリンク、あんパンを受け取って、荷物受け取りコーナーに行く。荷物を受け取った後、3階の更衣エリアへ。両膝の関節付近にだるさと痛みはあるが、歩くのに支障はない。身体を拭き、着替えて、出口へ向かう。待ち合わせている人もいないので、うまいものコーナーもパスして、さっさと中ふ頭の駅に向かう。いつもはニュートラムコスモスクエア駅まで乗って地下鉄中央線に乗り換えるが、今年は住之江公園まで乗って、地下鉄に乗り換えるルートで帰ることにする。少し時間はかかるが、混雑が少しはマシかもしれない。地下鉄の住之江公園から四つ橋線西梅田へ。このルートは、途中までマラソンコースの後半とほぼ同じところを逆にたどることになり、走った距離が実感できるのが面白い。大阪駅から福知山線新三田行きの快速に乗る。幸い座ることができた。家に帰りついたのが5時前。風呂に入って洗濯を済ませる。当日開かれた全日本女子大駅伝の録画を見ながら夕食。11時前にベッドに入った。

ネットタイム5時間4分40秒。グロスタイム5時間17分16秒。前回の大阪マラソン2014よりは良かったが、今回も見るべきところなし。夏に練習しなければならない秋のマラソンは本当に難しい。この後は、毎年出ている12月の宝塚ハーフと、初めて当選した2月の京都マラソン。ちゃんと練習しなければ。

 

新海誠「君の名は。」

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雲を描く人

新海誠の作品は「雲のむこう、約束の場所」から観るようになった。「雲の〜」は東京勤務時代、渋谷の小さな小さな劇場で観た。「雲」のディテールをここまで克明に描いたアニメに初めて出会った。実は僕自身が子どもの頃から「雲」を眺めるのが大好きだったのだ。1日中、雲の変化を眺めていても退屈しない子どもだった。もちろん、新海作品の魅力は「雲」だけではなく、自然描写全般なのだが、僕にとって彼は「雲を描く人」なのである。今回も「雲の描写」を堪能した。

セカイ系から遠く離れて。

2000年代はじめ、新海誠のアニメは「セカイ系」の作品として位置づけられていた。「セカイ系」とは、主人公とヒロインの閉じられた関係と「世界の終わり」や「最終戦争」という巨大な出来事が、社会という中間項なしに直結した作品群のことをいうらしい。エヴァンゲリオンにルーツを持ち、高橋しんの「最終兵器彼女」、新海誠の「ほしのこえ」などが、その代表とされていた。「戦闘美少女のヒロイン」と「無力な僕」の愛という、オタクの自意識をそのまま物語にしたような世界観に、恥ずかしながら一時期はまってしまった。「雲のむこう、約束の場所」では、まだ「セカイ系」を引きずっていたと思う。その後、「ほしを追うこども」で宮崎駿的なファンタジーに行き、「言の葉の庭」では、SFじゃない恋愛の物語になった。その段階で、僕は、もう新海作品を見ることはないだろうと思った。美しい自然描写の中で進行するありふれた恋愛物語に興味は持てなかった。

空から何かが降ってくる。

君の名は。」のポスターには「空から何かが降ってくる」のが描かれていた。宇宙船なのか?ミサイルなのか?新海のデビュー作である「ほしのこえ」や「雲の向こう、約束の場所」を思い出した。もう一度SFに帰ってくるのか?そんな期待をこめて作品を観た。「初代ゴジラ」が公開された1954年に映画「君の名は」3部作の完結編が公開された。それから62年後、庵野秀明新海誠という、いわば「セカイ系」の中心にいた監督二人の作品が同名のタイトルで公開される。初代ゴジラ公開の年に、僕もこの世に生まれ落ちていた。その不思議な因縁も感じて「君の名は。」を観ることにしたのだ。

ジブリとは違うファンタジー

少年と少女の「とりかえばや」という、一応「時空ファンタジー」ではある。そこにはもう「セカイ系」の匂いは全然ない。ちゃんとエンターティンメントに成長した、多くの観客を楽しませる作品。平日の夜にもかかわらずほぼ満席であることに驚いた。渋谷の100人も入れないような劇場で観た「雲のむこう、約束の場所」からすると隔世の感がある。あいかわらず風景の描写は素晴らしい。主人公たちの心象風景をそのまま映像にしたような描写はアニメでしか表現できない世界だ。六本木ヒルズをはじめ、東京の都心が、あんなに「懐かしく」描かれた映画はなかったと思う。「レトロフューチャー」という言葉を思い出した。でも僕にはちょっと物足りなかった。SFが、ファンタジーが足りない。宮崎駿も自然のディテールを克明に描くことがあるが、それは、観客をその先の空想の世界へ誘い込むための「仕掛け」なのだ。よく観察すると驚異に満ちた里山の自然の中には、不思議なトトロが隠れている。森の奥深く、今も残る原始の森には「シシ神」がいる…。新海誠も、そっちのほうへ行ってほしいと思った。

