ウィリアム・ホープ・ホジスン「グレンキャリグ号のボート」

個人的な趣味の本の話。翻訳されるのを、40年近く、待ちに待って、待って、待ちくたびれて、諦めてしまっていた作品。英国の怪奇小説作家ウィリアム・ホープ・ホジスン(1877〜1918)の、ボーダーランド三部作と呼ばれる長編シリーズのひとつ。ナイトランド叢書から「幽霊海賊」「異次元を覗く家」に続いて刊行された。「幽霊海賊」と同様、ファンから翻訳が熱望されていたが、今日に至るまで実現しなかった。翻訳が待ちきれず、ホジスンファンの一人が、かなり詳しいあらすじという形でweb上に公開したものを読んだりしていた。まさに待ちに待って、待ちくたびれての刊行である。これでボーダーランド三部作が完結する。ほんとうに感慨深い。カバーの絵は、「幽霊海賊」「異次元を覗く家」と同じ中野緑さん。ホジスン作品だけではなく、シリーズ6冊とも彼女が手がけている。ちょっと萌えが入った絵は個人的には好みではないが。

読書日記「幽霊海賊」http://nightlander.hatenablog.com/entry/20150731/1438317124

冒頭から、いきなりホラー全開。

冒頭から、いきなり、主人公たちは救命ボートの上にいる。グレンキャリグ号が南の海で座礁、沈没し、乗組員たちは2艘のボートに分乗して漂流している。もう5日も陸を見ていない。6日目にようやく陸を発見し、近づいていく。やがて河口を見つけ、水を求めて河を遡っていく。しかし、何かがおかしい。土地は低く、低い樹木が茂り、藪が生えているが、生物の気配がまったくない。鳥も飛ばず、カエルの鳴き声も聞こえてこない。いくら遡っても、水は海水のままで、淡水にならない。

生きている肉

夕暮れが近づいた頃、周囲からむせび泣くような声が聞こえてくる。声は、呼応しあうように陸のあちこちから響いてくる。さらにその声に混じって、大きな動物らしい咆哮が聞こえてくる。夜が来ると、声はますます激しくなり、近づいてきて、ボートを取り囲む。船員たちは恐怖に怯えながら朝を待つ。夜が明けると、声たちは消えてゆく。さらに河を遡ると、支流の上流で岸に乗り上げて動けなくなった船を発見する。主人公たちはこの無人の船に乗り込み、食料などを探す。幸い食料は見つかるが、水はどこにも無い。船内で見つかった日記に、近くに真水の泉があるという記述があった。やがて夕方が近づくと、あの声が聞こえてくる。船乗りたちは、無人船の一室に立てこもって、夜をしのごうとする。果たしてその夜、怪物がやってくる。例によって怪物の詳細な姿は描かれていない。恐ろしい咆哮、大雑巾を引きずるような音、そして船室のガラス窓に貼りついた怪物の体の一部の描写が「生の牛肉からなる幾重もの肉襞だった」。

人面樹、人食い樹。

怪物の襲撃をしのぎ、ようやく朝を迎えた一行は、真水の確保のために上陸する。ほどなく真水の泉を発見するが、周囲には妖気が漂っていて船乗りたちを怯えさせる。大急ぎで水をボートまで運び、積み込み終えた頃には、夕暮れが近づいていた。主人公は、ボートに乗り込もうするその時、泉に武器の長刀を忘れてきたことを思い出す。すると一番若い見習い水夫のジョージが、自分が取ってくると叫んで、泉に向かった。水夫長がやってきて、少年を泉に行かせた主人公を叱り、自らは泉に急ぐ。主人公も一緒に、泉にたどり着く。しかしジョージはいない。水夫長がジョージの名を呼ぶと、離れたところから返事が聞こえた。走り寄って、ジョージを捕まえると、ジョージは長刀で何かを指し示した。主人公たちが、示された先をみると、木の幹にへばりついた一羽の鳥のようなものがあった。それは紛れもなく木の一部であったが、細部まで鳥の姿をしていた。水夫長が、ジョージに、なぜ、こんな先まで来たのかと問いただすと、彼は木立の間から「声」が聞こえてきたのだという。声を探して、ここまで来たところで、この「鳥」を発見したのだという。3人は急いでボートに戻ることにした。日は暮れようとしていた。そして、遠くから、あの、すすり泣くような声が聞こえてきた。その時、3人は異様なものを目撃する。それは木であった。木の幹に人の顔がついている。しかも幹の反対側には女性の顔が付いているのだ。その木が3人に向かって泣いたように見えた。水夫長は恐怖に駆られて、刀で木を斬りつけると、驚くことに赤い血液が流れ出た。木は悲痛極まりない声で泣きわめき、悶えはじめた。周囲の木も一斉に泣きながら揺れ始めた。すると枝の先についていたキャベツのような実がヘビのように主人公たちに向かってきた。襲ってくる「実」を長刀で切り捨てながら3人はボートへ走った。ようやくボートに飛び乗ると、大急ぎで岸を離れ、河を下った。一行は海に出てようやく一息つくことができた…。しかし、この冒険は、ほんの序章に過ぎなかった。一行はとてつもない大嵐に襲われた後、さらに恐ろしい海域に入り込んでいく。

帆船時代の階級社会。

本書を読んで、興味深いのが当時の船乗りの世界の階級だ。主人公は、いわゆる郷紳階級に属する若者であり、グレンキャリグ号の客である。いっぽう遭難した船乗りたちの指揮をとるのは水夫長である。船長は座礁・沈没の際に死んだか行方不明になっているらしい。水夫長は、すべてを知り、判断し、決断する。その知識・知性ともに群を抜いて優れている。彼の命令は絶対であり、船の客である主人公もそれに従わなければならない。無事に脱出できた後、水夫長は、主人公を自分の指揮下に置くのをやめ、客として遇しようとするが、主人公は、それを拒否し、港に帰りつくまで、乗組員の一人として扱うように求める。また当時は、文字の読み書きができる者が少なく、他の船との手紙のやりとりも文字が書ける主人公や他の客が受け持つことになる。文字の読み書きができるということは、現代なら無線通信の資格を持っているぐらい貴重なスキルだったのだろう。

ホジスン 海洋奇譚の集大成。

ホジスンは、13歳の時から見習い水夫として船に乗り、 苦労を重ねて航海士になった。その時の体験を活かして、海洋を舞台にした怪奇小説を多く書いているが、本書は、その集大成といえる作品。船を閉じ込めて航行不能にする海藻の海、巨大なキノコに覆われた島、不気味な難破船、人を襲う巨大なカニやタコ、正体不明の凶暴な怪物、人 食い植物、人面樹、海藻人…。これまで短編作品の中でしかお目にかかれなかった怪異のオンパレードである。昨年翻訳された「幽霊海賊」が、幽霊船や幽霊のような 超常現象を描いたの対して、本書は、南の海のどこかに存在するかもしれない秘境を描いた作品であるといえる。この2冊を読めば、海洋怪奇小説のほとんどの要素が網羅されていると思う。しかし、本書にはホジスンの大きな特色のひとつである、宇宙的ともいえる壮大なビジョンは感じられない。「異次元を覗く家」や「ナイトランド」の世界だ。ホジスンは怪奇小説作家と言われるが、彼が描く作品には、どこかジュール・ヴェルヌコナン・ドイル、H.G.ウエルズなどのSF作家たちと同じ匂いがある。本書を読んで、「異次元を覗く家」「ナイトランド」をもう一度読みたくなった。

 

加藤典洋「村上春樹イエローページ1/2/3」

同じ著者による「村上春樹はむずかしい」を読んで、さらに、初期の村上作品を再読してみて、色々と考えさせられるところがあった。そこで「村上春樹はむずかしい」の前身とも言える本書も読んでみることにした。幻冬社から文庫で出ているが、1、2は絶版。3も大手書店には在庫がなく、アマゾンで古本購入。「風の歌を聴け」から「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」までをカバーした「1」だけを読むつもりだったが、結局「3」まで読んでしまった。

40年読み続けている作家の批評を読むこと。

20代初めから読み始め、40年近く経った今も読み続けている小説家は、そうたくさんいない。村上春樹は、その数少ない中の一人。しかも初期の頃は反発を覚えながら読み続け、最近の十数年になって、共感をもって読むようになったという経緯がある作家は、村上春樹しかいない。そんな作家の仕事を、早くから評価し、長年にわたって批評してきた著者による、詳細を極めた読解である。本書の3巻を費やして語られる村上作品の、ほぼ全部を自分が読んでいるということが、本書の読書体験を特別で濃密なものにする。それは自分自身が生きてきた40年をたどり直す体験でもあるからだ。本書を読みながら、様々な記憶が蘇ってくる。多くの事件、様々な流行、読んできた膨大な本、観た映画の数々、恋愛や結婚、そして仕事のこと…。本書の中で紹介される村上作品のディテールを読んでいるうちに、忘れていた記憶が不意によみがえってきて、思わず本を閉じてしまいたくなる瞬間が何度もあった。こんな読書体験は、ちょっとできない。

多視点による読解。

自分が読み続けてきた一人の作家の作品群を、これほど徹底的に詳細に解剖した本は他にない。大学の講義の一環として行われた、「複数の読者による多視点の読解」という試みによるところも大きいと思う。一人の読者なら見落としてしまいそうな「気づき」が随所に散りばめられている。さらに煩わしいほど頻繁に出てくる「図解」や詳細な「表」によって、読者は、新たな視点に立たされて、作品を見つめることになるのだ。ふだんの一般的なリニアな流れの文章に慣れた読者は、慣れるまで時間を要するかもしれない。作品をめぐるちょっとしたコラムのような文章も、多視点ならではの読解で、面白い。時間軸に沿って旅をする「村上春樹ワンダーランド」を歩くためのガイドブックのようだ。作品の世界と、村上春樹のバイオグラフィに、時代の潮流、さらに自分自身の記憶をもたどることになるので、読後感としては、壮大なオデッセイから帰ってきたような達成感と疲労を感じた。

穿ちすぎの解釈。

著者による解釈は、時には拡大解釈しすぎだろうと感じるほど大きく飛躍する。それは、時には納得できないほど遠くへ読者を連れていく。まあ、それも面白い。著者による村上作品の解釈は、「風の歌を聴け」に始まる初期の三部作の解釈を除けば、ほぼ納得できた。 納得できなかった解釈とは、初期三部作の中で、登場人物の「鼠」がすでに死んでおり、登場してくるのは「幽霊」としてであるという解釈である。著者がそのように解釈する理由は理解できないことはないが、個人的には飛躍しすぎであると感じた。

時代の賜物。

本書を読むと、村上春樹という作家も、様々な時代の潮流の影響を受けていることがわかる。ビージーズの歌、コッポラの「地獄の黙示録」スティーブンキングのホラー小説、そして阪神大震災地下鉄サリン事件、神戸の少年Aの殺人事件…。村上作品は、これらの事件や潮流から、時には無意識のうちに影響を受けているという。

 阪神大震災とオウム。

イエローページ3では、その中でも、阪神大震災地下鉄サリン事件村上春樹という作家に及ぼした影響と、それによって引き起こされた変化について、詳細に語っている。地下鉄サリン事件の被害者にインタビューした「アンダーグラウンド」。元オウム信者と現オウム信者にインタビューした「約束された場所で アンダーグラウンド2」。僕自身も、この2冊を境に、村上春樹に対する読み方が変わっていったことを覚えている。本書ほど精緻に読んだわけではないが、サリン事件の被害者からは「普通の人のすごさ」を発見。元オウム信者からは「オウムの荒唐無稽な稚拙な物語が持つ力」を思い知らされる。それ以降、村上春樹は「神の子どもたちはみな踊る」「アフターダーク」など、従来の自閉的な世界と抽象的なパラレルワールドで成り立つ世界とは大きく異なる領域に踏み出してゆく。それは「スプートニクの恋人」「海辺のカフカ」を経て、大作「1Q84」につながっていく。作家の中に起きた、大きな変化を、著者は、推理小説の探偵のように、様々な証拠を提示しながら丁寧にたどってゆく。その過程は本書のいちばんの読みどころである。

「3」がいちばん面白い。

3冊の中で、やはり3がいちばん面白く読めた。それは僕自身が、村上春樹への共感を持つようになった時期の作品を読み解いているからだろう。最後のほうの、村上春樹が翻訳したサリンジャーキャッチャー・イン・ザ・ライ」をめぐる読解も、とても面白く読めた。