塩田武士「罪の声」

あの声の主

本書は1984年から1985年にかけて起きた「グリコ・森永事件」を題材にした小説。この事件を題材にした作品では高村薫の「レディ・ジョーカー」がある。本書の舞台は、事件から31年経った「現在の関西」だ。なぜ「現在」なのか?その理由は、主人公の一人が、事件で現金受け渡しの指示に使われた「子供の声の録音テープ」の声の主であったから。京都でテーラーを営む主人公・曽根俊也は、ある日、亡くなった父の遺品の中からカセットテープと黒皮の手帳を発見する。手帳は英語の文字で埋まっていた。カセットテープには、子供の声で、現金受け渡しを指示する言葉が録音されていた。その声を聞いた主人公は、それが彼自身の声であるとわかり衝撃を受ける。父は犯行グループの一味だったのか…。録音に関する彼自身の記憶はなかった。31年前の真相を知るために、彼は事件を調べ始める。

31年目の真実

同じ頃、大日新聞社文化部に所属する阿久津英士は、社会部・事件担当デスクの鳥居から、大阪本社の年末企画「ギン萬事件ー31目の真実」への参加を求められる。鳥居は、阿久津にある資料を手渡して、調査を命じる。その資料とはギン萬事件の4ヶ月前にオランダで起きたハイネケン社長の誘拐事件に関するもので、事件の直後から現地で事件のことを調べ回っている東洋人がいたという。阿久津は嫌々ながらイギリスに飛んで、調査をはじめる。31年前の、あの事件の真相が、二人の男によって闇の中から再び甦ろうとしていた…。

事件の子供 たちという着眼

本書はミステリーなので、ストーリーを紹介することは控えるが、事件に使われた子供の声の「本人」を主人公にするという着眼は秀逸だ。当時主人公は幼かったため、録音した時の記憶はなく、父の友人であった家具商の堀田とともに事件を調べはじめる。基本は、昔の関係者を探して話を聞くSeek & Findの物語だが、要所で事件当日の緊迫した追跡劇もしっかり描かれ、スリリングな展開も楽しめる。ラストでは、思わず涙が出た。400ページを超える長編だがいっきに読めた。かなりおすすめ。

僕自身、あの事件に、かすっていた。

グリコ森永事件の主な舞台となった、京都南部から北摂の一帯は、学生の頃住んでいたこともあり、土地勘もかなりある。地名や駅名を聞けば、街並みや風景が浮かんでくる。誘拐に使われた水防倉庫も見に行ったことがある。そして何より、僕自身が捜査の網に引っかかったことがあるのだ。まだ事件が終息してなかった時期だと思うが、職場に妻から電話があり、いきなり「あんた、何したん?」と問い詰められた。訳を聞くと、目つきの鋭い刑事が訪ねて来て「警察ですが、ご主人に聞きたいことがある」という。妻が「何の件か」とたずねると教えてくれない。「感じ悪いので、家の中に入れなかった。会社の住所と電話番号を教えたから、そっちに行くと思うよ。あんた、ほんとに悪いことしてないん?」と僕を疑っている。「いやあ、全然わからん。」と電話を切った。事件は、僕の日常にも小さな波紋を生んでいた。その日の午後遅く、刑事が職場にやってきた。事件で使用されたクルマについて調べているという。「X月X日にレンタカーで赤のトヨタスプリンターを借りられてますね。」それで刑事が来た理由がわかった。その頃、カーオーディオのカタログの制作の仕事をしていて、カタログの写真の撮影のためにトヨタスプリンターを借りたことがあったのだ。フィッティング写真といって、カーオーディオのユニットが実際に装着された写真をカタログの巻末に掲載するのだ。出来あがったカタログを見せて説明すると、刑事はすぐ納得してくれた。僕がコピーライターであることを知ると、話題を変え、「かい人21面相の書いた文章は、コピーライターのような職業の人物が書いたものだと思うか」という話になった。「文章は面白いが、別にコピーライターでなくても書けると思う」と答えた記憶がある。そんなこともあって、事件には少なからぬ興味があり、事件に関する本も目に留まれば購入して読んでいた。