詳細な読解に耐える村上ワールド。

それにしても、このような詳細な読解や考証に耐える村上ワールドとはいったい何だろう。日本の現役作家で、そんな小説家は他にいない。著者によると、村上春樹は、その創作の大半を無意識の部分によって行っているからであるという。そして、村上は、デビューの頃から、現在まで、そのやり方を頑固なまでに守り続けているという。最相葉月のノンフィクション「セラピスト」の中で語られる「絵画療法」の、言葉(因果律)に縛られない対話が、患者を癒すのだという一節を思い出した。言葉では語ることができない「無意識の物語」を、言葉による小説で表現しようとする、矛盾に満ちた創作の困難さを思わずにいられない。

高城剛「空飛ぶロボットは黒猫の夢を見るか? ドローンを制する者は世界を制す」

読んで、かなりショックを受けた。これまで著者の本を何冊読んできたことだろう。怪しいという人もいるが、新しいトレンドを嗅ぎ分ける嗅覚の鋭さと、自身のライフスタイルすらガラリと変化させてサバイバルしていく柔軟性には、いつも驚かされる。著者は、2012年、フランス・パロット社のARドローンを購入して以来、ドローンに夢中になり、数十台のドローンを購入、総額1000万円以上を費やしたという。タイトルはもちろんP.K.ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」へのオマージュ。黒猫はクロネコヤマトから。           ※写真は2010年に僕自身が購入したパロット社のARドローン初代機

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2015年、ドローンは突然、注目を浴びた。

2015年4月、首相官邸の屋上にドローンが落下。5月の三社祭りにドローンを飛ばすと予告した少年が逮捕された…。ドローンは、日本では、どちらかというと人騒がせな事件によって注目を集めた。その時点で日本にはドローンを規制する法律は存在しなかった。政府は大急ぎで法整備を急いだ。その後も、ドローンに関する報道は事件が中心だった。しかしamazonがドローンによる宅配の実験を進めているなどの情報が紹介されると、今度はビジネスの面で俄然、注目を浴びるようになった。安倍政権は「ロボット革命実現会議」を設置。12月には、千葉県をドローン特区にして、ドローンによる宅配実験を始め、3年以内に同県で宅配サービスを開始するとしている。ソニーモバイルも、ロボットベンチャーZMPとコラボで、ドローンビジネスを立ち上げた。インターネットがモノの世界とつながっていくIoT(Internet of Things)の時代、ドローンは、その切り札となるテクノロジーであると位置付けられるようになった。

2種類のドローン

著者は、ドローンには2種類あるという。インターネットの延長としてのドローンとそうでないドローン。後者は、いわ ばラジコンヘリの延長であり、操縦者が必ず操縦して飛行させる、現在、空撮などに使用されているドローンだ。著者が注目するドローンはもちろん前者である。GPS電子コンパスによって自動飛行し、様々な目的に使用される。空撮、農薬散布、商品の宅配、災害現場や火山など危険箇所の観測、測量など、その 用途は、今後ますます広がっていく。

空飛ぶスマホ

著者は、さらにドローンは「空飛ぶスマホ」であるという。CPU、通信モ ジュールを持ち、GPS電子コンパス、ジャイロ、様々なセンサー、そしてカメラまでも備えている。違いは「空を飛んで移動する」こと。ここ数年の間に、 スマホが私たちの生活を大きく変えたように、この「空飛ぶスマホ」は、これからのくらしをガラリと変えてしまう可能性がある。

ECのラストワンマイルをドローンが担う時代がくる。

著者は、今後、モノのインターネットではなく、インターネットのモノ化が進んでいくという。サイバースペースは、これから現実の物理空間に拡張されていく。その時、ドローンが大きな役割を果たすの だと、著者は予測する。音楽や映像や電子書籍ならデジタル化して、インターネットで流通させることができる。しかし実際のモノを送るためには、既存の宅配 サービスを使わなくてはならない。ECサイトamazonでは、約5件に1件が配達先不在であり、それを人間が行うコストは馬鹿にならない。物流のラス トワンマイルともいえるこの宅配業務をドローンに置き換えることができたら大きなコスト削減になるという。Googleがインターネット上のあらゆる情報 をクローリングで読み取り、アクアセス可能な形に再構成したように、リアル世界の隅々までアクセス可能にする、その鍵を握るのがドローンだという。

ラジコンヘリとの違い。

無線で操縦する飛行機やヘリコプターは以前からあった。ドローンはそれらとどこが違うのだろう。著者によると 自律性だという。従来のラジコンヘリは、操縦のすべてを人間が行う必要があったため、操縦は、本物のヘリコプターに匹敵するほど難しかったという。これに 対してドローンには、ジャイロコンパスや各種のセンサー、GPS受信チップが搭載され、ある程度自律的に飛行することができる。飛行中、操縦を止めても、 そのまま自動的に空間に浮かんでホバリング(空中停止)を続けることができる。また操縦そのもの格段に優しくなっている。あらかじめ指定したコースを自動 飛行したり、人物などの移動体を追跡することも可能。

ドローンで、モノづくり王国・日本が復活なるか?

ハードウエアとソフトウエアが一体となった開発が求められるドローンは、モノづくり大国・日本が復活する大きなチャンスになるのではないか…。僕自身、そんな希望をいだいて日本のドローン開発に注目していた。ヤマハ発動機は、早くから農薬散布や空中作業を行う大型のラジコンヘリコプターを製造している。しかもドローンに使用される多くの部品が日本製だという。センサ類、電子コンパス、小型カメラ、画像処理チップ…。工業ロボットでも高いシェアを持つ日本。AIBOを生み、ASIMOを生み、ペッパーだって発売しているロボット先進国日本の出番だ。しかし本書を読むと、そんな希望は、ほぼ打ち砕かれる。

日本はドローン開発で大きく出遅れている。

著者によると、日本がドローンのビジネスで世界をリードするのは、ほとんど絶望的であるという。様々なセンサやカメラ、画像処理技術などドローンに使われている部品の多くが日本製である。DJIの開発者は、自社のドローンが準日本製であるとすら語っている。それにもかかわらず日本からは有力なドローンメーカーが出てこないのはなぜなのか?著者はドローン市場を牽引する3つのドローンメーカーのトップにインタビューを試みて、その答を見つけようとする。

世界の3大ドローンメーカー。

現在、ドローン市場を牽引しているのは3つのドローンメーカーである。雑誌Wiredの編集長で、「ロングテール」「Free」「Makers」等の著者であったクリス・アンダーソンが起こした3Dロボティックス社。中国南部の深圳(しんせん)に拠点を置くDJI。そしてフランスのパロット社である。3社はそれぞれがまったく違う特色を持った企業である。著者は、3社を訪れ、それぞれのトップに話を聞いている。3Dロボティックス社は、創立当初からオープンソース戦略を採用。世界中のユーザーや技術者とともに開発を進めてきた。DJIは3Dロボティックス社と正反対で、徹底した独裁主義、秘密主義を貫いている。DJIは本部の所在すら明らかにしておらず、本部が入っているビルも看板等はなく、外部からはまったくわからないという。この秘密主義のDJIが、現在、世界のドローンの7割を占めているという。DJIがドローン市場の先頭を走っている理由は、ハード、ソフト一体となった開発スピードにある。3番目はフランスのパロット社。著者が最初に買ったドローンがフランスのパロット社製だった。同社のドローンは、産業や流通のあり方を変えるドローンではなく、あくまで「美しくて、楽しいおもちゃ」である。しかし、おもちゃとはいえ、その性能はあなどれない。

広東チャイニーズシリコンバレー、深圳のスピード。

DJIの圧倒的な開発スピードを生み出しているのは、同社が拠点を置く深圳という街だという。深圳という都市は、90年代に世界中のアパレルブランドの製造拠点として発展し、近年はテクノロジー化が急速に進み、広東チャイニーズシリコンバレーと言われるほど大発展を遂げている。中国は、国を挙げて、この地域に人材とマネーと集中させて、世界最大の製造拠点を作りあげてきたという。深圳にはドローン工場、ドローンの部品を製造する大小の工場が数多く存在し、ドローンビジネスを支えている。そこには、かつて秋葉原に大勢いたようなモノづくりおじさんやにいさんが現在もたくさんいて、どんな要求にも応えてくれるという。ドローンを作りたければ、深圳に出かけて、製造のコーディネート会社に希望するスペックを伝えると、3〜4日で試作サンプルが出来上がってくる。それが気に入れば、量産の見積もりは1日でアップ。日本なら「いったん預からせてもらいます」と持ち帰って、2週間は待たされるのが普通だが、その頃には深圳では、量産が始まっている。このすさまじいばかりスピードはシリコンバレーをもはるかにしのぐ。深圳の1週間は、シリコンバレーの1ヶ月間に匹敵すると言われているが、著者によると、ドローンの分野ではもっと差が開いているという。3Dロボティクス社が3ヶ月かけてやることをDJIは1週間で済ませているらしい。シリコンバレーには、パソコンの黎明期には、大小の工場がたくさん存在し、そこからアップルやマイクロソフトが出てきたが、ビジネスの中心がハードからソフトやネットに移行した段階で、ハードが陳腐化し、付加価値を生み出せなくなったため、モノづくりそのものが南米やアジアに移転してしまい、国内でハードウェアを開発・製造する環境がなくなってしまった。3Dロボティクス社のドローンも、DJI近くの工場で生産されているという。

アメリカは軍用ドローンの実績がある。

民生用ドローンの開発では大きく水をあけられたアメリカだが、軍事用ドローンに目を向けると、多くの蓄積がある。膨大な予算を投じて開発される軍事用ドローンには、民間企業では難しいブレイクスルーが起きる可能性が高いという。それらに関わった技術者が民間企業に下ることで、イノベーションとなり、中国をいっきに逆転する可能性は十分にあるという。

日本発のドローン。

このような状況の中で、日本発のドローンは可能なのか。著者によれば、よほどのことがなければ、日本がドローンビジネスをリードすることはありえないだろうという。著者によると、最も大きな理由が、起業家や経営者の「博才感」であるという。ものになるかどうかわからないものに「賭ける度胸」というのか。「失われた25年」で日本が失ったのは、この「賭ける度胸」だという。日本では、誰もリスクをとらず、国家からの補助金の奪い合いだけが横行し、何か問題が起きても自分の責任を回避できる状態にならなければ何事も決定しないという。そして、その段階では、当たろうが失敗しようがどうでもいい話になってしまっている…。著者が、これまで関わってきた日本のドローン関係者に対しては終始辛口だ。

日本の進むべき道はあるか?

徹底した秘密主義と独裁、そして圧倒的なスピードで先行する中国は、日本の協力など必要としていない。そして同じ中国人どうしでも信用しない中国の企業が日本を信用するわけがないという。ソニーモバイルの試みも、あまりにスケールが小さいという。デジタル一眼のブランドであるαの名を冠したドローンを出すぐらい思い切ったことをやらなければ勝ち目はないだろうという。日本に残された道は、オープンソース戦略を選んだアメリカと協力関係を保ちながら、中国に負けないドローンを開発することだという。さらに日本独自の「3Dスマートタウン」や「ドローンシティ」といったシステムインテグレーションのノウハウを構築することにある、と、著者は考えているという。

これはドローンだけの話ではない。未来の覇権を争う米中戦争の話なのだ。

本書を読み終えて感じたこと。僕自身も2010年に、本書にも登場するパロット社のARドローン初代を購入。まだ搭載カメラも貧弱で、飛行時間も短かったが、スマホで操縦する、その面白さに魅了され、大きな可能性を感じた。将来は、ランニングの練習に出かけるときに、ドローンがついてきて、水を運んでくれたり、ペースやタイムを教えてくれたり、暑いときは、空飛ぶ扇風機になってくれたりする…みたいな妄想を楽しんでいたことを思い出した。それから5年、ドローンは、あっという間にロボティクス革命の先端に躍り出た。著者によるドローンをめぐる米中の覇権争いの実態を知るにつれ、これは、単に空飛ぶロボットの話ではなく、未来の覇権をめぐる米中戦争の話なのだ、と思った。そして日本が、その競争に加わることは、ほとんど無理だということもわかって、ショックを受けた。著者が最後に日本が生き残る道として提示した、「ドローンシティ」のような、システムインテグレーションの方向も、そんなに簡単ではないだろう、と思った。

 

ミシェル・ウエルベック「服従」

これも原さんから。フランスにイスラム政権が誕生するという架空の近未来を描いた小説。日本の読者の間でもかなり話題になっている。読んでみてとても面白かったのだけれど、僕の知見では、要約や批評的な文章は到底無理。フランスにイスラム政権が成立する過程の政治闘争や選挙の話はほとんど理解できず、また主人公が研究している19世紀の作家J.K.ユイスマンスも一冊も読んだことがないので、僕には、本書を語る資格なし。だから、とりあえずの読後感想を記す。