フィクションとノンフィクションのはざまで。

著者によると、本書では社名や人名は変えてあるが、事件の部分については、実際の事件を忠実に再現しているという。そのせいか、ノンフィクションの部分からフィクションに移るその一瞬、かすかな「境目」が感じられてしまうのが、ちょっと惜しい気がする。微妙に空気が違うというか、フィクションの領域に踏み込んだ瞬間、現実の事件が持っていた、あの不気味さ、得体の知れなさが、フッと霧散してしまうような気がするのだ。当時リアルタイムで事件の報道に触れ、僕自身が感じていた、犯人のイメージと本書の犯人像が微妙に違っているせいかもしれない。犯人たちは派手な愉快犯を装いながら、その実態は、誘拐、暴力、殺人を躊躇なく実行する冷酷な犯罪者集団であったのだ。犯人たちの人物像を思い浮かべる時、その顔の部分だけがぽっかり空白になって像を結ばない…。「キツネ目男」の似顔絵からも犯人像が見えて来ないのだ。十年以上前、一橋文哉のノンフィクション「闇に消えた怪人 グリコ・森永事件の真相」を読み終えた時、僕たちを取り巻く闇がさらに暗さを増したような気がした。僕らが暮らしている、すぐ隣に、顔のない犯人たちが今も潜んでいる…。そんな恐怖のせいだったかもしれない。フィクションとはいえ、犯人たちに実態を与えてしまうのは、そんなリスクを伴っている。

あの子供たちが生きていれば、少女は40代半ば、少年は30代後半、そして幼児は、本書の俊也のように30代半ばになっている。現実の彼らは今、どのような人生を生きているだろう。今でも犯人たちの顔を見たいと思っている。本書を読んでいる間、僕は、80年代半ばの、あの時代を生きていた。

鈴木大介「脳が壊れた」

isii marikoさんのおすすめ。凄い本だ。ルポライターが脳梗塞になり、その体験を自ら言語化した本。同じような成り立ちの本で、脳科学者が自らの脳卒中体験を書いた、ジル・ボルト・テイラー「奇跡の脳」があって、そちらも大のおすすめ。著者は、家出少女、貧困層の若者、詐欺集団など、社会から落ちこぼれた人々を取材対象として記事を書くルポライターで「最貧困女子」などの著作がある。著者自身が自らを「感情的で多感すぎてめんどうくさいような人間で、むしろそうした欠点を武器にして取材記者という仕事を続けてきた」という人。

2015年初夏、著者は41歳で右脳に脳梗塞を発症する。本書は、その発症から、緊急入院、治療、リハビリ、社会復帰に至るまでの数ヶ月を、自身を取材対象として記録・執筆したルポである。脳梗塞の闘病記、あるいは予防やリハビリのためのノウハウ本としても十分読める内容だが、本書の読みどころはそれだけにとどまらない。著者は、脳梗塞の後遺症として残った脳機能障害を体験するうちに、発達障害など、脳機能の軽い障害に悩まされる人々が著者の周囲に少なからず存在することに気づく。著者は自らの障害を取材言語化することで物言えぬ彼らの困窮を代弁しようと決心する。

「彼女」は「あおお」になり「宝物」は「あああおお」になった。

朝起きて、パソコンに音声入力で文章を入力しようとすると、音声入力アプリが認識してくれなかった。子音が出せず「彼女」は「あおお」になり、「宝 物」は「あああおお」としか発音できなかった。さらに前日から続いていた左手指の痺れに加え、激しいめまい、視界の歪み等の症状も始まり、著者は、最悪の 事態に陥ったことを確信する…。幸い、歩くことはできたので、2階に上がって、寝ていた妻を起こし、病院に電話をかけてもらう。休日の朝だったが、緊急性 が高いと判断され、急いで病院に向かうように指示される。妻の運転で30分ほどで病院に到着。すぐにMRI検査を受ける。検査の前にトイレに行くと、うま く尿を切る筋肉に力が入らず、下着代わりに着用していた陸上競技用のインナーパンツを通して、尿の雫が太ももを伝って、床にポタポタと散った。介助でつい てきた妻は、それを見て、驚いたような、覚悟を決めたような、傷付いたような表情を浮かべた…。こうして著者の闘病生活がはじまった。本書は、発症から、 緊急入院、リハビリ、社会復帰に至るまでの日々を、取材記者らしい、突っ込んだ文章で記録した闘病記である。