ディストピア小説、ではないが…。

最初に読み始めた時は、オーウェルの「1984」みたいなディストピア小説かなあ、と思ったけれど、読み進むにしたがって印象が変わってくる。日本で、イスラム政権成立なんていう設定の小説を書くとしたら、SFにしかならないけど、フランスではリアリティがあるのかもしれない。中東やアラブ諸国に隣接し、移民や難民の問題が深刻化するヨーロッパでは、ありうる話として捉えられているかもしれない。

主人公のフランソワは、19世紀のデカダン派の作家、ユイスマンスを研究する大学教授。パリ在住の44歳。研究のかたわら、ガールフレンドや女子学生とのセックスを楽しんいる。少ない講義のほかは、同僚の教員とのつきあいや大学のパーティなどが、彼の日常となっている。政治には興味を持っているが、距離を置いている。そんな彼の日常が、大統領選挙をきっかけに、少しずつ侵食されていく。パーティの後、友人の家に向かう途中、爆竹のような銃声を聞く。

世界は、こんな風に変わっていく。

本書を読んで、人々の生活を根底から覆すような政治体制の変化も、その始まりは、本書が描くように、日常の中に「銃声」のような小さな異物が紛れこんでくることから始まるのだなと思った。僕らも、ある日、街なかで、本物の銃声を聞いた時、それを銃声と認識するのは難しいだろう。なぜなら、本物の銃声をじかに耳にしたことがある人間なんてこの日本ではほんとうに少ないからだ。そして、知らず知らずの内に侵食は進行し、ある日、自分がまったく違う世界の中にいることに気がつく。主人公は、ある日、大学の中に入ることを拒絶される。大学の教員は全員がイスラム信者でなければならなくなり、主人公は、解雇される。しかしサウジアラビアのオイルマネーをバックに持つ政権は裕福で、主人公の生活は年金によって保障される。しかし主人公の才能を惜しむ大学の関係者は、主人公にイスラム教への改宗を勧める。そして結局、主人公は、イスラム教徒になり、大学への復職を果たす…。

ヨーロッパが壊れかけている。

本書の解説で、佐藤優は、本書がヨーロッパに人々に衝撃を与えた理由のひとつとして友人の「ヨーロッパが壊れかけているからだ」という説を紹介している。「ギリシア危機に象徴されるようにEUの通貨統合は危機に瀕している。(中略)現在、EUが経済的、政治的に統合できると考えているヨーロッパ人はいない。EUは再び分解過程を歩み始めている。EUが分解し、ドイツとフランスが対立するようになると再び戦争が発生するのではないかという不安がヨーロッパ人の深層心理に潜んでいる」「21世紀の独仏戦争?」「そうだ。EUが分解するとその危険が生じる。それよりもイスラム教のもとでヨーロッパの統一と平和が維持される方がいいのではないかという作業仮説をウエルベックは『服従』で提示しているのではないかと思う。ヨーロッパ人は、自らが内的生命力を失ってしまっているのではないかと恐れている。この恐れが『服従』からひしひしと伝わってくる」

ますます混迷に向かう世界の中で。

本書を読んでつくづく思うのは、僕らが拠って立つべき精神的基盤ともいえる知識や教養の脆弱さ。そして民主主義や自由主義には、政教一致の圧倒的な強みを持つイスラム主義に対抗するパワーがないことである。21世紀になっても、世界は有効な社会や国家のカタチを見つけられずにいるということ。

ifの力。これはSFだ。

ウエルベックの、この想像力。僕に言わせると「SF」だ。読んでいて楽しくはないが、ゾクゾクする作家。もっと読みたい。幸いなことに数冊が文庫化されている。さっそく「素粒子」を買って、読み始めた。

第36回篠山ABCマラソン・ギリギリ完走記

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ゴールの関門閉鎖まであと3分!

篠山城の堀端の道から左へ折れるとゴールまで200mほど。コース脇の観客が「あと3分や!」と叫ぶ。動かない足を無理やり動かして、ペースを上げる。ようやく、やっと、ゴール!タイムは5時間7分55秒。未登録男子完走者5325人中5213位で完走。ひどいタイムだ。全行程が雨だった去年よりも20分近く遅い、36km関門にわずか10秒の差で間に合わなかった一昨年をのぞけば最悪のタイム。理由はわかっている。「練習不足」。それにつきる。この半年ほど、週1〜2回は走っていたが、いいかげんな練習しかしてなかった。今年に入って、20km超の練習は4回のみで 、そのうち30kmが1回だけ。以前ならレースの3ヶ月前から続けていた腹筋も、スクワットも、JRの北新地駅の階段登りも、自宅マンションの9階まで階段登りもほとんどやらなかった。それでも全行程雨という最悪のコンディションだった去年よりは、いいタイムが出るだろう、とタカをくくっていた。マラソンは正直だ。「走った距離は裏切らない」と高橋尚子は言ったが、「走らなかった距離のツケは必ず返ってくる」というのが、今回の教訓。

15回目のフル。練習のモチベーションが上がらない。

2011年の篠山での4時間35分が最速で、それ以降、自己記録も更新できずにいる。ちゃんと練習すればタイムは良くなるはずだが、練習に身が入らないのだ。去年の秋から週3回走ろうと決めたが、ほとんどできていない。近くのランニングクラブにでも入ろうかとも思うが、面倒さが先に立つ。マラソンは一人でできるスポーツだからいいのだ。不規則に仕事が忙しくなるのも練習ができない理由だが、そんなことは言い訳にはならない。要するに10年近くもランニングを続けてきて、マンネリに陥っているのだ。そしてモチベーションが上がらない理由がもうひとつある。

花粉症。

4年ぐらい前から症状が出始めた。2月になると、鼻と目がかゆくなり、鼻水が止まらないようになる。ランニングに出ると、3kmほど走ると症状が出てくる。マスクをして走ってみたが、とても走れるものではない。元々鼻が詰まり気味なので、走る時は口を開けたまま走っているらしく、マスクをすると呼吸困難になってしまう。一昨年の2月半ばに、突然の高熱と浮腫に襲われた。39度の熱が4日ほど続き、浮腫が引くまで1週間ほどを要した。去年も同じ頃、同じ症状に見舞われた。症状は同じだが、期間が半分ぐらいにとどまった。医者は花粉症を疑った。スギ花粉が飛び始めて、最初のピークの頃に発症するのかもしれない。今年は、念のために、花粉が飛ぶ前から薬を服用することにした。それが効いたのか、今年は高熱は出ずに、大会日を迎えた。しかし大会の数日前から花粉のピーク期がはじまり、マスクなしで出歩くと鼻の調子が悪くなった。練習に出る時はハンディティッシュを2〜3個はウエストバッグに入れてスタートし、1〜2kmごとに鼻をかみながら走っていた。フルを走るとどうなるか心配だ。