トイレに突然現れる老人。全裸の義母。

発 症直後は、左手を中心に左半身全体に違和感があり、左右の目の焦点がバラバラでちゃんと見ることができなかった。目に見える世界は、映画「エイリアン」の アートをデザインしたH.R.ギーガーが描く恐怖世界のようで、猛烈な非現実感と違和感の中でぼんやりしているしかなかったという。点滴につながれながら 極度の倦怠感と疲労感の中で、著者は、脳機能が損なわれたために起きる様々な「怪現象」に遭遇する。入院初日、妻につきそわれながら車椅子でも入れる大き なトイレに入った著者は、誰もいないトイレに、突然、便器に腰掛けたおじいさんが出現する。あわてて外に出て、老人が出るのを待って、あらためてトイレに 入った著者は、用を足して、洗浄ストップボタンを探すが、どこにもストップボタンが見当たらない。焦点はぼやけ、ふるえる指で手探りしているうちに誤って ビデボタンを押してしまう。間違った部分を洗浄されながら必死でストップボタンを探すが、どうしても見当たらない。数分後、心配して入ってきた妻に著者は ようやく救い出される。この怪現象は、脳機能障害では比較的典型的な「半側空間無視」とよばれる障害によって引き起こされるという。著者の場合、「視野の左 側が見えているにもかかわらず、見ることができない、意識を向けることができない」という症状に悩まされる。まるで、左側に「見てはいけないもの」があっ て、どうしても見ることができない。著者は、それを「左側に猫の死骸が横たわっている」または「大好きな義母が全裸で座っている」という表現で伝えようと する。

こんな症状の人物をよく知っている。

さらに、著者は、視野の右側に注意が集中してしまうという症状にも苦しむ。視野の 右側にいる人に意識が集中してしまい、すれ違う人の顔をじっと見つめてしまう。男女で左右に分かれたトイレの右側にある女子トイレに迷わず入ろうとしてし まうという。さらに人と向かいあって話をしていても、顔がすぐに右側に向いてしまい、目も右斜め上方を見てしまうという。著者は、自身に起きた、この症状 を以前見たことがあることに気づく。それは取材で出会った、ある青年の態度とそっくりだった。彼は振込み詐欺の「ダシ子:銀行からお金を引き出す役」や未 成年売春の見張り役などに使われるヤクザの下っ端だったが、人と喋る時に相手と目を合わせることができず、顔ごとそらして、目も斜め上を見て、呂律も怪し い言葉で喋っていたという。

記者としての僥倖。

上記の症状の他にも、著者は、様々な障害に苦しむことになるが、それらの障害は、取材で出会ってきた「社会から落ちこぼれた人」の中に、かなり高い頻度で見られるという。脳卒中が原因でなくても、神経や精神に、このような軽い障害を持った子供たちが、そのために家族に疎まれ、学校でいじめられ、社会から落ちこぼれていく。だとすれば、と著者は考える。自分が陥ったこの状況は、取材記者という自分にとって僥倖と言えるのではないか。発達障害をはじめとする、彼らの苦しみや辛さを自分は身をもって体験することができる。自分の苦境を語る言葉を持っていない彼らに代わって、自分は彼らの苦しみや辛さを代弁することができるのではないか…。こうして、著者は、自分自身を取材対象として、自らの体験を言語化しようと決意する。

長く残る「高次脳機能障害」に苦しむ。

まったく動かなかった左手指は、懸命なリハビリによって徐々に動くようになり、1ヶ月後には記者の生命線ともいえるタッチタイピングも何とかできるようになる。母音しか出せなかった発声も、子音を加えた言葉がしゃべれるようになっていった。しかし、その後も高次脳機能障害(高次脳と略)と呼ばれる障害が、著者を長く苦しめることになる。そののひとつが「注意欠陥」と呼ばれる障害で、何かの作業をしていると、注意がすぐ別のものに向いてしまい、集中できないことだ。発症直後は文章などはまったく読めず、漫画すら、どのコマから読んでよいのかわからず読むことができなかったという。そして集中しようとすると、すぐに猛烈に眠たくなる。そんな症状も、取材対象者の中によく見られたことを著者は思い出す。生活保護の書類のほんの数行の文章を読み終えることができず、すぐ眠りこんでしまう人が多かったという。漫画すら読めない、こんな状態から、著者は半年足らずで原稿を書けるようになるところまで回復する。著者を悩ませた、もうひとつの障害は「感情失禁」と呼ばれるもので、喜怒哀楽の感情が、ちょっとしたことで溢れ出し、暴走するのだ。見舞いに来てくれた友人のちょっとした思いやりに号泣し、一晩中泣き続けることも珍しくなかった。会話の最中に、何かの拍子で「感情失禁」が発生することがあり、それを恐れて、抑揚をつけた話し方ができず、抑揚を欠いた、昔のSF映画のロボットのような話し方になってしまうという。