当日。

朝は、5時起き。洗面と食事を済ませ、6時30分ごろ、自宅を出発。篠山付近の天気予報は、午後の降水確率が40%。一応雨の装備も持っていくことにした。中国自動車道舞鶴自動車道は渋滞もなく、丹南篠山口まで30分ほどで到着。出口付近で少し渋滞。まっすぐに3年間使用している駐車場へ向かう。駐車場到着7時15分ぐらい。6割ほどが埋まっている。スタートが10時50分、ランナー集合が10時〜なので、時間がたっぷりある。昨年からゼッケン、シューズ用のICタグを事前に郵送してくるので、当日の受付は必要なくなったが、記念品のTシャツとプログラムをもらいに大会会場に行く。クルマに戻ると、まだ8時過ぎ。スタートまで3時間近くあるのでクルマの中で少し眠ることにする。1時間ほど眠って9時に起きる。トイレを済ませた後、着替える。気温はすでに15度を越えているので、トップは、防寒ではないCWXの薄手の長袖の速乾性Tシャツ1枚で行くことにする。ボトムは、サポート機能が無いミズノのタイツの上に膝丈のナイキのパンツを履く。シューズは、すでに500km近く走ったニューバランス。帽子は暑くなることを考慮してナイキのバイザーにする。ウエストバッグはハンディティッシュを6パックとジェルサプリを3本を入れるといっぱいになった。天気予報では午後の遅めから雨だが、雨の装備は持たずに行くことにする。左手にガーミンのGPSウオッチ、右手にはApple Watchを装着するが、iPhoneと通信するとiPhone側のバッテリーがもたないので、接続なしで使用する。念のため各関門閉鎖の時間を記した紙をiPhoneの背面に貼り付けておく。着替えを済ませて、荷物を預けに行くと、まだ9時半。しかたなく、会場そばの篠山城趾を散策する。10時前に集合場所に並ぶ。今年もCブロックだ。前方のほうでは開会式が始まろうとしている。篠山市長の挨拶の中で、完走メダルを今年から丹波焼にしたという。ゲストの有森裕子やかつみやさゆりの紹介と挨拶があり、ゲストランナーとしてタレントの野々村真が紹介される。早くから並んだせいもあり、今回はCブロックの2列目に並ぶ。今年は特別暖かいので、スタート前の寒さをしのぐビニールポンチョも必要なし。手袋も無しでスタートを待つ。

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レース。

10時40分に登録組がスタートした後、10時50分に未登録組がスタート。号砲が聞こえてからスタートラインを通過するまで3分を要した。スタート直後からどんどん抜かれる。事前に申請している目標タイムがサブ4ぎりぎりなので、こういうことになる。例年は、だいたい5kmぐらいまでは抜かれる一方で、5kmから10kmぐらいの間で周囲とのペースが一致してくる。しかし今年は、5kmを過ぎて、10kmを過ぎてもどんどん抜かれていく。第1関門の6.8 kmは12分の余裕で通過。昨年は15分の余裕だったので、ちょっと遅い。前半の15kmぐらいまでは、走る方向がころころ変わるため自分が今どちらを向いて走っているのか、わからなくなるの。それは6回目でもあまり変わらない。気がつくと鼻水が止まっている。5kmを越えたところで、1度鼻をかんだあと、数kmは鼻をかまずにすんだ。給水所で止まる度に鼻をかむが、それ以外は大丈夫だった。

6パック用意したハンディティッシュは結局2パックしか使わなかった。第2関門は18.2kmで13:05閉鎖。ここを13~14分ぐらいの余裕で通過した。期待したほど貯金できていない。第3関門の24.1kmを12分の余裕で通過。貯金が1分マイナス。20km過ぎから山沿いの集落を抜けてゆくが、細かいアップダウンがある。「あれ、この辺りはこんなに坂が多かったっけ?」と感じるのは、練習ができていない証拠である。しかも、気温がぐんぐん上がってきて、大量の汗をかいている。後半が心配になってきた。案の定、20kmを越えた辺りから、急に足が重たくなってきた。タイムのほうも25kmのキロ6分25分を最後に、キロ7分を越えるようになってきた。次の関門までは、山の中に入って谷道をだらだら登って行く、コース中いちばん辛い区間になる。 しし汁のコーナーを横目に見て、懸命に足を動かす。給水所では、できるだけ水をたくさん飲むようにする。山裾を縫うようにして続く道のはるか向こうまで延々とランナーの列が続いている。

貯金が減っていく。

30.6kmの関門は9分の余裕で通過。貯金が3分減っている。関門を越えてしばらく走って、ようやく折り返し地点。ここからは下る一方なので、少し楽になるはずだ。給水のタイミングでストレッチを行い、エアサロンパスをスプレー。2つ目のジェルサプリを摂って回復をはかる。しかし足の重さは変わらず、ペースが上がらない。一昨年は、30.6km関門通過で気を許してしまい、次の関門でアウトになった、苦い経験がある。ペースは上がらないが、足を止めないようにだけ心がけて、第5関門をめざす。36.3kmの第5関門を5分あまりの余裕で通過。貯金はマイナス4分。第5関門をギリギリで通過したランナーは、ほとんど全員が立ち止まって休んでいる。僕も立ち止まってストレッチなどをしながら休む。ゴールまで残り6km足らず。それを50分以内で走ればいいのだから楽勝だと、その時は思った。