妻の世界を体験する。

著者の症状を見ていた妻が、ある日、「私の辛さがわかったでしょう」と言い出した。妻は、発達障害と思われる「注意欠陥」の症状があり、家事や片付けができない人だった。例えば、さあ、寝ようという時間になって、寝室に行こうとして、猫と出会うと、猫の爪が伸びているのに気付き、こたつに戻って猫の爪を切ってやる。そこでスマホが目に入ると、メールをチェックし、ついでにゲームも立ち上げ、ちょっとレベルを上げておこうとする。結局、寝ようと思い立った時刻から2時間経ってようやく寝床に入ることになる。スーパーに買い物に行っても、すべての売り場の商品の前で立ち止まってしまい、買い物にならないという。そんな妻の代わりに著者は、すべての家事を一人で引き受けていた。生活時間のずれた妻の分も含めて1日6回の食事を作り、庭木の手入れを始め、一切を著者が一人でこなしていたという。妻は、著者の症状を見ていて、「どうせ時間薬で治ってしまうのだから、今のうちに楽しんだら」という。著者は、妻の助言に従って、病院の敷地内を散歩する時に「注意欠陥」を全開にしてみる。散歩から帰ってきた著者のポケットには様々なガラクタが収まっていた。クワガタの死骸、コクワガタの♀の死骸、ビー玉、正体不明のゴムの塊…。なんだか6歳の子供の世界をもう一度体験しているような、ワクワクする体験であったという。そして著者は気づく。脳卒中からのリハビリとは、脳の発達を再体験することであるということに。そして、著者は脳梗塞の後遺症である高次脳機能障害を体験することで、妻の「辛さ」と「ユニークなパーソナリティ」をようやく理解できるようになったという。

脳梗塞の原因は著者自身だった。

なぜ自分が脳梗塞になったのか?著者は自問する。血圧が高めだった著者は、減塩食を心がけるなど、健康には注意を払っていたという。入院から1ヶ月後、外泊が許され、自宅に戻った時に、その理由が判明する。優秀な理学療法士と著者自身の懸命な努力により、著者の症状は改善し、入院から1ヶ月後、外泊が可能になった。著者は編集者に自宅に来てもらい、打ち合わせを行うことにする。自宅に戻った著者は、リビングの惨状を見て凍りつく。家事や片付けができない妻のせいでリビングは物で溢れていた。著者は妻を罵りながら2時間を費やしてリビングを片付ける。片付け終わって血圧を測ってみると、上が180、下が120と、もう一度脳梗塞を起こしそうなレベルに上がっていた…。その瞬間、著者は、これこそが脳梗塞の原因だったのだと気づく。妻に任せられないと、家事を全部を奪い、そのあげく自分の時間を失い、勝手に脳梗塞に追い込んだ犯人は、自分自身だった、と。

妻との日々。

そして著者は、妻と生きてきた18年の日々を振り返る。職場で知りあい、付き合い始めてしばらくしたある日、家出をして著者のアパートに飛び込んできた妻。頭はいいが、LD(学習障害)の疑いがあり、親や学校と折り合いが悪く、友人の家を泊まり歩いていたという。結婚してからも、リストカットなどの自傷を繰り返す、血みどろの日々が続いた。著者は、人がどんなに助けようとしても死ぬときは死ぬ。その時は自分も死のうと決意していた。ベスパに二人乗りで隣町の精神科に通う日々が続いた。2年間以上を費やしてようやく症状が改善する。このような経験が著者の中に2つの価値観を作り上げたという。一つ目は「世の中の面倒くさい人ほど愛らしく、興味深く面白い」。2つ目は「ひとりの人間はひとりの人間しか救えないのではないか?」辛い時期を二人三脚で乗り越えた二人は大きな達成感と絆を手にする。そして妻は、愛すべき変人ぶりを発揮しはじめる。掃除炊事洗濯一切自発的にやらず部屋は散らかり放題。風呂すら自発的に入ろうとしない。たまに入ると、床にはズボンとシャツ、下着、股引とからまった靴下と、脱いだ順番に洗濯物の列ができている。昼間からゴロゴロ、ワイドショーを見ながら「紀宮さまの釣鐘型オーパイ」と不敬罪なことを口走ったり、誰彼かまわず「いらっしゃいまセアカゴケグモ」と叫んだりする。そんな妻が突然倒れたのは2011年晩秋のことだった。

妻の発病。

8月ごろから強い頭痛に悩まされるようになっていた妻は、起きている時間のほうが短いほど長く眠るようになった。著者は11月に迫った引っ越しの準備に追われながら、働こうとしない妻を叱りつけていた。転居後、いつまでたっても寝室から起きてこない妻に小言を言いながらお粥を食べさせようとするが口をつけられず、トイレで嘔吐。病院に行って、問診の際に看護師に「内科ではなく脳外科ではないか」と言われ「脳外科」へ回される。その日のうちにCT、MRIの検査を受けると、脳の画像の中央に、脳室を変形させるほど大きな脳腫瘍が映し出されていた。その場で入院、と同時に意識不明になった。幸い、長時間におよんだ手術は大成功で、腫瘍のほぼ100%は取り除くことができた。腫瘍の直径は62ミリのほぼ球形。ICUから出てきたばかりのの妻は「あんなでかい腫瘍取って、いま私のここに何が入っていると思う?」「脳脊髄液とかリンパ液的なものなんじゃないの?」「ちがーう、丸めた読売新聞が詰まってるんだぜ?」と、変人ぶり健在で著者を安心させた。しかし腫瘍の生検の結果、脳腫瘍は予後のもっとも悪いグレード4。病名は膠芽腫。5年生存率8%と告知された。妻は主治医のいる千葉大病院へと転院し、放射線と化学療法による治療を受ける。副作用で髪の毛がハラハラと抜けていく中でも、妻は泣き言も弱音も言わず、涙を流すことも一度もなかったという。

家事をしなくていい。

妻を失いかけた恐怖と絶望感から、著者は妻に「家事をしなくていい」宣言をする。掃除や洗濯はもちろん、生活時間帯の違う妻のぶんも含めて1日6度の食事を作る生活を送ることになる。仕事で家を空ける時は弁当を作り、長時間空ける時は3食分作ってから出かけたという。そんな生活を続けるうちに著者は時間を失い、「台所で立って飯を掻き込む」ことも増え、結果として脳梗塞で倒れたのだという。

脳梗塞は「性格習慣病」

著者によると、脳梗塞は「性格習慣病」だという。退院後、著者は生活を一変させる決意をする。一人で全部引き受けていた家事を妻と分担する。仕事は朝8時から午後6時までを基本とし、それを超える仕事は「もうあふれている」状態であると判断する。以前は「あふれた先からが仕事」ぐらいに思っていたが、そこから先は、脳梗塞だったのだ。

脳梗塞はありふれた病気だ。

自分の周囲を見回すと、脳梗塞の話はけっこう多いと感じる。身内でも母が数年前、脳梗塞で倒れ、意識不明のまま2年近く入院した後、息を引き取った。ほかにも友人、知人、仕事関係含めると、かなりの数になる。本書を読むと、自分も含め、予備軍はけっこういるのではないかと思う。本書はそんな僕たちの「予防」の書としても役に立つと思う。著者がいう「脳梗塞は性格習慣病」という言葉も、肝に銘じておきたい。

発達障害の話もよく耳にする。

本書の中に発達障害の話も出てくるが、この数年よく耳にするようになった。著者が語るように、軽い脳の障害を持ちながら、家族や周囲から理解されず、落ちこぼれていく子どもたちが大勢いるのではないかという指摘もうなづける。脳梗塞からのリハビリを支援してくれる理学療法士の知識やノウハウが、高齢者だけでなく、様々な発達障害の子どもたちにも活かされるべきだという著者の主張に一理あるように思える。