関門閉鎖2分前。

最後のジェルサプリを飲み込み、念入りにストレッチをして、エアサロンパスをかけて、再び走り始める。しかし一度止まってしまうと、走り出してもなかなかペースが上がらない。思わず立ち止まってしまうのを無理やり動かして前に進む。篠山川沿いに出ると、あと5km。今年は、ここからが長かった。ペースが遅いから、よけいに長く感じる。最後尾に近いので、歩いているランナーが多い。しかし、ここで歩いていてはゴールに間に合わないことを彼らは知っているのだろうか?ゴール閉鎖は4時。現在時刻は3時20分。キロ7分なら間に合うが、キロ8分だとギリギリだ。さっきからペースはキロ7分後半に落ちている。今年初めて採用された丹波焼のメダルをもらうんだ、と自分に言い聞かせる。ようやく、ゴール地点の篠山城址が見えてきた。そして川沿いを離れ、北へ。堀端の道に出ると、観客から「あと4分」と叫ぶ声。もう大丈夫だと思うが、必死にペースを上げる。堀端の道から左に折れるとゴールまで200 m。沿道から「あと3分」の声がかかる。さらにペースを上げて数人を抜いてゴールした。丹波焼の完走メダルをかけてもらい、シューズのICチップを外してもらう。のどが異常に乾いている。水をもらおうと探すが、水のコーナーがない。完走したランナーの大半は、水をもらっているのに品切れらしい。しかたなく、手荷物を引き取って、クルマに向かう。もう道路の交通規制は終わっており、堀端の道を歩いて、クルマに戻る。途中の自動販売機でスポーツドリンクを購入、ようやく乾きを癒すことができた。今回は例年になく消耗している。不思議なことに、止まっていた鼻水が、戻ってきた。着替えて、トイレで顔を洗って、5時頃、駐車場を出る。舞鶴自動車道に乗るまでの道は、いつも混むので、農道のような細い道を抜けていく。しかし、交差点で事故があり、事故車が道を塞いでいて、先に行けない。しかたなく、後戻りして、別のルートを行くが、舞鶴自動車道への入口から遠ざかるいっぽうなので、諦めて国道176号線を南下する。三田まで戻ってきて三田西ICから乗ろうとするが、中国自動車道が宝塚を先頭に15kmの渋滞の表示を見て、176号のまま宝塚へ向かう。こちらも宝塚の手前で渋滞につかまり、家に帰り着いたのは、7時を過ぎていた。風呂に入って、ご飯を食べながら「真田丸」を見ているうちにウトウトしはじめた。10時前にベッドに入ったが、筋肉痛がひどく、なかなか眠れない。3日間、痛みがとれなかった。こんな風になるのは、最初にフルマラソンを走った時以来だ。それだけ練習が足りず、身体の準備が整ってなかったのだと反省。マラソンは、正直だ。

次はどうする。
これからも普段のランニングは続けると思うが、マラソン大会に出るかどうかは未定。15回もフルを走っているのに、タイムは変わりばえせず、マンネリ気味。ウルトラや、トライアスロン、トレランをやるべきなのかな。自転車にも興味がある。今年は、ランを控えめにして、別のことを考えてみようと思う。
結果:グロスタイム 5:07:55 ネットタイム 05:03:31 順位 5324人中5212位

 

牧村泉「梅ケ谷ゴミ屋敷の憂鬱」

友人の寺久保さんのおすすめ。著者は、コピーライターから作家に転身、2002年、「邪光」で第3回ホラー&サスペンス大賞を受賞。寺久保さんが開いた集まりで会ったことがあるかないか…。「邪光」は読んだ。主人公の女性の心理描写が巧みで、平凡な主婦がじわじわと壊れていく過程がリアルに描かれていて、並々ならぬ才能だと感じた。焦らしながら、読者を恐怖に追い詰めていく感じは、ちょっとスティーブン・キングを思わせた。これが4作目。寡作な人なのかな。

今回はホラーじゃない。

今回はホラーではなく、ちょっと変わったホームドラマみたいなストーリー。主人公、珠希は、東京に住む主婦。広告代理店の営業マンである夫が突然、広告代理店をやめ、叔父夫婦が経営する大阪のソース製造の会社に就職することになり、夫の実家に引っ越してくる。姑が一人で住む実家は、足の踏み場もないほど、ガラクタで埋め尽くされていた…。今回は、ドタバタのホームコメディか、と思っていたら、けっこうシリアスな展開になっていく。それと、語り口が、どことなくホラーっぽい。ひょっとしたら、コメディとホラーは、紙一重なのかも…。

謎の姑。

ゴミ屋敷の主人である義母は、主人公をいじめるモンスター姑…。そこに戻ってきた、夫が前妻との間にもうけたヤンキー娘とヘビメタの恋人。主人公の友人の真理子から預かる子供、萌も、ヌイグルミに取り憑いた幽霊らしき存在と話している…。さらに夫の前妻までが出現する。典型的な大阪のオバチャンである姑も、前妻の子であるヤンキー娘も、なんとなくホラーの登場人物っぽい。姑にも、夫にも、その行動にどこか不自然なところがあり、奇妙な同居生活が始まる。家中を埋めつくすガラクタが鍵になって展開していくのかと思いきや、主人公の知らなかった、家族のさまざまな秘密が明らかになっていき、ドロドロの愛憎ドラマへと展開していく。

やっぱりホラーな展開へ。

著者は、夫婦や親子、恋人同士の愛憎など、パーソナルな世界のリアリティから物語を築き上げていくタイプの作家なのかもしれない。タイトルや導入部は、コメディを思わせ、ストーリーが進んでいくと、シリアスな展開に変化し、殺傷沙汰を含むクライマックスへ。このままホラー小説か、犯罪小説につき進んでいっても違和感なさそう、と思いながら読み進んでいく。ひょっとしたら、尼崎の監禁殺人事件みたいな話になっていくのかと思ったが、最後はホームドラマの枠の中に収まって、ジ・エンド。ちょっと肩すかしな読後感。でも、この作風は嫌いじゃない。しかし著者には、やっぱりホラーが合っているような気がする。バリバリの大阪のオバチャンがモンスター姑として登場するホラー小説を書いてほしい。きっとハンパないこわさだ。まだ読んでいない2作品「ファントムペイン」「ストーミーマンデー」も読んでみよう。

加藤典洋「村上春樹は、むずかしい」

友人である原さんのおすすめ。デビュー作「風の歌を聴け」から「女のいない男たち」まで、村上春樹の作家活動の全容を新書250ページ余りで一気に語りつくす。著者は村上春樹の作家活動を「初期」(1972〜82)、「前期」1982〜87)、「中期」(1987〜99)、「後期」(1999〜2010)、「現在」(2011〜)に分けて考察する。作品だけでなく、同時代に活躍した他の作家や、当時の社会現象や時代の空気まで含めて、詳細に考察していく。

村上春樹は、東アジアの知識人に読まれていない。

著者が本書を書こうしたきっかけが興味深い。村上春樹という作家は、日本の、いわゆる純文学の世界からは評価されていないが、若者を中心とした読者に圧倒的に支持 されており、海外でも多くのファンを持つ人気作家である。近年、ノーベル文学賞の候補になるなど、逆輸入という形で、国内でも、村上を評価する動きが出て きている。しかし著者は、東アジア圏の高度な読者たち(作家。研究者、翻訳家等)の間では、村上春樹が驚くほど読まれておらず、リスペクトもされていない ことを知って、ショックを受ける。本書は、著者が、あらためて村上春樹の文学的達成を検証しようとした試みであるという。