僕自身も発達障害児だったかも。

本書の中の発達障害の若者や著者の妻の話を読んでいて、ふと僕自身も、発達障害だったのではないかと思った。思い当たる節があるのだ。小学校、中学、高校と進学するなかで、いつも同級生に比べて、自分は幼い、人の気持ちがわからないと感じ続けていたこと。毎日コツコツする勉強が大の苦手で、いつも試験前の一夜漬けでなんとかしのいでいたこと。高校ぐらいまでは記憶力がよくて、教科書などは写真記憶的に丸暗記できていたこと。高校になって学年が進むにつれ、一夜漬けがだんだん通用しなくなると成績は下がる一方だった。大学に進んでも、まともに勉強した記憶がないのだ。注意欠陥と呼ばれる症状や学習障害についての記述を読んでいると、これって僕のことじゃない?と何度も思った。広告製作者、コピーライターとしてこれまでやってこれたのは、ひょっとしたら、広告の仕事のやりかたが「一夜漬け」もしくは追い詰められての「火事場の馬鹿力」に近かったからではないか。1日のうちで集中できる時間は、長くて2時間ぐらい。集中が途切れると、すぐ眠くなるのも昔からだ。長時間、作業をするときも、集中的な一夜漬けと休息の繰り返しというリズムを作って、なんとかやってきたのではないか。そんな気がする。

強い魂の物語

本書を薦めてくれたisii marikoさんも、著者の妻の強さに感銘を受けている。著者によると発達障害児童のなれの果てという妻のユニークさと可憐さ、強さに打たれる。この鈴木妻による「あとがき」も素敵だ。個人的には、今年いちばん感銘を受けた本かも。

 

池井戸潤「陸王」

著者の作品を初めて読んだ。「下町ロケット」は面白そうだったが、ベストセラーになり、映画やドラマになってしまうと、天邪鬼の虫が動いて敬遠していた。まずタイトルの「陸王」が目に飛び込んできた。今の人はほとんど誰も知らないと思うが、「陸王」は、昔の日本製オートバイのブランドのひとつである(本書には関係ない)。帯の「足袋作り百年の老舗がランニングシューズに挑む」というサブコピーで「ははあん」と内容を推測してしまった。読んでみると、まさに、その通りの内容だった。ランニングを趣味にしている人間には、「足袋」と「ランニング」の組み合わせと聞いて、ピンと来ることがあるのだ。

老舗足袋メーカーがランニングシューズに挑戦。

かつては200名近い従業員を抱え、 100年の歴史を持つ足袋メーカー「こはぜ屋」は、年々縮小し続ける需要に苦しんでいた。社長の宮沢は、取引先の百貨店で偶然、ビブラム社の5本指シューズ「Five Fingers」を目にして、マラソン足袋の開発を思いつく。その頃、ダイワ食品陸上部に所属する長距離ランナー茂木裕人は、京浜国際マラソンにおいて、 学生時代、箱根駅伝で争ったライバル毛塚直之との大接戦を演じる中、重大な故障で失速してしまう…。縮小する一方の需要に苦しむ地方の小さな老舗メーカー。箱根駅伝で活躍し、実業団陸上部に進んだ選手たちの栄光と挫折。巨大スポーツメーカーのサポートをめぐる熾烈な競争…。そこに、注目されはじめたランニングの新理論が絡んでいく。企業の、ビジネスの戦いに、駅伝やマラソンの戦いが加わって、物語が進んでいく。面白くないはずがないのだ。かなりの長編だが3日で読んでしまった。唯一物足りなかったところは、老舗の足袋メーカーならではの伝統技術が現代のランニングシューズ作りにどう活かされているのかがあまり描かれていないことだろうか。

裸足ランニングとメキシコの少数民族

本書の中で紹介されているタラウマラ族について。数年前、ベアフットランニングが話題を集めたことがあった。メキシコの山岳地帯に進む少数民族、タラウマラ族は「走る民」として知られている。年に1度開かれる祭りで彼らは、2日間にわたって走り続けるという。彼らは古タイヤの切れ端を使ったサンダルのような粗末な履物で100Km以上も走り続けることができるのだ。彼らのことを紹介した「BORN TO RUN」という本がランナー仲間の間でベストセラーになっていた。

クリストファー・マクドゥーガル「BORN TO RUN 走るために生まれた」 - 読書日記

その本によると、ナイキをはじめとする高機能シューズが、ランナーの故障の原因になっている可能性があるという。着地の衝撃を吸収する厚い靴底が、人間本来の走り方を変えてしまい、そのことに起因する足の故障が増加し、ランナーたちを苦しめている。いっそのこと、ランニングシューズを脱ぎ捨てて裸足で走ってみたらどうだろう、と始まったのが「ベアフットランニング」のムーブメントである。裸足で走ると、かかとからの着地ではなく、自然と足裏中央から前部の着地になる。それは人類が本来身につけていた走り方であり、故障も少ないのだという。そして裸足に近い感覚で走れるシューズが次々と発売される。その第1号が本書にも登場するビブラム社のFive  Fingersだった。

「5本指」という名のクツ - 読書日記

もともとヨットなどのデッキ用として開発されたものだが、ベアフットランナーたちが使用するようになり、ランニング専用モデルを発売するようになった。僕も初期のモデルを所有しているが、クッションがまったく無く、アスファルトの細かい凹凸や砂の一粒一粒まで感じ取れるようなダイレクトな感覚は鮮烈だった。衝撃吸収機能がまったく無いため、カカトからの着地は痛くて不可能。自然に、足裏の前部から真ん中を中心にした着地になる。これがすなわちフォアフット・ランニングやミッドフット・ランニングといわれる走法で、ケニアなど、少年時代に裸足で走っていたランナーに見られる走法だという。上記のタラウマラ族も、ミッドフット・ランニングで走るといわれている。本書の冒頭でも、足袋メーカーがランニングシューズ市場に参入する根拠として、ミッドフット・ランニングやフォアフット・ランニングが紹介されている。

 

 

 

 

トム・ヒレンブラント「ドローンランド」

近未来の交通とメディアの姿を描いたSFを探していて、本書に遭遇。高城剛の「空飛ぶロボットは黒猫の夢を見るか」が予言するような「インターネットにつながった自律型ドローンが日常のあらゆる空間を飛び交う未来」を描いたSF。著者はドイツ人で、料理ミステリーのシリーズが人気だという。本書は、2015年、ドイツ語圏において最優秀のミステリーに与えられる賞と最優秀なSFに与えられる賞を受賞している。

新世代のSFミステリー。

舞台は数十年未来のヨーロッパ。ブリュッセル郊外の農地で欧州議会の議員が射殺される。ユーロポールの主任警部アート・ファン・デア・ヴェスターホイゼンはイスラエル人アナリストのアヴァ・ビットマンとともに捜査を開始する。書き出しは、普通のミステリと変わらない。しかし捜査が始まると世界が一転する。あらゆるデータにアクセスできるスーパーコンピューター「テイレシアス:通称テリー」との対話により調査が進んでいく。そして「ミラースペース」と呼ばれるバーチャルリアリティ空間に入り込んでの捜査が面白い。ミラースペースとは、地上のあらゆる空間に入り込んだドローンが収集した情報で再構成されるVR空間である。そこでは、視覚はもちろん、触覚、嗅覚、味覚などまで再現される。ドローンが現場で収集したデータに、遺体の解剖や銃弾の弾道、殺害時の気象などのデータを加えて、犯行の瞬間を再構成することができる。警部たちは本部にいながら、ミラースペースの中の犯行現場に立ち、犯行の瞬間を見ることができるのだ。中でも圧巻は、遠く離れた犯人の隠れ家に突入する場面だろう。あらかじめ「ダニ」と呼ばれる微小ドローンを隠れ家に侵入させ、ミラースペースにリアルタイムで隠れ家の内部を再現しながら、その中に主人公が入り込む。主人公は、なんと犯人の側に立って突入隊を指揮するのだ。(もちろん犯人からは主人公の姿は見えない)本書は、ミステリでもあるので、ストーリーを紹介しないが、400ページ近い長編をいっきに読めた。

近未来のテクノロジーたち。

本書には多くの未来テクノロジーが登場する。大小の様々なドローン、スペックスと呼ばれるメディア眼鏡、衣服やテーブルなど、あらゆるものをディスプレイにするメディアフォイル、スプレーで壁などに吹き付けるだけで、ディスプレイになるスプレー塗料。自動運転の自動車…。ドローンは、宅配用から、暗殺用、パパラッチ用、モグラ型など、およそ考えられる限りの種類が登場する。またドローンを使って映像をインターネット上に公開する「ドロガー」なる人種も登場する。本書の秀逸さは、そんな様々な未来のガジェットたちを、とてもさりげなく登場人物たちに使わせていることだろう。

究極の監視社会が出現する。

本書に描かれたような、地上のあらゆる場所にドローンが出没し、情報を収集する社会というのは、間違いなく「監視社会」だろう。そして、あらゆるデータにアクセスできるスーパーコンピューターや人工知能につながる日が来るだろう。そんな未来を警告するにしては、本書は面白すぎる。