40年ぶりの再読。

本書を読むことは、村上春樹を継続して読んできた人間にとっては、20代から現在までの自分の人生をたどり直すような読書体験でもある。しかし「風の歌を聴け」をはじめとする初期作品を読んだのは30年以上も前のこと。ストーリーもほとんど覚えていないので、本書における著者の考察にいまひとつ納得できなかった。そこで、本書で取り上げられたいくつかの作品をもう一度読んでみることにした。初期の三部作「風 の歌をお聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」と、本書の中でも考察されている短編集「中国行きのスロウボート」、そして「ノルウェイの 森」を再読した。

30年以上前、最初に「風の歌を聴け」などの初期作品を読んだ時は「ヴォネガットブローティガンの真似じゃん」と反感を感じながら読んだことを覚えてい る。村上春樹の文章が、当時、第一次戦後派や第三の新人内向の世代などの作家たちを読み続けてきた僕の感覚とは、あまりにかけ離れていたせいだった。同 じ頃、SFファンだった僕は、ヴォネガットにハマっていて、その延長線上で、ブローティガンサリンジャー、アップダイクを読むようになっていた。だから、 村上春樹の文体にも、ほんとうは違和感はなかったはずだが、日本人がそんな文章を書くのは許せないと拒否反応を起こしてしまった。一度そう思いこんでしまうと、どの作品を読ん でも批判的に読んでしまう。そんな読み方が「アンダーグラウンド」の時代まで、実に20年以上も続いたのだ。今回、再読してみて、昔ほどの拒否反応は出なかったが、なぜ、この文体でなければならなかったのか、という違和感はやはりあった。

否定の否定」は「肯定の肯定」。

著者は、デビュー作「風の歌を聴け」を、日本の戦後の文学史に現れた、最初の、自覚的に「肯定的なことを肯定する」作品だったという。近代の文学は、国家や富者、身分制など、既成の権威や権力を否定するところから始まったという。ツルゲーネフの「父と子」から、明治維新における島崎藤村の「破戒」「春」などの自然主義文学、白樺派私小説、さらに戦後文学につながる純文学の系譜は、もとをただせば、否定性の一点から始まっているという。「肯定的なことを肯定する」とは、文学の否定性への依存を断ち切ることであった…。そして70年代の終り、否定的なことを無自覚に否定する、単に肯定的な気分が社会に支配的になっていく。否定性に依存する純文学の世界は、世の中から「古めかしいもの」「暗いもの」として忌避されるようになる。「風の歌を聴け」では、そんな否定性(鼠)の没落をいち早く受け入れながら、没落していくものを悲哀に満ちたまなざしで見送る。この作品は、その一点において新しかった、という。はるか昔に読んだこの作品に対する著者の考察は、一応理屈は通っているものの、完全に納得したわけではない。しかし、「鼠」が近代の否定性の象徴であり、その没落を描いたという指摘は、新しい視点だと思う。

著者の「深読み」しすぎ。

こんな調子で、著者は村上作品を読み解いてゆく。その解釈は、時として「それは深読みしすぎだろう」というところまで展開してしまうが、一応ロジックは通っていると感じた。例えば、初期の短編「ニューヨーク炭鉱の悲劇」が、学生運動の陰惨な内ゲバを表現しているという著者の考察は「深読みしすぎ」と感じるが、改めて初期作品を読んでみると、その背景に、学生運動の暗闘や、連合赤軍内ゲバのイメージが暗騒音のように響き続けているのは間違いないように思われる。

自閉と物語の希求。

僕自身の解釈を述べると、初期3部作における「鼠」の苦悩は、革命か何かのような、大きな物語を求めながら、そこに飛び込んでいけず、深い空虚を抱えて自滅していくしかない現代人の典型的な苦悩を描いたのだと思う。それに対して主人公は、自滅への道を選ばず、ビールを飲んだり、音楽を聴いたり、本を読んだり、女の子とつきあうという、日々の些細なルーティンを延々と続けることで、自閉しながら、自らは動かず、何かの物語を待ち続ける…。そして物語は、いつも外部からやってくる。それが「1973年のピンボール」おける伝説のピンボールマシン探しであり、「羊をめぐる冒険」における羊さがしの物語である。しかし、その物語は、あくまでお話であり、どこまでも寓話的であり、生々しいリアリティを感じることはできない。その点が、村上作品に対する大きな不満であった。そして、このお話の世界が、その後の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」や「ねじまき鳥のクロニクル」に展開されていったのだと思う。村上春樹が作り上げる、この「行動しない、自閉した主人公」とつながる「パラレルワールド」の世界を、僕はずっと受け入れることができなかった。変化が現れてきたのは、1995年の阪神大震災地下鉄サリン事件の後だった。村上春樹は、サリン事件の被害者たちに直接インタビューを行い、「アンダーグラウンド」として出版する。さらにオウム真理教の元信者たちにインタビューを行った「アンダーグラウンド2 約束された場所で」を出版する。このインタビューによって出会った、普通の人々や元オウム信者たちが、村上の自閉した世界の扉を開いていったのだと思う。

阪神大震災、オウム以降。

著者が転換期と呼ぶ「アンダーグラウンド」「神の子どもたちはみな踊る」「アフターダーク」などのを経て、後期に入った村上春樹は、「1Q84」という意欲作にとりかかる。僕は、この作品が、村上春樹が初めて、戦うべき「敵」を見つけだし、書こうとした作品だと思っている。著者によると、村上春樹は、書くべき大きな主題を見つけ、動き出したのだという。しかし、「1Q84」は未完のままに終わり、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の旅」では、大きな主題は書かれていないという。後期以降の村上作品に対する著者の不満や期待は、僕も同調する。

この1カ月ほど、本書にはじまり、村上春樹に関する本ばかり読んでいた。最後に「村上春樹イエローページ」の1、2も読んでみた。その中での著者の「深読みぶり」は驚くばかりである。本書での、著者による、村上春樹作品の評価が正しいかどうかは僕にはわからない。また著者のいうように村上作品が漱石や大江につながる日本文学の到達点であるかどうかという点も納得できたとは言えない。しかし、自分と世代もそう離れておらず、ほぼ同時代を生きてきた作家として、村上春樹は、僕の中でこれからも大きな位置を占め続けるだろう。